日本や中国やアメリカでの捉え方とは? わかりやすく解説

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日本や中国やアメリカでの捉え方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 03:52 UTC 版)

檀君朝鮮」の記事における「日本や中国やアメリカでの捉え方」の解説

カリフォルニア大学サンタバーバラ校の裵炯逸は、檀君人気は「今日朝鮮の歴史学と考古学超国家主義になってきている傾向反映している」。20世紀人種民族概念古代朝鮮への逆投影が、「檀君作り話満たされ矛盾する物語複雑な寄せ集め競合する王朝神話部族仮想的な侵略説明できない考古学的データが... 古代朝鮮研究事実フィクション区別することを事実上不可能にしている」と評するジェームズ・マディソン大学Michael J. Sethは、「極端なナショナリズムカルト最大現れは、檀君最初朝鮮国家の神話創設者)に対す関心回復であった... しかし、大部分教科書プロ歴史家は彼を神話とみなす」「南北朝鮮のどちらにおいても、(壇君神話は)朝鮮民族独自性唯一性、同質性、歴史古さ強調するために利用されてきた」「実在の人物かどうかに関わらず南北双方において、檀君朝鮮民族統一独自性強調するために使われている」と評するハワイ大学マノア校Miriam T. Starkは、「箕子本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題がある」と評するトロント大学アンドレ・シュミットは、「ほとんどの朝鮮史歴史家は、檀君神話を後の創造と扱う」と評するブリガムヤング大学Mark Petersonは、「檀君神話朝鮮が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多く人気となった箕子神話朝鮮中国に強い親和性持っていたことを示したかった人たちに、より有用であった」と評するホーマー・ハルバートは、「選択が、それらの間でなされることになっているならば、檀君が、彼の超自然的起源により、明らかに箕子よりも神話の姿であるという事実に人々直面する」と評する北京大学宋成有は、「1910年日本朝鮮半島侵入した後に、韓国歴史学者亡命し中国に来た者たちは、侵略抵抗するためナショナリズム喚起し歴史の中からそのような傾向をくみ取って韓国独立性強調した。それらは韓国歴史学界の中の民族主義史学流派へと発展した1948年大韓民国創立の後、民族主義史学韓国大学の歴史学の三大流派一つになったが、民間アマチュア史学神話や伝承講談などの作り物真実とを混同して社会的な扇動おおきな力を振るっている」と評する田中俊明は、「ここは、朝鮮民族始祖とされる檀君故地でもある。近年、その東の江東で『檀君陵』が発掘整備されその実在化が進んでいるが、明確な記録による限り天帝の子熊女との間に生まれた神人であり、神話として受け取しかない」と述べている。 岡田英弘は、「韓半島では、最初の歴史書『三国史記』から約100年後の13世紀になって『三国遺事』という本が書かれた。これは、一然という坊さん書いた本だが、このなかに、檀君という朝鮮建国の王の神話あらわれてくる。この檀君は、天帝息子で、それが地上天下って中国神話の帝堯と同時代朝鮮君臨し1500年在位して、1908歳の長寿保ったということになっているご記憶の方もあるかと思うのだが、北朝鮮金日成主席は、1994年7月8日死んだ。その直前、この檀君の墓が北朝鮮発見されたという報道があった。墓のなかには身長が3メートルぐらいで、玉のように白くて美しい、巨大な人骨があったという。当時朝鮮民主主義人民共和国国力傾けて莫大な金をかけて檀君陵建造したが、陵ができ上るのとほとんど同時に金日成死んでしまった。なぜ、神話中の登場人物である、檀君遺骨をわざわざ見つけたか。それは北朝鮮国是である主体思想のせいなのだ。朝鮮起源は、中国匹敵するぐらい古い。しかも、中国文明とは無関係に成立していたんだということ言いたいがために、そういうものをつくったのだ」と評する韓洪九は、「韓国では、単一民族という神話広く信じられてきた。