作品成立・主題とは? わかりやすく解説

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作品成立・主題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 08:17 UTC 版)

砂の女」の記事における「作品成立・主題」の解説

安部は、『砂の女執筆のきっかけについて、弘前大学での講演旅行車中週刊誌読んでいたところ、飛砂の被害苦しめられている山形県酒田市に近いある海辺部落浜中)の、グラビア写真見た安部は、その瞬間に「いきなり〈言葉〉の群が、何処からともなくをふき、生い茂り、たちまちぼくの意識を完全に占領してしまっていた」と振り返っている。 なお、『砂の女』は、短編小説『チチンデラ ヤパナ』(1960年)を長編化したもので、第一章の1から7の半ばまでは『チチンデラ ヤパナ』と重なっている。安部は、同年9月1日新潮社出版部谷田昌平から、『チチンデラ ヤパナ』を発展させた「純文学書下ろし長編小説」の執筆依頼を受け、2年近くかけて『砂の女』を完成させた。 安部は、砂の研究生涯をかけたあるヨーロッパ人について言及し、砂の神秘や砂の魔力を、「とらえずにはいられないという、人間精神根底にひそむあるものを、たくまずして暗示しているのではないでしょうか」と述べ自身そういった本を書いてみたいという思いで、『砂の女』を書き始めたまた、〈砂〉について以下のように語った後、小説砂の女』では「現代のなかの砂」を描き映画砂の女』では「砂のなかの現実」を描いたものといえると解説している。 「砂」というのは、むろん、女のことであり、男のことであり、そしてそれらを含む、このとらえがたい現代のすべてにほかありません。だが、小説書きあげても、「砂」はまだ私をとらえたまま、はなしてくれようとしませんでした。 — 安部公房「砂のなかの現実また、砂の女』で追求した〈自由〉の主題について安部は、以下のように語っている。 鳥のように飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ埋もれていく、ある貧し海辺の村とらえられ一人の男が、の女と、砂掻き仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘い通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてなければ、おそらく希望の味も分るまい。 — 安部公房著者言葉――『砂の女』」

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 22:06 UTC 版)

薔薇と海賊」の記事における「作品成立・主題」の解説

構想母胎は、三島ニューヨークで見たロイヤル・バレエ団(旧・サドラース・ウエルス・バレエ団)の『眠れる森の美女終幕のディヴェルティッスマンからの着想である。当初は『月のお庭』という題にする予定だったが、『薔薇と海賊となった三島は、『鹿鳴館』を「ロマンチックな芝居だとすれば、『薔薇と海賊』は、〈私流にずつとリアリスティック芝居〉だと述べ、『薔薇と海賊』の主題関わる薔薇〉については、次のように解説している。 世界虚妄だ、といふのは一つ観点であつて、世界薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな言ひ直しはなかなか通じない目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き誰もよく見てゐるのに、それでも「世界薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、あまつさへ哲学者として尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない本曲女主人公阿里子は、身を以て、生活を犠牲にして、この不合理に耐へて来た女である。それがこの不合理ものともせず、「世界薔薇だ」と言ひ切る、少々イカれた青年の突然の訪問をうける。二人の間に恋が生れなかつたらふじぎである。 — 三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」 また眼目は、ラブ・シーンにあるとし、その感情は「真率で、シニシズム自意識羞恥懐疑も一つのこらずその場から追つ払はれてゐなければならない」として、以下のように、説明している。 それは甘い、甘い、甘い、糖蜜よりも、この世一等甘いものよりも甘い、ラヴ・シーンなければならない。この喜劇の中で、ラヴ・シーンだけは厳粛なければならない。なぜならこの芝居における人を笑はせる要素はすべて、それによつて瀉血療法のやうに、現代人笑ひたい衝動鬱憤全部瀉血せしめて以てラヴ・シーンの純粋性を確保するために、企まれたものだからである。私はわざと本曲に、「喜劇」銘打つことを避けた。 — 三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」 1970年昭和45年10月再演された際に三島は、主演村松英子に、「随分前に書いた芝居だけど、僕はいつも25年は早すぎるのかなあ」、「最近ますます、何て世の中海賊ばかりだろうって思うよ」と語っていたという。

