日本や中国やアメリカでの捉え方
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「檀君朝鮮」の記事における「日本や中国やアメリカでの捉え方」の解説
カリフォルニア大学サンタバーバラ校の裵炯逸は、檀君の人気は「今日の朝鮮の歴史学と考古学が超国家主義的になってきている傾向を反映している」。20世紀の人種や民族の概念の古代の朝鮮への逆投影が、「檀君の作り話で満たされた矛盾する物語の複雑な寄せ集め、競合する王朝の神話、部族の仮想的な侵略、説明できない考古学的データが... 古代朝鮮の研究で事実とフィクションを区別することを事実上不可能にしている」と評する。 ジェームズ・マディソン大学のMichael J. Sethは、「極端なナショナリズムとカルトの最大の現れは、檀君(最初の朝鮮の国家の神話の創設者)に対する関心の回復であった... しかし、大部分の教科書とプロの歴史家は彼を神話とみなす」「南北朝鮮のどちらにおいても、(壇君神話は)朝鮮民族の独自性、唯一性、同質性、歴史の古さを強調するために利用されてきた」「実在の人物かどうかに関わらず、南北双方において、檀君は朝鮮民族の統一と独自性を強調するために使われている」と評する。 ハワイ大学マノア校のMiriam T. Starkは、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題がある」と評する。 トロント大学のアンドレ・シュミットは、「ほとんどの朝鮮史の歴史家は、檀君神話を後の創造と扱う」と評する。 ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は朝鮮が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となった。箕子神話は朝鮮が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用であった」と評する。 ホーマー・ハルバートは、「選択が、それらの間でなされることになっているならば、檀君が、彼の超自然的起源により、明らかに箕子よりも神話の姿であるという事実に人々は直面する」と評する。 北京大学の宋成有は、「1910年に日本が朝鮮半島に侵入した後に、韓国の歴史学者で亡命して中国に来た者たちは、侵略に抵抗するためナショナリズムを喚起し、歴史の中からそのような傾向をくみ取って、韓国の独立性を強調した。それらは韓国の歴史学界の中の民族主義史学の流派へと発展した。1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と真実とを混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている」と評する。 田中俊明は、「ここは、朝鮮民族の始祖とされる檀君の故地でもある。近年、その東の江東で『檀君陵』が発掘・整備され、その実在化が進んでいるが、明確な記録による限り、天帝の子と熊女との間に生まれた神人であり、神話として受け取るしかない」と述べている。 岡田英弘は、「韓半島では、最初の歴史書『三国史記』から約100年後の13世紀になって、『三国遺事』という本が書かれた。これは、一然という坊さんが書いた本だが、このなかに、檀君という朝鮮の建国の王の神話があらわれてくる。この檀君は、天帝の息子で、それが地上に天下って、中国神話の帝堯と同時代に朝鮮に君臨し、1500年間在位して、1908歳の長寿を保ったということになっている。ご記憶の方もあるかと思うのだが、北朝鮮の金日成主席は、1994年7月8日に死んだ。その直前、この檀君の墓が北朝鮮で発見されたという報道があった。墓のなかには、身長が3メートルぐらいで、玉のように白くて美しい、巨大な人骨があったという。当時、朝鮮民主主義人民共和国が国力を傾けて、莫大な金をかけて檀君陵を建造したが、陵ができ上るのとほとんど同時に、金日成が死んでしまった。なぜ、神話中の登場人物である、檀君の遺骨をわざわざ見つけたか。それは北朝鮮の国是である主体思想のせいなのだ。朝鮮の起源は、中国に匹敵するぐらい古い。しかも、中国文明とは無関係に成立していたんだ、ということを言いたいがために、そういうものをつくったのだ」と評する。 韓洪九は、「韓国では、単一民族という神話が広く信じられてきた。1960年代、70年代に比べいくぶん減ってはきたものの、社会の成員の皆が檀君祖父様の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に、檀君祖父様という一人の人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか。答えは『いいえ』です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君が治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々の渡来から、高麗初期の渤海遺民の集団移住にいたるまで、我が国の歴史において大量に人々が流入した事例は数多く見られます。