1960年代70年代比べいくぶん減ってはきたものの、社会成員の皆が檀君祖父の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に檀君祖父様という一人人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか答えは『いいえ』です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々渡来から、高麗初期渤海遺民集団移住にいたるまで、我が国歴史において大量に人々流入した事例数多く見られます。一方契丹モンゴル日本満州からの大規模な侵入朝鮮戦争残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば檀君祖父様という一人人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つ神話に過ぎないのです」「いろいろな姓氏族譜見ても、祖先中国から渡来した主張する帰化姓氏少なくありません。また韓国代表的な土着の姓氏である金氏氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分族譜初め編纂された朝鮮時代中期後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制維持されていた伝統社会では、奴婢賤民支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思初め登場したのは、わが国歴史においていくらひいき目見て大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません」「国が危機直面したとき、檀君掲げて民族求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者知恵でした」と評する永島広紀は、「韓国では“史実”として扱われている5000年前朝鮮民族始祖とされる檀君についても、オフレコでは『そんなもの誰も信じていませんよ』と軽口を叩く。しかし、記録が残る場では絶対にそんな発言はしない対日的な場での言論の自由がない国なんです」と評する加藤徹は、「第二次大戦後に成立した大韓民国は、公用紀元として、檀君紀元檀紀)を採用した。これは、朝鮮最初の王とされる檀君王倹即位したとされる紀元前2333年元年とする紀元である。檀君王倹は、神話的人物である。神の息子である桓雄と、熊が人間変身した熊女のあいだに生まれたとされる日本植民地支配脱したばかりの韓国人にとって、日本皇紀より古い紀元を使うことは、ナショナリズムの上から必要なことだったのかもしれない。」「東アジア三国ナショナリズム流れ並べると、面白いこと気づく後発の若い国民国家ほど、うんと背伸びをして、自国歴史古さ強調する。これは、『加上説』の理論そのままである。加上説というのは、江戸時代学者富永仲基提唱した学説である。後発新し学派ほど、自説権威づけるため、開祖を古い時代求め傾向がある、という理論である。」「韓国人は、中国人よりも、さらに自国古さ強調する。彼らは『ウリナラ万年(われらの国は五千年)』という言葉を、好んで使う。自分たちは、日本中国より古い民族なのだ、という矜持をこめて、ことさらに』という数字入れ五千年を『半万年』と称するその実南北分断されている彼らは、いまだ国民国家形成実現できていない。そのため彼らのナショナリズムは、熱くむき出しである。ヤマト民族二千六百年、漢民族は四千年朝鮮民族は半万年。しかし、近代国家としての年齢順は、この逆である」と評する矢木毅は、高麗時代女真が金を建国すると高麗服属するが、属民視していた女真人服属する事は屈辱以外の何物でもなく、高麗ナショナリズム高揚する契機となる。高麗ナショナリズム高まりの中で、民族始祖としての檀君神話誕生した分析し檀君ツングース民族従えて君臨するという檀君朝鮮構図は、高麗人が、現実世界において屈服させられていた女真人の金に対す歴史的文化的な優越感表裏一体の関係であり、従って檀君朝鮮伝承は、モンゴル帝国の支配対す抵抗ナショナリズム生み出したものと言うよりは、高麗時代前期の反女真人意識自尊意識生み出した解釈するのが自然だ、と述べている。 白鳥庫吉は、檀君朝鮮を「僧徒妄説歴史上の事実にした」ものだと主張した那珂通世主張支持している。 林泰輔は、「その説が荒唐無稽信じられない(其説荒唐ニシテ遽ニ信ズベカラズ)」と評している。 武田幸男 編 『朝鮮史山川出版社世界各国史〉、2000年8月1日ISBN 978-4634413207。 