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喜びの琴」の記事における「作品成立・主題」の解説

三島由紀夫は、公安活動という〈地味で、扱ひにくい題材用ひて、観客アッといはせるやうなスリル富んだ面白芝居書いてやれ〉という意気込みだったとし、素材地味だから、背景事件派手にしたと述べている。 芝居といふものは、絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ、といふ確信は、近松門左衛門が、「虚実皮膜ノ間ニアリ」と言つてゐるとほりである。この「喜びの琴」も例外ではないのに、かた苦し一面ばかりが世間喧伝されてしまつたと思ふのである。「喜びの琴」は、扱つてゐる世界が、公安警察といふぢみなものであるだけに、それだけに、芝居技巧はいつそうはでにしてある。技巧だけからいへば、私の芝居の中で、もつとも華美な部類属するといへるかもしれない。 — 三島由紀夫「私がハッスルする時―『喜びの琴上演感じ責任」 また三島は、『喜びの琴』の主人公若い巡査片桐を〈一面気の毒な存在であるが、一面幸福な人間である〉とし、彼が受ける裏切りと、作品主題について以下のように解説している。 彼はその純粋な生一本心情によつて、誰からも愛されてゐる。同僚から愛され上司から愛されてゐる。しかし彼は、もつとも信頼する上司から裏切られて、見るも無残な目に会ひながら、なほその裏切りの彼方から自分愛されてゐることに気づかない。それはもつとも厳しい、もつとも苦い愛であるが、彼は知らずに(怒り憎みながら)、この愛のなかを通りぬける。片桐ばかりではない。われわれはしじゆう体を貫いてゐる宇宙線に気づかぬやうに、この種の愛、この種の恩寵気づかないのである片桐はこの愛によつて、一旦、すべての目的理想を失つた地獄叩き込まれる。そして川添巡査琴の音の力で、地獄から這ひ上るとき、はじめて彼は自覚的人間になるのである。この琴の音が何であるかについては、私はわざと注解加へない。 — 三島由紀夫「『喜びの琴』について」 なお、三島1963年昭和38年2月評論林房雄論』を発表しているが、同時期に発表され他の作品との関連について、〈僕の考え批評の形で出したのが『林房雄諭』だし、小説にしたのが『午後の曳航』や『剣』で、『喜びの琴』はその戯曲といふことになります〉と述べている。

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幽霊はここにいる」の記事における「作品成立・主題」の解説