一方、契丹・モンゴル・日本・満州からの大規模な侵入と朝鮮戦争の残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば、檀君祖父様という一人の人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つの神話に過ぎないのです」「いろいろな姓氏の族譜を見ても、祖先が中国から渡来したと主張する帰化姓氏が少なくありません。また韓国の代表的な土着の姓氏である金氏や朴氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分の族譜が初めて編纂された朝鮮時代中期や後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識は別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制が維持されていた伝統社会では、奴婢ら賤民と支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識が存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思が初めて登場したのは、わが国の歴史においていくらひいき目に見ても大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません」「国が危機に直面したとき、檀君を掲げて民族の求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者の知恵でした」と評する。 永島広紀は、「韓国では“史実”として扱われている5000年前の朝鮮民族の始祖とされる檀君についても、オフレコでは『そんなもの誰も信じていませんよ』と軽口を叩く。しかし、記録が残る場では絶対にそんな発言はしない。対日的な場での言論の自由がない国なんです」と評する。 加藤徹は、「第二次大戦後に成立した大韓民国は、公用紀元として、檀君紀元(檀紀)を採用した。これは、朝鮮最初の王とされる檀君王倹が即位したとされる紀元前2333年を元年とする紀元である。檀君王倹は、神話的人物である。神の息子である桓雄と、熊が人間に変身した熊女のあいだに生まれた子とされる。日本の植民地支配を脱したばかりの韓国人にとって、日本の皇紀より古い紀元を使うことは、ナショナリズムの上から必要なことだったのかもしれない。」「東アジア三国のナショナリズムの流れを並べると、面白いことに気づく。後発の若い国民国家ほど、うんと背伸びをして、自国の歴史の古さを強調する。これは、『加上説』の理論そのままである。加上説というのは、江戸時代の学者・富永仲基が提唱した学説である。後発の新しい学派ほど、自説を権威づけるため、開祖を古い時代に求める傾向がある、という理論である。」「韓国人は、中国人よりも、さらに自国の古さを強調する。彼らは『ウリナラ半万年(われらの国は五千年)』という言葉を、好んで使う。自分たちは、日本や中国より古い民族なのだ、という矜持をこめて、ことさらに『万』という数字を入れ、五千年を『半万年』と称する。その実、南北に分断されている彼らは、いまだ国民国家の形成を実現できていない。そのため彼らのナショナリズムは、熱く、むき出しである。ヤマト民族は二千六百年、漢民族は四千年、朝鮮民族は半万年。しかし、近代国家としての年齢順は、この逆である」と評する。 矢木毅は、高麗時代に女真が金を建国すると高麗は服属するが、属民視していた女真人に服属する事は屈辱以外の何物でもなく、高麗ナショナリズムが高揚する契機となる。高麗ナショナリズムの高まりの中で、民族の始祖としての檀君神話が誕生したと分析し、檀君がツングース民族を従えて君臨するという檀君朝鮮の構図は、高麗人が、現実世界において屈服させられていた女真人の金に対する歴史的・文化的な優越感と表裏一体の関係であり、従って檀君朝鮮の伝承は、モンゴル帝国の支配に対する抵抗のナショナリズムが生み出したものと言うよりは、高麗時代前期の反女真人意識と自尊意識が生み出したと解釈するのが自然だ、と述べている。 白鳥庫吉は、檀君朝鮮を「僧徒の妄説を歴史上の事実にした」ものだと主張した那珂通世の主張を支持している。 林泰輔は、「その説が荒唐無稽で信じられない(其説荒唐ニシテ遽ニ信ズベカラズ)」と評している。 武田幸男 編 『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史〉、2000年8月1日。ISBN 978-4634413207。 には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする。 朝鮮総督府が編纂した『朝鮮史』の委員会において、崔南善は「正篇や補篇の形で檀君と箕子に関する内容を編纂したらどうか」「檀君と箕子に関するものはその史実だけにこだわらず、思想や信仰の側面で発展してきたことなどをまとめて別篇として編纂したほうがいいだろう」と意見をすると、黒板勝美は「檀君と箕子は歴史的な実在の人物ではなく、神話の人物として、思想や信仰の側面で発展してきたわけだから、編年史として扱うのは無理だ」と応じた。