には、「もとは平壌地方伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教要素含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性つくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして歴史的事実追究するのは容易ではない」とする。 朝鮮総督府編纂した朝鮮史』の委員会において、崔南善は「正篇や補篇の形で檀君箕子に関する内容編纂したらどうか」「檀君箕子に関するものはその史実だけにこだわらず思想信仰側面発展してきたことなどをまとめて別篇として編纂したほうがいいだろう」と意見をすると、黒板勝美は「檀君箕子歴史的な実在人物ではなく神話人物として思想信仰側面発展してきたわけだから、編年史として扱うのは無理だ」と応じた対して崔南善は、「檀君箕子歴史的に実在していた人物なのか、神話人物なのかは1つ研究課題にもなりますが、少なくとも朝鮮人の間では、これが歴史的事実として認識されてきたのです。しかし、本会編纂する朝鮮史』にこの内容を入れないということは私たち朝鮮人としては非常に残念でなりません。ですから、本会編纂の『朝鮮史』が朝鮮人にあまり読まれていないわけです」と抗弁した。このように朝鮮史』で檀君は非歴史的存在として扱われ歴史上居場所失った小田省吾は、「檀君朝鮮半島古代史一時期画した主張するのは、正し歴史研究として認められない」と評しており、正史である『三国史記』(1145年)に記載がないこと、檀君確認できる史料13世紀仏僧による『三国遺事』1281年しかないことなどを、否定論拠としている。 旗田巍は、稲葉岩吉満鮮史立場上、朝鮮の歴史の「自主的発展」を認めず朝鮮歴代の王家は、満州あるいは大陸からの敗残者が朝鮮逃げこんだものであり、檀君神話に基づく「民族的主張」に反対したと批判している。 当時朝鮮人のなかで檀君神話がとなえられたのに対して稲葉岩吉は、檀君神話架空性を批判する一方、「満鮮不可分論」を主張し朝鮮歴代の王家は、満州あるいは大陸からの敗残者が朝鮮逃げこんだものであり、朝鮮満州とは、政治的経済的に一体「不可分」であり、朝鮮だけの、独自の存在ありえないことを主張した。 — 旗田巍朝鮮史研究課題 藤永壮は、衛氏朝鮮実在したが、檀君朝鮮箕子朝鮮説話要素が強いと分析する今西龍は、白鳥庫吉那珂通世檀君神話否認継承して1925年起工した朝鮮神宮檀君合祀すべきという議論に異を唱え、「檀君日本のある神格合祀しようとする妄挙慨嘆し」「檀君という方は日本となんら関係がない」と強調した今西龍は、自身檀君に関する考察結果をまとめ、次のように述べている。「而して特に注意すべきは檀君は本来、扶餘高句麗満洲蒙古等を包括する通古斯族中の扶餘神人にして、今日朝鮮民族本体をなす韓種族の神に非ず彼の父母の一を神とし、他の一を獣類とする伝説は、仏教的装飾道教影響に依りて決し生ずるものに非ずして通古斯民族祖神特有なるのものなりとす。檀君前身者たる仙人王倹楽浪帯方漢人の祀神に統を引くものに非ずして、高句麗人の祭り解慕漱なるべし推定するの外なきは実に此一点にあり。父母いずれか獣類とするは、日韓民族の神には見るべからざるものなり」。このように今西龍は、檀君を「扶餘神人」であるとして、「今日朝鮮民族本体をなす韓種族の神」ではないと述べている。 宝賀寿男は、「檀君朝鮮という国の実在性直ち認めがたいのは、その歴代の王名が朝鮮半島資料に全く伝わらない事情にあるからである。檀君異例な長寿は別としても、檀君以外の王名が、滅亡隠退時の王でさえ知られない檀君には夫婁という子があったともいうが、せいぜいがその限りであり、神話的な始祖だけの国は存在信じられない」と指摘している。 石平は、「朝鮮半島最初王朝衛氏朝鮮中国人建国したという史実や、朝鮮歴代王朝が中華帝国属国となり続けたことの劣等意識から、韓民族建国物語檀君神話』を生み出した」と指摘している。 倉山満は、「韓国史は、檀君伝説から始まります内容簡単に説明すると、『神様が熊と虎に求婚されたので熊を選び人間に姿を変えて結婚し生まれた子供檀君という古朝鮮建国の祖である』という話です。紀元前2333年檀君朝鮮建国したことになっており、箕子朝鮮衛氏朝鮮合わせて古朝鮮呼びます。