安部公房は、『幽霊はここにいる』の成り立ちについて、「幽霊という観念というか観念としての幽霊というか――それがだんだんつつめられていって、ひどく物質的な幽霊になった」とし、現代世の中動きが、すべて「商品価値というものに解消していく」状況触れつつ、そういう動向のなかに、はまり込んだ幽霊、つまり「実体のない純粋な商品」のことだと説明し、「じつにナンセンスな世界だが、これが現実でね。そこから人間結局はのがれていないんだということを、一度洗いだして客観視してみようということでね」と説明し、以下のように語っている。 直視すれば、グロテスクな世界なんだが同時にひじょうに、日常的であたりまえのことなので、人々は気づかずに暮らしている。空気みたいに、気がつかずにね――でも、よく考えてみたら、何から何までとにかく商品世界だ。人間だって商品になってしまってね。それはもう、人間名声ってなものだって、商品価値をともなわなかったら成立しないわけですよ。マスコミなんていったって、全部やっぱりそれがうごくたびに何処か資本蓄積されいってるんだ。あんまり当りまえだから、見えなくなってしまっているけれども、――その、それを当りまえだとして、気がつかずに生きているってことのグロテスクさ、そういうところにひっかかってもらいたいんです。 — 安部公房稽古場にて――安部公房千田是也氏にきく」 また、通行人コーラス使っている点については、「物体としてのリズムみたいなもの」が頭にあり、ミュージカルらしくないミュージカルというものを意識した述べている。 さらに安部は、作品内活躍するのは必ずしも一人だけの幽霊ではないことが分ってもらえるだろうとし、その無数の様々な種類幽霊たちが、各人思惑それぞれに活躍する様相は、実際この世が、「無数の幽霊たち充満している」という意味だと説明し、しかし「素朴な合理主義者たち」は、それを〈正体みたり枯尾花〉などと言って幽霊軽蔑することを例にとりつつ、「枯尾花はけっして幽霊正体ではない。樹氷シン木の枝であっても木の枝はけっして樹氷正体ではないように、枯尾花幽霊単なるシンにすぎないのである幽霊正体は、もっと複雑なものだ」と主張し作品主題の〈幽霊〉について以下のように語っている。 この芝居では、はじめ幽霊は、死者記憶である。死者記憶がなぜ幽霊になるのかというと、まだ論理化されていないものが、論理化を求めて私たちにせまるからである。論理化されしまえば、たいていの幽霊消えてしまう。幽霊とはそういうものだ。ところが、この幽霊が、そのうち商品として金もうけ道具にされてしまう。すべて一度商品という門をくぐって社会的存在物になるのが、資本主義社会しきたりであることを考えれば幽霊取引きされたって、なんの不思議もないわけだ。というより、商品そのものが、すでに物質界幽霊存在なのではあるまいか。幽霊とはまた、こういうものでもあるわけだ。だが、幽霊究極的正体については、観客皆さんの、芝居をみおわってからの究明おまかせしようと思う。 — 安部公房作者のことば――『幽霊はここにいる』」 演出担当した千田是也は、芝居仕組について、「はじめ幽霊というものが歴史的人間的な意味をもっていたのに、そういう実体的なものが希薄になって、商品としての機能の方がどんどん膨らんでしまう」と述べている。安部はそれを敷衍し、登場人物深川空想中において、「幽霊意外にリアリスティック欲望持っていく」という点に、「人間人間の関係、どっちが先かという問題暗示」、「関係のない人間はいない」ということがうまく芝居出ればいいとし人間関係作り出す幽霊変質実体なくなりながら力だけが強くなってゆくという風に、「幻想再生産する力」を幽霊もっている説明しながら、以下のように語っている。 死人というものは、たとえば共同体存立させてる空間性にたいする時間性というふうにも考えられる思いますよ。死者一般ですね。単に経済的な現象として幽霊的なものにかきまわされているっていうだけじゃなくて人間というものが、他人を鏡にして自分があるという関係、それから歴史性というものも現代写しだしてはじめ可能になる共同体というものも要するにそれを写しだして実体化しうるものが、逆転していろんな意味での幽霊つくりだされ、それがむしろ根元になるということですね。そういう最初から実体化されてしまうというカラクリみたいなところまである程度テーマのびればいんじゃないかと思うんです。 — 安部公房千田是也との対談)「『幽霊はここにいる再演」 なお、『幽霊はここにいる』は、1957年昭和32年5月頃に執筆された未発表小説人間修行』と、同年12月頃にそれを戯曲化した未発表戯曲仮題人間修行』(メモ)を発展させた作品であるという見方もある。

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友達 (戯曲)」の記事における「作品成立・主題」の解説

友達』は、1951年昭和26年)に発表され小説闖入者』を元にした戯曲であるが、テーマプロットは『闖入者』とは異なっている。なお、1974年昭和49年)の改訂版友達』では、登場人物一家の「祖母」が「祖父」に変更され、「元週刊誌トップ屋」がなくなり、「婚約者の兄」と「三男」が加わったまた、初出版では、タイトル横に「黒い喜劇」と銘打たれている。 安部公房は、『友達』と『闖入者』の異なる点については、『闖入者』の「闖入者」たちは多数原理民主主義)を暴力合理化利用し主人公はその多数神話毒されている故にそれに逆らえ自己矛盾の罠におちいるという「受身犠牲者」にとどまるが、『友達』の「友達」たちは、主人公忠実すぎる従僕役割引受け、その協調連帯和解原理により、主人公は常に「外面的に優位を保つ」ことが出来るとしながら、以下のように、その関係構造解説している。 その過剰な忠実さ友情押し売り盲目的な連帯への信仰が、クモの糸のように主人公窒息させてしまうのだ。「友達」たちは、終始犠牲者立場よそおいながら、そして主人公は、あたかも加害者立場立ちながら結果はまった逆になってしまうのである。この皮肉と、苛立たしさこそ、まさに現代笑いなのではあるまいか。 — 安部公房友達――『闖入者』より」 『友達』のテーマについては、「他人とはなにか、連帯とはなにか」だと安部述べ共同体原理が全く無効になっている現代における人間連帯について以下のように説明している。 われわれは被害者であるだけでなく加害者でもありうる。そして、被害者であるか加害者であるかということ区別するものはない。“友達”の主人公にしても被害者でもあるが、また、ちん入者たちにとっては加害者でもありうるわけです。だからといって、僕は絶望してるわけじゃない人間連帯という、すでに回復しえないものを回復しようとするのは絶望的だということ指摘したいんです。連帯とか隣人愛とかいいながら仲間割れしている現状告発したいんです。 — 安部公房談話記事 戯曲三本がことしの舞台へまた、友達』の長女は「肉体的な愛」、次女は「精神的な愛」を、「主人公求め、また与えたいと望む」と説明し、「主人公立場は、彼女たち好意善意利用しようとすることによって、いっそう複雑なものになる」としている。そして、「次女は、脱出助けるふりをしただけではなく本当に助けてくれたのかもしれない。死以外に、もはや真の脱出の道が無かっただとすれば……」と安部解説している。 なお、観客の反応については、おそらくこの芝居を観てよく笑うだろう安部予想しながら、「しかしこの笑い舞台に対して笑いではなく、実は自分笑っていると感じていただければ芝居成功だと思う。皆さん、よく笑って下さい」と述べている。

