伊能忠敬 評価の移り変わり

伊能忠敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 03:35 UTC 版)

評価の移り変わり

江戸時代

忠敬についての最も古い伝記は、江戸時代に書かれた『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』の中にある。この書は、伊能家がいかに名家であるかを伝えるために編集されたものであるが、作者や作成時期については分かっていない[注釈 7]。本書ではその性質上、忠敬についても、家の復興に努めて村のためにも尽くしたことが強調された書き方になっている[391]。ただし本書は伊能家のために残された書であり、外部に見せるための伝記ではない[392]

公開された初めての伝記は、文政5年(1822年)に建てられた、源空寺の墓に刻まれている墓碑銘である。この墓碑銘は墓石の左面、背面、右面の3面にわたって刻まれた漢文で、作者は儒学者の佐藤一斎である[393]。その内容は『旌門金鏡類録』を参考にしたものとうかがえる。ただし墓碑銘には、忠敬は西洋の技術を学ぶことによって知識が高まったといった内容が刻まれており、こうした記述は『旌門金鏡類録』にはない[394]。おそらくこの記述については、渋川景佑の本から採ったものと考えられている[395]

弘化2年(1845年)には、佐原出身で縁戚関係にあたる清宮秀堅によって『下総国旧事考(くじこう)』が書かれ、その中で忠敬についても触れられている。この忠敬伝は墓碑銘をもとに書かれているが、忠敬と洋学との関係に関しては記されていない。このことについて小島一仁は、シーボルト事件や蛮社の獄といった、洋学者に対する弾圧が影響しているのではないかと述べている[396]

贈位と遺功表

佐賀藩出身の佐野常民は、長崎海軍伝習所で訓練しているときに伊能図を使ったところ、この地図は正確でとても役に立つことを知った[397]。さらに佐野は、伊能図がイギリス海軍にも評価されていたことなどを知り、元老院議長となったあとの明治13年(1880年)には佐原を巡視し、香取郡長の大須賀庸之助と伊能家の伊能節軒から忠敬についての話を聞いた[398]。そして佐野は明治15年(1882年)9月、東京地学協会において、「故伊能忠敬翁事蹟」と題する講演を行った。

この講演では墓碑銘をもとにして忠敬の生涯を紹介したうえで、伊能図の素晴らしさに触れ、忠敬を偉人として讃えている[399]。この講演は忠敬伝としては初めてのものであると言われており、その内容はその後における忠敬の評価にも影響を与えることとなる[400]

佐野の講演の目的は、忠敬に対しての贈位を申請することと、忠敬の業績に対して記念碑を建設することであった[400]。このうち贈位については、大須賀らの協力もあって、明治16年(1883年)1月、東京地学協会長である北白川宮能久親王の名で申請が出された[401]。そして同年2月、正四位が贈られた。

もう一方の記念碑について、佐野は講演の中で「忠敬が測量の基準とした高輪大木戸に建てるのがふさわしい」と述べ、明治16年の東京地学協会総会で、芝、高輪の大木戸に遺功表を立てることを議決した。その後、建設場所は芝公園に変更となり、明治22年(1889年)に遺功表が建てられた[402]

国定教科書

遺功表が建てられてからは、徳富蘇峰幸田露伴の手による少年向けの忠敬伝が出され、明治20年代から30年代にかけて、忠敬の名は全国に知られるようになっていった[403][404]

明治36年(1903年)、国定教科書の制度が始まると、忠敬はさっそく国語の教科書に採用された。教科書の内容は佐野の講演をもとに書かれており、忠敬の生涯のほか、測量方法についても簡単に述べられている[405]。教科書に載ったことで忠敬の名はさらに広まった。地元の佐原で忠敬を偉人と称えるようになったのもこの頃からである[405]

明治43年(1910年)に国定教科書の改訂がなされると、忠敬は国語の教科書から外され、代わりに修身の教科書に載るようになった。そして内容も変化した。修身教科書では、国語教科書で見られたような忠敬の測量における業績についてはほとんど書かれず、「勤勉」「迷信を避けよ」「師を敬へ」といった表題のもと、忠敬が家業に懸命に取り組んだこと、江戸に出てからは雨や風の中で測量に従事し地図を作ったことなどが記され、最後に「精神一到何事カ成ラザラン」などといった格言で締めるという、精神的な面が強調されるようになった[406][407]。こうした内容の教科書は第二次世界大戦の終戦まで使われた[408]

大谷亮吉による研究

忠敬が国定教科書に採用されたころ、忠敬について書かれた伝記は偉人伝としての要素が強く、測量内容に関する科学的な評価はほとんどなされていなかった。そのような状態のなか、物理学者の長岡半太郎は忠敬に興味を持ち、明治41年(1908年)に開かれた帝国学士院総会において、忠敬の業績を調べるよう提案した。この提案は賛同を得て、長岡の弟子の大谷亮吉の手により調査が始められた[409]