もちろん、神話なのでまともに批判して仕方ないのですが、『中国堯・舜時代同じく長い伝統持っている。(申瀅植『梨花女子大学校コリア文化叢書 韓国史入門p19)』と考えるのが韓国人です」「中国は、日本の『皇紀2600年』やエジプトの『3000年文明』に対抗するかのごとく、『3000年』『4000年』と歴史増やしてます。最近では5000年超え、ついに『6000年』と言い出しました。これは北朝鮮韓国が『檀君5000年』を主張しているからです。『儒教文化』の中華帝国を父と敬う姿勢は、『2000年遺伝子』として受け継がれていますが、ただ、そうした"中華様"への従属姿勢反面韓国人意識のなかに反発というもう一面があることを見逃しては、理解不十分になってしまうでしょう」と評する宮脇淳子は、一然檀君神話を創った意図を「『三国遺事』書かれ13世紀後半というのは、ちょうど朝鮮半島モンゴル人支配下入った時期だったからです。それまで30年の間に6回もモンゴル軍高麗全土荒らされていた間、高麗王と政府江華島逃げこんでいました。しかし、実権握っていた武人がとうとうクーデター倒されて、高麗王は太子モンゴル派遣しました高麗太子(後の元宗)の息子は、フビライ皇女結婚し、これ以後代々高麗王の息子モンゴル皇女結婚して元朝皇帝の側近となり、妻方でモンゴル風の生活しました。そして、父王が亡くなった後に高麗戻って即位したのです。高麗王室残されたものの、朝鮮半島統治のために征東行省置かれ高麗実質的には元の一地方成り下がりました。こうした中、食料毛皮、あるいは人間まで様々なものが収奪されても、文句ひとつ言えなかった。そうした惨めな状況から、朝鮮の民族主義鼓舞する意図があった」と述べている。 浦野起央は、「高句麗は、朝鮮半島とも漢民族歴史とも関係のない異民族建国した国家である。それを中国は、高句麗史を中国地方政権歴史として、韓国歴史認識封じ込めんとした」として、「高句麗領土としていた朝鮮半島北部地域中国人建国した箕子朝鮮衛満朝鮮故地であり、漢四郡楽浪郡臨屯郡真番郡玄菟郡)が所在し地域であることから、韓国・北朝鮮歴史事実による檀君神話をもって建国ナショナリズム発揚接合して歴史認識確認」し、「韓国は、建国神話歴史事実混同させつつも、現在の政治イデオロギー抑え込もうとすることへの対決走った」と述べている。 李鍾旭朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「檀君朝鮮は、20世紀のはじめ、侵略抵抗するナショナリズムにより、創作され歴史」「建国神話建国過程神話化・説話化したものであり、そのまま歴史として受け入れることはできません。しかし、神話歴史的な話に転換する必要があります檀君神話では檀君は1908歳まで生きていた。もちろん歴史的事実とみなすことはできません。ここでは、檀君一人ではなく少なくとも数十人いたという解釈が可能となるでしょうこのような神話的年代歴史的年代変換する作業必要になります」と述べている。 Lee Chung Kyu朝鮮語: 이청규、嶺南大学)は、「壇君神話だ」として、壇君神話は、時として悪用され排外主義極端なナショナリズム」につながっており、「古朝鮮初期国家として認識できず、特に同質民族による国民国家ではない」と語っており、この時期はむしろ、氏族部族社会特徴強かった可能性高く統一され王国形成は、そのかなり後になってからだ、と指摘している。 鮮馥(朝鮮語: 이선복、英語: Yi Seon-bok、ソウル大学)は、「われわれはよく、われわれ自身檀君の子孫と称し5000年悠久歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉額面どおり受け入れれば韓民族5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成されそのとき完成され実体変化することなくそのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識民族意識鼓吹必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠立脚した科学的歴史的な事実にはなりえない」と述べている。 鄭安基(高麗大学)は、「果たし民族意識皇民化政策によって、そんなにたやすく抹殺されるものなのか、についても疑問です。実は民族とは、二〇世紀初葉朝鮮人日本の統治を受けるようになってから発見された、想像政治的共同体です。