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未必の故意 (戯曲)」の記事における「作品成立・主題」の解説

未必の故意』は、テレビドラマ目撃者』(1964年)を戯曲化したものである。『未必の故意』『目撃者』は姫島村リンチ殺人事件素材としている。 安部公房は『未必の故意』の主題について、「孤独恐怖というものが一種連帯幻想をつむぎ出していって“他者”というものをつむぎ出していく、したがって共同体というものは、内的な孤独投影としてつむがれていくわけだ」とし、ラストシーン消防団長という人間の、「むき出し孤独の姿」を描いた述べている。安部は、「そこまでブレヒト流の客観的な手法進行してきたものが、最後カタストロフィーで、ギリシャ悲劇風の内的な進行変るようにしたんです」と説明している。 また安部は、俳優が「演じ島民」を演じるという構造について、「今度芝居ある意味では本格的素人芝居ですよ、要するに、役者がやるのではなくて素人一つ演劇的な構築を作らざるを得なくなっているわけでしょう。だから、そういう現実の場で一つ演劇作られてゆくプロセス俳優がやって見せということでもあるんだよ。だから、これは〈演劇とは何か〉という主題でもあるんだよ」と述べ、それは「極端に言えば二重演劇演じなければいけないということ」で、俳優がそれを「生理的」に把握しなければならず、「自分自身つかまえると同時に、完全に自分でない反自己というか自分から完全に離れたものとを同時に把握しないとあのリアリティ出ない」とし、俳優演技二重構造について解説している。そして作中の〈裁判ごっこ〉(模擬裁判)を通じて俳優が「演ずるとは何かを演ずる」という劇中劇その手法について、以下のように解説している。 文学では書くこと自体対す問いかけを書く、という手法は、これまで幾つもあった。芝居ではピランデルロ似たようなものがあるくらいで、そんなにいんじゃないかな。“ごっこ”と言ってもよくあるように、何もないところからゲーム作り出すというのではなく実際に起きたことをフィクションとして置き替えようとするわけだから、いわば事実持ってる相対性逆用することになるでしょうか。 — 安部公房井川比佐志との対談)「作家俳優出会い」 なお、京都労演の際に、登場人物呼称について身体障害者関係者から抗議文が寄せられた。それに対して演出千田是也1972年昭和47年4月、「京都労演誌上で、『「人間忘れた未必の故意」におこたえ』と題して答えている。

