伊能忠敬
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測量方法
忠敬が測量で主に使用していた方法は、導線法と交会法である。これは当時の日本で一般的に使われていた方法であり[310]、実際に測量作業を見学した徳島藩の測量家も、伊能測量は特別なことはしていないと報告している[311]。当時の西洋で主流だった三角測量は使用していない[311]。
忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことにある[312][313]。
導線法・交会法
導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに梵天(竹の棒の先に細長い紙をはたきのように吊るしたもの)を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めていく[312][314]。
導線法を長い距離にわたって続けると、段々と誤差が大きくなってくる。その誤差を修正するために交会法が使われる[312][315]。交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は一点で交わるため、この方法で導線法による誤差を確かめることができる[312][316]。
さらに忠敬はこれに加えて、富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の法などを活用している[317]。
天体観測
測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、地図の精度が向上する。このことは忠敬が測量を始めるおよそ80年前に建部賢弘が指摘していた。しかしそれを実行に移したのは忠敬が初めてである[313][318]。忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測を行うようにしており、宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。全測量日数3,754日のうち、1,404日は天体観測を行っている[319]。主な観測内容は、恒星の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである。また、文化2年(1805年)に家島で彗星を見たという記録が残っている(ビエラ彗星と推定される)[320]。
恒星の南中観測
恒星が南中したときの地平からの角度を測る。この角度と、予め江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる[318][321]。しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しい。そのため忠敬らは、多いときには1日で20個から30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた[322]。
また、日中に太陽の南中を観測することもあった。これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという目的もあった[321]。
基準となる江戸での観測は、忠敬の自宅がある深川黒江町で行った。この観測にも注意を払い、1つの星に対して数日から数十日かけて観測を続け、観測誤差が少なくなるようにした[323]。
日食・月食の観測
日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的で行われた。
経度を求めるのは緯度を求めるのと比べて格段に難しい。西洋では18世紀の終わり頃に、クロノメーターや月距法を利用した経度測定方法がようやく確立してきていた。しかし当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなかったため、忠敬は主に伝統的な日食・月食を使って経度を測定していた[324]。
方法としては、まず日食・月食が起きる前日までに太陽の南中を観測し、垂揺球儀(後述)を起動させる。そして当日、日食や月食を観測し、時間を記録する。このとき、江戸の暦局と大坂の間家(間重富の家)でも観測を行っているため、日食・月食が起きた時刻を3か所で比較することで、経度の差が求められる[325]。
とはいえ日食や月食を観測できる機会は少ない。忠敬らは少ない機会を逃さぬようにするため、食が起こる7日ほど前に現地に到着し準備していた。しかしそれでも当日が雨や曇りの場合は観測できず、たとえ晴れていて観測できたとしても、江戸と大坂が曇っていれば意味がなくなってしまう。忠敬は測量中、日食や月食を観測できる機会が13回あったが、そのうち2か所以上で観測できたのは5回、3か所全てで観測できたのはわずか2回だった[326]。
木星の衛星食の観測
経度の測定法として、ほかに木星の衛星食を利用する方法も試された。
木星の周りを回っている衛星が、木星の後ろに隠れたり、また現れたりする時刻を観測する。日食・月食のときと同じように、同時に2か所以上で観測し、その差から経度差を求める。木星の衛星食は日食や月食と比べて頻繁に起こるため、観測には適している。
この方法で経度が求められることは、日本では高橋至時がすでに知っていた。しかし至時は、実際に食がいつ起きるかについては、そのときは予想できずにいた。しかしその後、至時は、この方法が詳しく載っている西洋書『ラランデ暦書』を入手することができた。そして同書をもとに研究に取り組み[327]、この研究は至時の死後、間重富らによって引き継がれた。そうして忠敬の第五次測量の直前にようやく実用化できるようになった[328]。
実際の観測は、第五次測量中の文化2年(1805年)4月22日、伊勢の山田(現・三重県伊勢市)で初めて行われた。その後も測量日記によると合計11回観測している[329]。しかし測量にあたっては、前もって計算していた衛星食の時刻予想が正確ではなかったこともあり、苦労を要した[330]。結果的に観測回数は少なく、経度の測定にはほとんど役に立たなかったと考えられている[329][330]。
注釈
- ^ 地元などでは親しみと尊敬の念をこめて「いのう ちゅうけい」とも称されている[1]。
- ^ 本段落の内容については当時の複数の文献でも多少の差異がある。詳しくは渡辺編(2003) pp.76-81を参照
- ^ 忠敬の分家としては、子孫に金沢工業大学土木工学科客員教授の伊能忠敏らがいる(伊能(1991))。
- ^ 清宮家は伊能家とは直接の血縁はないものの、清宮家の初代当主は伊能三郎右衛門家2代目である景常の後妻の連れ子であり、継父の支援で清宮家を興したと伝えられ、両家はそれ以来の深い関係を有していた(千葉県(2008) p.346-347)。
- ^ 海保景文に伊能景晴(茂左衛門家当主、楫取魚彦の曾孫にあたる)の次女を娶せて、三郎右衛門家の祭祀を継がせた(『千葉縣香取郡誌』(1921年刊行の復刻版)、崙書房、1972年、P782-783.「伊能景晴」)。
- ^ 「シーボルト事件」において、紅葉山文庫にある伊能図を写させたことが原因で、何人か罪に問われ死亡している。
- ^ 作者は忠敬本人という説もあるが、小島一仁はこれに反論し、息子の景敬によるものではないかと述べている。
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