実体性が欠如した想像集団意識であるため、民族はむしろ強靭な生命力持ってます。我々は檀君始祖とした拡大家族としての運命共同体だ、という歴史意識がまさにそれです。朝鮮人は、植民地期を経ながら民族としての正体/民族的アイデンティティ』を発見し、彼らの歴史伝統文化対し自負心持ち始めました」「そのせいか一九四〇年に朝鮮総督府は、『風俗・慣習言語意識次元にまで及ぶ朝鮮人完璧な皇民化は、少なくとも三〇〇年の歳月要する至難課題だ』と言ってます。一朝一夕朝鮮人強固な民族意識をそぎ落とし日本人改造することはできない、と見たのです。それで皇民化政策突飛にも、多く朝鮮人にとってまだ馴染みのなかった檀君神話をはじめ、新羅花郎朝鮮王朝期の李舜臣などを呼び出し朝鮮人民族意識鼓吹しました。民族神話叙事英雄通し、砂のように散らばった朝鮮民衆帝国国民統合しようとする努力でもありました総督府皇民化政策朝鮮民族抹殺政策見なすことほど、歴史複雑な実態矛盾単純化する稚気はありません」と述べている。 李基白朝鮮語版)(朝鮮語: 이기백、西江大学)は、「天帝息子である桓雄人間になることに成功した熊女結婚して檀君産んだという記録歴史ではなく神話です。神話はそれが創作され理由があり、その創作され理由をみつけるのが歴史家使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性探していた時代過ぎ去った過去です。また、歴史古ければ民族自慢になるというものでもなく、神話精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている。 李基東朝鮮語: 이기동、成均館大学)は、「檀君神話である」と評している。 許東賢(朝鮮語: 허동현、慶熙大学)「韓国檀君先祖とする純粋血統言語と文化をもつ韓民族だけで成立したという単一民族意識は、光復後小・中・高等学校教科書通じて繰り返し学習されてきたことで、市民の歴史記憶となった。 したがって、『韓国歴史何年ですか』という質問に、『5000年』と気兼ねなく回答するほど、韓国人檀君の子孫であるという単一民族意識は超歴史的実体として、神話化された集団記憶collective memory)として存在する。しかし、1990年代以後、『民族』という概念近代入って想像された『想像政治共同体に過ぎないという『脱民族主義』が韓国知識人社会台頭し絶対的権威享受していた単一民族意識にひびが入り始めた」と評している。 宋鎬晸(朝鮮語: 송호정、韓国教員大学)は、徐居正中国語版)らが著した東国通鑑』が中国北宋司馬光の『資治通鑑』を参考にして、堯の即位紀元前2357年設定し、堯の即位より25年後の紀元前2333年檀君古朝鮮建国したと設定したのであり、檀君朝鮮建国年代具体的な根拠があるわけではなく檀君建国年代としては意味がない指摘している。 盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は、檀君朝鮮の歴史における建国始祖として認識したのは高麗後期であり、モンゴルの高麗侵攻により、国土蹂躙され高麗三韓それぞれの民族意識統合し、「三韓すべてが古朝鮮から誕生した同族歴史共同体」という民族象徴として檀君強調した。したがって日本植民地時代民族主義者檀君強調したのは、民族統合するめだった。しかし、韓国現代社会では、合理性客観性そぐわない、すなわち国家主義全体主義強化のための記号として檀君利用するのは歴史反動でしかなく、檀君朝鮮紀元前2333年建国したというのは、中国の堯と同時代朝鮮国家存在し朝鮮の歴史中国の歴史劣らないほど永いということ主張するためであり、歴史的事実ではなく朝鮮上古紀年間延びさせているに過ぎず、「紀元前2333年という檀君朝鮮建国年代は、考古学調査による青銅器文化をみたときに、紀元前10世紀前後しかない」と主張している。 李基東朝鮮語: 이기동、東国大学)は、「北朝鮮1980年代以前は、檀君神話奴隷所有者階級奴隷搾取正統化するためにつくられ社会思想規定したが、1993年檀君陵発掘以後檀君民族始祖として奉じているのは、北朝鮮の現政権正統化する意図隠されている」と指摘した。 