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第四間氷期」の記事における「作品成立・主題」の解説

安部公房は、『第四間氷期連載半年前に作品構想について以下のように語っている。 技術が自然よりも人間方に向って進む場合、たとえば、この次にぼくはそういうこと書こう思っているのですが、一番大きな変り方は――もちろん妄想ですが――水中生活に人間がもどる場合です。それは胎児のときに人間があるでしょう人工海中生活ができるようになる温度は差がないでしょう資源無限にある。海の方がずっと生活が合理的にできる。地球はだんだん暖くなって、北極の氷がとけて、大きな山の頂上だけが残るということならないとも限らない人工衛星乗ってどこかに行くこともできるけれども、人間加工して水の中入れて水中生活をするということ考えられるそうすると人間感情変る。同じ人間といえるかどうかわからないが。 — 安部公房荒正人埴谷雄高武田泰淳との座談会)「科学から空想へ――人工衛星人間芸術」 そして連載後、主題関わる未来」と現在の関係については、以下のように語っている。 未来は、日常的連続感に、有罪宣告をする。この問題は、今日のような転形期にあっては、とくに重要なテーマだと思い、ぼくは現在の中に闖入してきた未来の姿を、裁くものとしてとらえてみることにした。日常連続感は、未来を見た瞬間に、死ななければならないのである未来を了解するためには、現実生きるだけでは不充分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならないのである。 — 安部公房あとがき」(『第四間氷期』) 安部は、「現在に、未来価値判断する資格があるかどうかすこぶる疑問で、現在にはなんらかの未来を否定する資格がないばかりか肯定する資格もない」と思うとし、「真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶向うに、〈もの〉のように現われる」と考察しつつ、室町時代のような過去の人間の視点から見た現代がどう映るかを、現代人から見た未来重ねて、「おそらく、残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来ということで、すでに本来的に残酷なのである。その残酷さ責任は、未来にあるのではなく、むしろ断絶を肯んじようとしない現在の側にあるのだろう」と語り、以下のように説明している。 未来が「今日」のつみ重ねによって作られたとしても、未来が「今日」に属しているとは限らない。たとえば、石器時代人間現代現われたとして、彼は現代地獄だと思うだろうか、それとも極楽だと思うだろうか。どう思ったところで、この場合裁いているのは、彼ではなく、やはりあくまでも時代の側なのである。(中略生きるということはけっきょく未来中に自分思い描くことかもしれない。そして未来かならずやって来る。だが、そのやって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらないのだ。 — 安部公房「『今日』をさぐる執念また、第四間氷期』を執筆中、安部自身未来との「断絶」の残酷さ苦しめられ、その残酷さから完全にのがれることが不可能なことを知ったとし、以下のように語っている。 この小説から希望読みとるか、絶望読みとるかは、むろん読者の自由である。しかしいずれにしても未来残酷さとの対決さけられまい。この試練をさけては、たとえ未来希望をもつ思想に立つにしても、その希望単なる願望の域を出るものではないのだ。(中略)この小説は、一つ日常的連続感の、死でおわる。だがそれはなんらの納得も、またなんらの解決をも、もたらしはしないあなたは、むらがる疑問に、おしつつまれてしまうことだろう。ぼく自身いまだに分からないことが沢山ある。 — 安部公房あとがき」(『第四間氷期』)

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燃えつきた地図」の記事における「作品成立・主題」の解説

安部公房は、『砂の女』の主人公は〈逃げた男〉だったが、『燃えつきた地図』では逆に追う男〉を主人公にしたとし、「都市……他人だけの[砂漠……その迷路の中で、探偵はしだい自分見失っていく。あえて希望語りはしなかったが、しかし絶望語ったわけでもない。おのれの地図焼き捨てて、他人砂漠歩き出す以外には、もはやどんな出発成り立ち得ない都市時代なのだから……」と説明している。 そして、失踪者捜索依頼者との間にできる「新たな関係」をめぐり、現代社会での人間関係について触れて、「農耕社会での人間関係というのは、どちらかというと宿命論的な結びつきだ。それが産業社会になってくると、もっと可変的なあいまいなものになる。では農耕社会より、結びつきが薄いかというと複雑になったというだけで、本当はむしろ濃いんだな」と語っている。 都市本質イメージが何故〈悪夢〉として形象されるのかについては、「すでに無力になった共同体言葉で、共同体対立物である都市語ろうとするのだから、そのイメージ悪夢めいてくるのも、しごく当然のことなのだ」と説明し孤独に悩んでいる群衆都市言葉持たず、「内部他者喪失した状態」に堕ちこんでいるとし、そこからの「脱出」は都市への方向にしかなく、希望容易くなく絶望は続くが、「その絶望向かってとにかく通路を掘るということ」が、「人間営みというか仕事んじゃないかな」と安部述べている。また、都市化」の急速な進行に伴う自殺増加が「時代病」とされていることを指摘しながら、「なんとか、都市言葉を見つけだし都市孤独病気だと錯覚している、その錯覚挑戦してみたい。いま必要なのは、けっして都市からの解放などではなく、まさに都市への解放であるはずだ」と説明している。 〈失踪〉という主題に関しては、「失踪とは、やはり現在の共同体の中で疎外感をもっている者が逃亡することだと思う」とし、以下のように語っている。 失踪不可というか失踪が意味をなさないほど自由な共同体ができたとき……まあ、これは実際にあり得ないのだけど。失踪によってより強い共同体に入る。つまり失踪じゃなくて失踪から帰ること。このことを「砂の女」で直接テーマしたんだけれども、帰るということと、逃げということは結局意識の中で裏返しになっているだけで、同じことになる。 — 安部公房「〈インタビュー 安部公房氏〉『波』のインタビュー答えて」 そしてそれとは違う、もっと意識的な失踪の例として、或るニューヨーク州知事将来有力な大統領候補とまでいわれた男が失踪しニューヨークでタクシー運転手をしていたというアメリカ記事触れて、この男のような失踪は、かなり「能動的な失踪だと述べている。