対して崔南善は、「檀君と箕子が歴史的に実在していた人物なのか、神話の人物なのかは1つの研究課題にもなりますが、少なくとも朝鮮人の間では、これが歴史的事実として認識されてきたのです。しかし、本会が編纂する『朝鮮史』にこの内容を入れないということは、私たち朝鮮人としては非常に残念でなりません。ですから、本会編纂の『朝鮮史』が朝鮮人にあまり読まれていないわけです」と抗弁した。このように『朝鮮史』で檀君は非歴史的存在として扱われ、歴史上の居場所を失った。 小田省吾は、「檀君朝鮮が半島古代史の一時期を画したと主張するのは、正しい歴史研究として認められない」と評しており、正史である『三国史記』(1145年)に記載がないこと、檀君を確認できる史料が13世紀の仏僧による『三国遺事』(1281年)しかないことなどを、否定の論拠としている。 旗田巍は、稲葉岩吉が満鮮史の立場上、朝鮮の歴史の「自主的発展」を認めず、朝鮮歴代の王家は、満州あるいは大陸からの敗残者が朝鮮に逃げこんだものであり、檀君神話に基づく「民族的主張」に反対したと批判している。 当時、朝鮮人のなかで檀君神話がとなえられたのに対して、稲葉岩吉は、檀君神話の架空性を批判する一方、「満鮮不可分論」を主張し、朝鮮歴代の王家は、満州あるいは大陸からの敗残者が朝鮮に逃げこんだものであり、朝鮮と満州とは、政治的・経済的に一体「不可分」であり、朝鮮だけの、独自の存在はありえないことを主張した。 — 旗田巍、朝鮮史研究の課題 藤永壮は、衛氏朝鮮は実在したが、檀君朝鮮と箕子朝鮮は説話的要素が強いと分析する。 今西龍は、白鳥庫吉と那珂通世の檀君神話の否認を継承して、1925年に起工した朝鮮神宮に檀君を合祀すべきという議論に異を唱え、「檀君を日本のある神格と合祀しようとする妄挙を慨嘆し」「檀君という方は日本となんら関係がない」と強調した。今西龍は、自身の檀君に関する考察結果をまとめ、次のように述べている。「而して特に注意すべきは檀君は本来、扶餘・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶餘の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず。彼の父母の一を神とし、他の一を獣類とする伝説は、仏教的装飾や道教的影響に依りては決して生ずるものに非ずして通古斯民族の祖神に特有なるのものなりとす。檀君の前身者たる仙人王倹を楽浪・帯方漢人の祀神に統を引くものに非ずして、高句麗人の祭りし解慕漱なるべしと推定するの外なきは実に此一点にあり。父母のいずれかを獣類とするは、日韓民族の神には見るべからざるものなり」。このように今西龍は、檀君を「扶餘の神人」であるとして、「今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神」ではないと述べている。 宝賀寿男は、「檀君朝鮮という国の実在性が直ちに認めがたいのは、その歴代の王名が朝鮮半島の資料に全く伝わらない事情にあるからである。檀君の異例な長寿は別としても、檀君以外の王名が、滅亡(隠退)時の王でさえ知られない。檀君には夫婁という子があったともいうが、せいぜいがその限りであり、神話的な始祖だけの国は存在が信じられない」と指摘している。 石平は、「朝鮮半島最初の王朝・衛氏朝鮮は中国人が建国したという史実や、朝鮮の歴代王朝が中華帝国の属国となり続けたことの劣等意識から、韓民族は建国物語『檀君神話』を生み出した」と指摘している。 倉山満は、「韓国史は、檀君伝説から始まります。内容を簡単に説明すると、『神様が熊と虎に求婚されたので熊を選び、人間に姿を変えて結婚し、生まれた子供が檀君という古朝鮮建国の祖である』という話です。紀元前2333年檀君朝鮮を建国したことになっており、箕子朝鮮・衛氏朝鮮と合わせて古朝鮮と呼びます。もちろん、神話なのでまともに批判しても仕方ないのですが、『中国の堯・舜時代と同じく長い伝統を持っている。(申瀅植『梨花女子大学校コリア文化叢書 韓国史入門』p19)』と考えるのが韓国人です」「中国は、日本の『皇紀2600年』やエジプトの『3000年の文明』に対抗するかのごとく、『3000年』『4000年』と歴史を増やしています。最近では5000年を超え、ついに『6000年』と言い出しました。これは北朝鮮や韓国が『檀君5000年』を主張しているからです。『儒教文化』の中華帝国を父と敬う姿勢は、『2000年の遺伝子』として受け継がれていますが、ただ、そうした"中華様"への従属姿勢の反面、韓国人の意識のなかに反発というもう一面があることを見逃しては、理解が不十分になってしまうでしょう」と評する。 宮脇淳子は、一然が檀君神話を創った意図を「『三国遺事』が書かれた13世紀後半というのは、ちょうど朝鮮半島がモンゴル人の支配下に入った時期だったからです。それまで30年の間に6回もモンゴル軍に高麗全土を荒らされていた間、高麗王と政府は江華島に逃げこんでいました。