徐永大朝鮮語: 서영대、仁荷大学)は、「神話架空歴史真実」という二分法批判、「檀君伝承神話的な形で表現されたのは、古朝鮮権力正統化する意図がある」とし、桓雄天から降りてきたのは種の移動反映桓雄熊女婚姻して檀君産んだのは、先進的移民勢力後進的土勢力連合して古朝鮮誕生したことを意味し古朝鮮始祖神聖視し、支配正統化する意図があると解釈する鄭早苗は、「日本でも昨年からこの檀君実在したというニュース在日韓国・朝鮮人の間でも話題になっている。今から四三二七年前檀君古朝鮮即位したということは東国通鑑』などで知られ檀君『三国遺事』ではじめ登場して以来古朝鮮開祖として親しまれ、今も韓国新聞檀君紀年西暦併記されているほどであるが、誰も実在人物とは考えていなかったであろう檀君陵真偽はともかくとして、北朝鮮国家的威信をもって公表した檀君実在説は、神話形成される社会的状況政権担当者史観検討する上で現代私達示唆与えているように思われる北朝鮮首都平壌朝鮮民族史にとって古代から発展中心であったとみなすことが、南北統一にとって必要な論理であると北朝鮮では考えられているのかも知れない。しかし文献から見れば古朝鮮時代民族構成だけでなく高句麗民族構成不明のままである発掘されたという『檀君陵』のある平壌高句麗第二王都であった中国吉林省集安から四二七年に第三王都として移され、六六八年に高句麗滅亡するまで首都であっただけでなく、その後韓国・朝鮮史のなかでも都市として重要な位置占めてきた。高句麗古朝鮮地域はかつて東夷呼ばれて来た所で、夫余挹婁粛慎東沃沮、濊、辰韓弁辰馬韓加羅百済新羅、倭等多く民族や国が存亡してきた複雑な歴史記録されている。文献では檀君伝説十三世紀末の『三国遺事』以前記録がないため、いわゆる檀君朝鮮東夷伝なかには含まれず、韓国・朝鮮史は箕子朝鮮衛満朝鮮から始まり、漢の四郡の時代から玄菟郡下の県名ひとつとして高句麗の名称が記載されその後高句麗建国から三国時代入っていく。朝鮮半島中南部百済新羅韓族主たる住民であった考えられるが、高句麗は多民族雑居し、また王系も夫余系であるなど複雑である」と評する

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日本や中国やアメリカでの捉え方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:43 UTC 版)

衛氏朝鮮」の記事における「日本や中国やアメリカでの捉え方」の解説

豊田隆雄 は、「燕人の衛満は、王と行動共にすることなく、兵とともに朝鮮亡命する道を選んだ当時朝鮮治めていたのは、建国の父檀君君主の座を譲った伝説上は)箕子の子孫・準王だった。彼は衛満歓迎し博士官職土地100里を与え辺境警備任せた。ところが、である。紀元前194年亡命してきた中国人糾合して力をつけた衛満は、準王攻撃して追放し、国を奪ってしまう。まさに恩を仇で返す所業である。彼は王倹城(現在の平壌)に新たな都を定め王朝打ち立てる。これが『衛氏朝鮮』の始まりだ。つまり、朝鮮初の国家中国からの亡命者によって建国されたことになる。司馬遷の『史記朝鮮列伝にも『朝鮮王満者、故燕人也』とはっきりと記されている。ところが韓国歴史学者中には衛満中国人ではなく燕に住んでいた朝鮮人だと主張する者も多い。『史記』にある『髷結蛮夷服而東出塞』の一文、すなわち『髷を結い蛮夷の服を着て東に逃れた』という部分根拠にしているのだろうが、髷が朝鮮族だけのものとするのは無理がある。『三国志魏書』にも同じよう記述があり、そこには『燕人衛満亡命、為胡服』とある。胡服朝鮮服考えるのには無理があり、やはり衛満朝鮮亡命した中国人であろう亡命者衛満があっさりと朝鮮支配できたのは、当時まだ青銅器文化だったところへ鉄器文化持ち込んだからだといわれる。『歴史初め登場する政権が、他国からの亡命者によって建てられた』という事実は韓国人にとっては辛い現実である。彼らが日本ことさらに漢字伝えてやった』『仏教伝来させた』と主張するのは、常に民族的なアイデンティティー危機晒されてきたことの裏返しといえるだろう」と述べている。 武田幸男 は、著書のなかで衛満を「もと燕人の衛満」と記述している。 ペンシルベニア大学Robert W. Preucelとマサチューセッツ大学のStephen A. Mrozowski は、衛満=朝鮮人説を「一部北朝鮮考古学者は、衛満純粋な朝鮮人であった考えることを好みます」と評する田中俊明は、「朝鮮」名は紀元前3世紀頃から知られていたが、歴史的実態明らかなのは衛氏朝鮮最初であり、「前195年ころのことで、そのとき、燕に仕えていた満という人物が、徒党1000余り率いて朝鮮へいき、そこに国をひらいた」「衛満は、漢帝国の中の燕国から亡命してきた」「燕人滿は、漢帝国のなかの燕王盧綰仕えていたが、前一九五年、盧綰匈奴亡命し燕國瓦解したあと、滿は徒党率いて東走し、燕・齊からの亡命者たち従えて王となり、王險城に都した。