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人間そっくり」の記事における「作品成立・主題」の解説

人間そっくり』は、短編小説使者』(1958年)と、テレビドラマ人間そっくり』(1959年)から長編小説化されたもので、事前エッセイでの予告表題は「人間もどきであったという。 安部公房は『人間そっくり』の主題について、人間の胸に付ける「バッジ」、さらには「心のバッジ」ともいえる「人間帰属本能」(小は家族から、大は民族にいたるまでの)に対する、「意地の悪い解剖学的所見あるいは挑戦である」とし、「トポロジー位相幾何学理論」を単に飾りとしてだけでなく、テーマ展開させるための「重要な手段」として、小説中に取り入れてみたと解説している。

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棒になった男」の記事における「作品成立・主題」の解説

第一景「鞄」は、ラジオドラマ男たち』(1968年)を戯曲化したもので、第二景「時の崖」は、ラジオドラマチャンピオン』(1963年)を小説化した『時の崖』(1964年)を、さらに戯曲化したものである。第三景「棒になった男」は、小説『棒』(1955年)をラジオドラマ化した『棒になった男』(1957年)を、さらに戯曲化したものである。 舞台にかける配列は、書かれ順序とそっくり逆になっているが、安部公房によると、3つの景は最初から1本の作品にまとめるつもりで計画的に書いたわけではないが、意識したときには、この3つはすでに1つ作品として目の前に在り何のためらいもなく、ごく必然的にこの組み合わせ受容していたという。 また安部は、「鞄」「ボクサー」「棒」は各景を通じて必ず同一俳優演じなければならない指定し、この3つの役を演じ俳優一見無関係に見える各景を有機的に結びつけ、隠され内部主題あらわにする「鎖の役目」をすると説明している。 戯曲全体のねらいについては、「お化けですよ。人間以外化けものが日常的に存在している現代の状況そのままの形で出す。舞台を鏡のようにして、観客一人ひとりの実像写し出すことをねらってます。観客じっさいに対話はしないが、一種対話劇です」と説明し聞き手金田浩一呂が、第一景では、カバンになった男より、そのカバンをあけることをこわがる女性たちへの風刺劇ともとれるという感想述べたことに対しては、「いや、舞台かければわかりますよ」とだけ答えている。

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緑色のストッキング」の記事における「作品成立・主題」の解説