大谷は調査を行いながら、その結果などを発表していった。大正3年(1914年)には大谷の調査結果をもとに、長岡が、「伊能忠敬翁の事蹟に就て」と題する講演を行った。この講演は忠敬の業績のほか、麻田剛立、高橋至時、間重富の果たした役割についても述べており、従来の忠敬伝とは一線を画したものとなっている[410]。そして大正6年(1917年)、大谷はおよそ9年にわたる調査をまとめた書『伊能忠敬』を書き上げた。

『伊能忠敬』は本文766ページの大著で、特に忠敬の測量法や測量精度に関する記述が詳しく書かれている[411][412]。本書はそれまでにないほど精細であり、忠敬研究における決定版ともいわれた[413]。また、これ以後に書かれた忠敬についての本についても、ほとんどは大谷の引き写しだともいわれている[411][413]。本書は大正6年に源空寺で行われた忠敬の100遠忌法要において、墓前に供えられた[414]

また、忠敬没後100年の企画としては、他に佐原の有志による銅像と記念文庫建設の計画があった。結果として寄付額が足りず記念文庫の建設は断念されたが、銅像は大正8年(1919年)、佐原の佐原公園に建設された[415](作者は大熊氏廣[416])。

戦後の忠敬研究

第二次世界大戦の終戦後は、戦前の国定教科書のような、忠敬を偉人として讃える書き方は鳴りを潜め、教科書の記述も簡単なものになった[417][418]。しかし戦前の教育の影響からか、忠敬の知名度は相変わらず高く、忠敬は努力によって偉大な業績を上げたという偉人的な見方も年配者を中心に消えずに残っていた[418][419]

一方で新たな角度から忠敬を論ずる研究者も現れてきた。今野武雄は昭和33年(1958年)に出された本で、それまでの忠敬伝では忠敬の学問に対する情熱と精力がどこからきたのか得心できないと述べ、「忠敬は努力した」という旧来の書かれ方ではその努力の根源が明らかにされていないことを指摘した[420]。また、歴史学者の高橋磌一は、昭和43年(1968年)に千葉県立佐原高等学校で開かれた伊能忠敬翁150年祭の記念講演で「みなさんは、伊能忠敬を、はじめから、えらい人だとか、えらくない人だとか、きめてかかってはいけません」と発言し、忠敬を先入観で偉人として見る感覚を戒めた[421]。また小島一仁は昭和53年(1978年)に出された本で、従来の偉人伝としての忠敬伝を批判した[422]

さらに、伊能図の科学的な研究も進んだ。この分野においては大谷の『伊能忠敬』が圧倒的であり、昭和43年(1968年)に東京地学協会で行われた講演において保柳睦美は、「今日まで、忠敬の業績に関する科学的研究は、大谷氏のものが最後といってよい」と発言するほどであった[423]。しかし保柳はこの講演で、大谷の研究は「独断や誤解のみならず、考察の不十分な点がところどころに発見される」と語り、大谷を批判した[424]。一例として、伊能図における経度方向のずれに関する見解があげられる。大谷は、伊能図はサンソン図法によって描写されており、その投影方法が間違っていたことが経度方向のずれの原因の1つになっていると述べ、この地図投影方法を「大失態」と評し、忠敬および高橋景保を非難している。しかし保柳は大谷に反論し、経度のずれについては、伊能図は経緯線こそサンソン図法と同じだが、地図自体はサンソン図法によって描いたものではなく、両者の違いが経度差となって現れたためだと大谷の誤りを指摘した。そして、幕府の要求は海岸線の測定などが主であって経線は重要視されておらず、当時の日本の研究水準などを考えても、このことについて忠敬をことさらに非難するのは間違っていると主張した[425]。保柳らの研究活動はのちの昭和49年(1974年)に『伊能忠敬の科学的業績』としてまとめられた。

また千葉県は昭和48年(1973年)、忠敬の手紙をまとめた『伊能忠敬書状』を出版した[424]

『四千万歩の男』と新たなる忠敬像

井上ひさしは昭和52年(1977年)、それまで小説に登場する機会がほとんどなかった忠敬を主人公にした小説『四千万歩の男』を『週刊現代』に連載した[426]。井上が忠敬に特に関心を持ったのは、隠居後に新たな挑戦を始める、「一身にして二生を得る」という生き方だった。井上は、平均寿命が延びた時代において、退職後の人生を送るにあたって忠敬の生き方は手本になると述べている[427]

このように、高齢化社会という時代性から、「第二の人生を有意義に送った忠敬を評価する」という見方はこのころから広まるようになり、忠敬に対する人々の関心も高まっていった。『四千万歩の男』はその一つの要因と考えられている[428]。このような忠敬の捉え方はその後も続き、忠敬は「中高年の星」「人生を2度生きた男」とも呼ばれるようになっている[429][430]