王險城は、現在の平壤である」と記述している。 森鹿三は、燕が秦に滅ぼされ、その亡命者朝鮮流入した後、秦末期から前漢初期かけても戦乱避けて大量難民朝鮮移動した状況のなかで「朝鮮には殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満亡命してきてついに箕子追いだし朝鮮となって今の平壌を都とした」と分析する日比野丈夫は、秦の始皇帝中国統一して紀元前226年燕を陥れ、逃亡する燕王たちを追跡して遼東進軍し5年目捕虜としたとき、多数の燕人が朝鮮半島流入したその後楚漢戦争が始まると、中国人流入はますます増大して、「漢のはじめ衛満というものが中国から亡命し今日平壌に都をさだめ朝鮮国立てたのは、じつにこのような地番あったからである」と分析する藤永壮は、檀君朝鮮箕子朝鮮説話的であるが、衛氏朝鮮実在したとして、「燕からの亡命者衛満箕子朝鮮滅ぼしたとする矢木毅は、箕子末裔称する中国化した政治勢力が、「前漢初めに燕人の衛満によって減ほされた」と記述している。 石平は、「朝鮮半島最初王朝衛氏朝鮮中国人建国したという史実や、朝鮮歴代王朝が中華帝国属国となり続けたことの劣等意識から、韓民族建国物語檀君神話』を生み出した」と指摘している。 宇山卓栄は、「箕子朝鮮続き紀元前195年頃、衛氏朝鮮建国されました。都は箕子同じく、王険城(現在の平壌)に置かれました。やはり、この衛氏もまた、中国人です。このように中国人支配者が続くのは朝鮮人に、国を運営する能力ノウハウがなかったからだと言う他にありません。衛氏朝鮮は燕の出身武将衛満によって建国されます。燕は、現在の北京中心とする中国東北部地域です。劉邦前漢王朝の成立に伴い、彼らの勢力対立していた燕の人々を、衛満率いて朝鮮亡命しました」「中国支配否定する韓国衛満鉄製武器武装し、その軍隊優れた機能統制兼ね備えていたので、朝鮮人はほとんど対抗できませんでした。高度な文明擁していた中国人にとって、朝鮮人屈服させるのは難しいことではなかったでしょう箕子朝鮮実在未だ確定されていないのに対し衛氏朝鮮実在確定されています。そのため、現在の韓国中国人起源箕子朝鮮否定しても、同じく中国人起源衛氏朝鮮否定できず、中国人古朝鮮支配していたという実態結局覆い隠すことができません。それでも、かつては衛満朝鮮人であるという無理矢理理屈でっち上げいました衛満朝鮮入った時、髷を結い朝鮮の服を着ていたことから、衛満朝鮮人推定でき、朝鮮人である衛満中国の燕に滞在し朝鮮帰って来て国をつくった説明されいました韓国学校でも、1990年代までそのように教えられいました」と述べている。 西嶋定生は、「周知のように、漢帝国ではその国内体制として郡県制封建制とが併用された。いわゆる郡国制がそれである。この場合封建制とは、皇帝の一族功臣諸侯王列侯とし、これに食邑与えてこれを国と称し、その支配委任するというものであり、そこに郡県制以外の間接的統治方式復活したのである。この封建制復活周辺地域首長に対して官職授与し、これと君臣関係を結ぶという形式可能ならしめた。その結果出現するのが朝鮮衛満南越趙佗などの外藩国王である。これらはたまたまともに漢人出身者ではあったが、その統治する住民はほとんど異民族であり、そこには郡県制施行されず、また朝鮮王・南越王も内臣である中国内の諸侯王相違して外臣呼ばれる扱いをうけていた」と述べている。 鈴木織恵は、「生没年未詳衛氏朝鮮初代王。燕人。紀元前一九五年に燕王匈奴亡命した際に、大同江流域平壌亡命し箕子朝鮮国王箕子臣下となるが、翌年箕準王を追放してとなった。これを衛氏朝鮮と呼ぶ。衛満は漢に朝貢して遼東太守外臣となる一方で周辺領域侵攻し真番や臨屯を降伏させて勢力拡大した衛満の孫・右渠の代になると、さらに勢力拡大し、右渠は漢の皇帝への拝謁拒んで対立し戦争へ発展した漢の武帝大軍派遣して軍事的制圧進め紀元前一〇八年頃に衛氏朝鮮滅亡した。旧衛氏朝鮮領には楽浪郡新設され、漢は朝鮮半島直接支配した」と述べている。

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