緑色のストッキング』は、1955年昭和30年)に発表され短編小説盲腸』をテレビドラマ化した羊腸人類』を、さらに戯曲化したものである。また安部は、タイトルを「緑色のストッキング」か、「夢は荒野を……」にするか迷ったという。 原形小説盲腸』を書いた頃の発想について安部公房は、実際自身戦後飢餓状態だった時の経験である、戦後満州からの「引揚者」だったことに言及しながら次のように語っている。 こちらは身寄りいいますか、田舎がある人だったらそこで最低限食べるという、よりどころがあった人もいるわけですが、全くなかったために、金もなかったし、実際食えないという状態が現実にあったことから発想したわけです。僕は多少ひねくれているほうですから、自分そういう経験したという形ではものを書くのはいやで、そういう形をとらない抽象文学だといわれたわけです。 — 安部公房周辺飛行――第94回新潮社文化講演会」 『緑色のストッキング』について安部は、世間話題の「食糧問題」とテーマ重なり合ってはいるが、「これはズーッと前からあたためてきたもの」だと述べ内容は、「ブラックユーモアなどの滑稽グロテスクなもの」を主体にした、「人間関係裏返しに、内臓切り開くような構成」だと解説している。そして、「食って人間」が、滑稽なだけでなく、或る瞬間から「ポエジーというか非人間化した人間の中で、かえって人間性回復してくる」とし、「存在形式異端視されると、その人間が可哀想なんだが、実は異端視している方が……。他者対す不寛容偏見つながってくる」と説明している。 また安部は、草食人間が2時間おきに腹から物凄い音を鳴らすことへの我々の嫌悪感偏見引き出すため、芝居実際に不快な音響効果音使用したとし、そこには、「一人人間が、他者に対して仲間として正統なものとして受け入れるか、あるいは異端として排斥するか」というテーマ基本的にあり、それゆえに、実際にガスが出る音」が、「非常に重要なモーメント」になるとしている。そして男のもう一つ疎外要素下着泥棒について以下のように触れつつ、初め意識していなかった〈ストッキング〉と〈を食う〉というバラバラのものが、「見えない設計図」があったかのように書いていくうちに繋がったテーマについて語っている。 その人間がそういう手術受けて食えるようになった。しかし、これもやはり外れです。そして、ここでストッキングの緑と、ならというものの緑――緑というもので一つ統一シンボルこしらえて、緑というと、平和であるとか、自由であるとか、そういうイメージができるわけです。その静けさ、平和、自由、そういう緑色というシンボル一人人間疎外し飲み込んでいくという構造芝居全体としてとっているわけです。その中に下着対す異常な愛着であるとか、を食うということから派生する二時間おきに猛烈なガス噴出するという悲しむべき事態こういうことで人間が、つまり怪物として人間の中から疎外されていく部分、そこをテーマにしたわけです。 — 安部公房周辺飛行――第94回新潮社文化講演会

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作品成立・主題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 08:41 UTC 版)

熱帯樹 (戯曲)」の記事における「作品成立・主題」の解説

熱帯樹』は、フランスの地方シャトオで実際に起きた事件の話を、三島朝吹登水子から聞き、そこからヒント得て書かれたものであるその事件は、シャトオの主の金持貴族と約20年前に結婚した女が、実はその20年ひたすら良人財産狙い成長した息子に、わかりにくい方法父親を殺させ、やっと長年宿望果たし莫大な財産手に入れていたというものである三島その事件の家族内に起った近親相姦について以下のように説明している。 貴族との間には一男一女があつた。どこまで計画的にやつたことかしれないが、夫人息子年ごろになると、将来彼を一切自分意のまま使ふために、われとわが子の童貞を奪つた。息子はそれ以後心ならずも母の意のままに動かざるをえぬ自分絶望して今度はわが実の妹と関係したのである。 — 三島由紀夫「『熱帯樹』の成り立ち」 そして三島は、この事件受けて創作動機モチーフ)について以下のように解説している。 かういふことは、人間性からいつて当然起りうる事件ではあるが、実際に起ることはめつたにない。事件は、ギリシア劇の中では、かつてアイスキュロスの『オレステイア三部作において、アガメムノン、クリュタイメストラ、オレステスエレクトラ、の一家族の間に起つたのであつたが、それと同じことが現実に、現在ただ今ヨーロッパで起つたといふことは注目に値ひする。この事実はもはや、こんな事件あらゆる場所あらゆる時における再現可能性実証するものだからだ。 — 三島由紀夫「『熱帯樹』の成り立ちまた、熱帯樹』で描かれる兄妹愛について次のように解説している。 それはさうと、肉慾にまで高まつた兄妹愛といふものに、私は昔から、もつとも甘美なものを感じ続けて来た。これはおそらく、子供のころ読んだ千夜一夜譚の、第十一夜第十二夜において語られる、あの墓穴の中で快楽全うした兄と妹恋人同士の話から受けた感動が、今日なほ私の心の中消えずにゐるからにちがひない。 — 三島由紀夫「『熱帯樹』の成り立ち

※この「作品成立・主題」の解説は、「熱帯樹 (戯曲)」の解説の一部です。
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