イベントの拡大

電電公社(現・NTT)に勤めていた渡辺一郎は、仕事で日本地図を毎日眺めている間に忠敬に対して興味を持ち、そして国立国会図書館で伊能図を見て感激したことがきっかけで、忠敬の研究を始めた[431]。そして平成7年(1995年)には伊能忠敬研究会を結成した[432]。研究会の活動などによって、1990年代後半から2000年前後にかけて、忠敬に関するイベントがいくつも開催された。平成10年(1998年)4月10日、朝日新聞社は創刊120周年記念事業として、徒歩で全国を回る「伊能ウォーク」を主催すると発表した(日本歩け歩け協会(現・日本ウォーキング協会)、伊能忠敬研究会との共同開催)[433]。このイベントでは、忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。平成11年(1999年)1月25日から平成13年(2001年)1月1日までの開催期間中に、16万人以上の一般参加者が参加した[434]

また、平成10年(1998年)4月21日から6月21日まで、江戸東京博物館において、伊能忠敬展が開催された。この展覧会では11万1,399人の来館者を集めた[433]

一方、忠敬生誕地の九十九里町では、伊能忠敬記念公園が整備され、忠敬の銅像が作られた。佐原市(現・香取市)においても新しい伊能忠敬記念館が建てられ、1998年5月22日に開館した[435]。当地には伊能忠敬旧宅が保存されており、江戸時代の風情を残す佐原の町並みの一部をなしている。

伊能忠敬研究会がによる没後200年記念誌『伊能忠敬 日本列島を測る 後編』(2018年)掲載の調査結果によると、伊能忠敬を顕彰する記念碑や案内板などを、北は北海道別海町から南は鹿児島県南種子町まで190基以上ある[416]

ほかにもこの時期に、忠敬が主人公の演劇、映画が公開されている。また、平成13年(2001年)にアメリカで発見された伊能図の写本などによって伊能図の全貌が明らかになったことにより、原寸大の伊能図を並べて展示するイベントが開かれるようになった[436]

現在

伊能忠敬海上引縄測量之碑(岩手県釜石市)。忠敬測量200周年を記念して、2001年9月23日に建てられた[157]
伊能忠敬銅像(2020年6月)

平成22年(2010年)、伊能忠敬作成の地図や使用した測量器具、関係文書など2,345点が、「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有する」として、「伊能忠敬関係資料」の名称で国宝に指定された。これらは伊能家に伝来したもので、香取市の伊能忠敬記念館に保管されている[437][438]

現在の佐原において、忠敬の名は忠敬橋などに見られる。また、原付のデザインナンバープレートにも採用されている[439]

現代における忠敬の人物としての評価については、先に触れた二度の人生を生きたということのほか、渡辺一郎は、忠敬は才能こそあったものの、偉人や天才ではなく普通の人だったと述べたうえで、「ただ、いささか好奇心が強く、凝り性で、根気がよい性格だった」と評している[440]。また星埜由尚は、「愚直なまでの忍耐と努力」を挙げたうえで、17年にわたって愚直に測量を続けたことは公共性(世のため人のため)という観念もあったのではないかとして、忠敬の生き方を、効率化や自らの利益が重視される現代におけるアンチテーゼとしてとらえている[441]

平成28年、伊能忠敬研究会が、忠敬の測量事業において協力した各地の人物を公表した[442][443][444][445]。これは忠敬の日記を基に作成されたもので、忠敬没後200年の節目の記念行事(交流顕彰発表会)を行う予定である。

2018年にはバーチャルリアリティ(VR)作品『伊能忠敬の日本図』が東京国立博物館凸版印刷により制作・上映された[446]


注釈

  1. ^ 地元などでは親しみと尊敬の念をこめて「いのう ちゅうけい」とも称されている[1]
  2. ^ 本段落の内容については当時の複数の文献でも多少の差異がある。詳しくは渡辺編(2003) pp.76-81を参照
  3. ^ 忠敬の分家としては、子孫に金沢工業大学土木工学科客員教授の伊能忠敏らがいる(伊能(1991))。
  4. ^ 清宮家は伊能家とは直接の血縁はないものの、清宮家の初代当主は伊能三郎右衛門家2代目である景常の後妻の連れ子であり、継父の支援で清宮家を興したと伝えられ、両家はそれ以来の深い関係を有していた(千葉県(2008) p.346-347)。
  5. ^ 海保景文に伊能景晴(茂左衛門家当主、楫取魚彦の曾孫にあたる)の次女を娶せて、三郎右衛門家の祭祀を継がせた(『千葉縣香取郡誌』(1921年刊行の復刻版)、崙書房、1972年、P782-783.「伊能景晴」)。
  6. ^ シーボルト事件」において、紅葉山文庫にある伊能図を写させたことが原因で、何人か罪に問われ死亡している。
  7. ^ 作者は忠敬本人という説もあるが、小島一仁はこれに反論し、息子の景敬によるものではないかと述べている。

参照元

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