しかし、実権を握っていた武人がとうとうクーデターで倒されて、高麗王は太子をモンゴルに派遣しました。高麗の太子(後の元宗)の息子は、フビライの皇女と結婚し、これ以後、代々の高麗王の息子はモンゴルの皇女と結婚して元朝皇帝の側近となり、妻方でモンゴル風の生活をしました。そして、父王が亡くなった後に高麗に戻って即位したのです。高麗王室は残されたものの、朝鮮半島の統治のために征東行省が置かれ、高麗は実質的には元の一地方に成り下がりました。こうした中、食料や毛皮、あるいは人間まで様々なものが収奪されても、文句ひとつ言えなかった。そうした惨めな状況から、朝鮮の民族主義を鼓舞する意図があった」と述べている。 浦野起央は、「高句麗は、朝鮮半島とも漢民族の歴史とも関係のない異民族が建国した国家である。それを中国は、高句麗史を中国の地方政権の歴史として、韓国の歴史認識を封じ込めんとした」として、「高句麗が領土としていた朝鮮半島北部地域が中国人が建国した箕子朝鮮・衛満朝鮮の故地であり、漢四郡(楽浪郡・臨屯郡・真番郡・玄菟郡)が所在した地域であることから、韓国・北朝鮮が歴史事実による檀君神話をもって建国ナショナリズムの発揚と接合して歴史認識を確認」し、「韓国は、建国神話と歴史事実を混同させつつも、現在の政治イデオロギーを抑え込もうとすることへの対決と走った」と述べている。 李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「檀君朝鮮は、20世紀のはじめ、侵略に抵抗するナショナリズムにより、創作された歴史」「建国神話は建国過程を神話化・説話化したものであり、そのまま歴史として受け入れることはできません。しかし、神話を歴史的な話に転換する必要があります。檀君神話では檀君は1908歳まで生きていた。もちろん歴史的事実とみなすことはできません。ここでは、檀君が一人ではなく、少なくとも数十人いたという解釈が可能となるでしょう。このような神話的年代を歴史的年代に変換する作業が必要になります」と述べている。 Lee Chung Kyu(朝鮮語: 이청규、嶺南大学)は、「壇君は神話だ」として、壇君神話は、時として悪用され「排外主義や極端なナショナリズム」につながっており、「古朝鮮の初期は国家として認識できず、特に同質民族による国民国家ではない」と語っており、この時期はむしろ、氏族・部族社会の特徴が強かった可能性が高く、統一された王国の形成は、そのかなり後になってからだ、と指摘している。 李鮮馥(朝鮮語: 이선복、英語: Yi Seon-bok、ソウル大学)は、「われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている。 鄭安基(高麗大学)は、「果たして民族意識が皇民化政策によって、そんなにもたやすく抹殺されるものなのか、についても疑問です。実は民族とは、二〇世紀初葉に朝鮮人が日本の統治を受けるようになってから発見された、想像の政治的共同体です。実体性が欠如した想像の集団意識であるため、民族はむしろ強靭な生命力を持っています。我々は檀君を始祖とした拡大家族としての運命共同体だ、という歴史意識がまさにそれです。朝鮮人は、植民地期を経ながら民族としての『正体/民族的アイデンティティ』を発見し、彼らの歴史と伝統文化に対し自負心を持ち始めました」「そのせいか一九四〇年に朝鮮総督府は、『風俗・慣習・言語・意識の次元にまで及ぶ朝鮮人の完璧な皇民化は、少なくとも三〇〇年の歳月を要する至難の課題だ』と言っています。一朝一夕に朝鮮人の強固な民族意識をそぎ落とし、日本人に改造することはできない、と見たのです。それで皇民化政策は突飛にも、多くの朝鮮人にとってまだ馴染みのなかった檀君神話をはじめ、新羅の花郎や朝鮮王朝期の李舜臣などを呼び出し、朝鮮人の民族意識を鼓吹しました。民族の神話・叙事・英雄を通し、砂のように散らばった朝鮮の民衆を帝国の国民に統合しようとする努力でもありました。総督府の皇民化政策を朝鮮民族の抹殺政策と見なすことほど、歴史の複雑な実態と矛盾を単純化する稚気はありません」と述べている。 李基白(朝鮮語版)(朝鮮語: 이기백、西江大学)は、「天帝の息子である桓雄が人間になることに成功した熊女と結婚して檀君を産んだという記録は歴史ではなく神話です。神話はそれが創作された理由があり、その創作された理由をみつけるのが歴史家の使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性を探していた時代は過ぎ去った過去です。また、歴史が古ければ民族の自慢になるというものでもなく、神話を精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている。 李基東(朝鮮語: 이기동、成均館大学)は、「檀君は神話である」と評している。 許東賢(朝鮮語: 허동현、慶熙大学)「韓国は檀君を先祖とする純粋血統の言語と文化をもつ韓民族だけで成立したという単一民族意識は、光復後、小・中・高等学校の教科書を通じて繰り返し学習されてきたことで、市民の歴史的記憶となった。 したがって、『韓国の歴史は何年ですか』という質問に、『5000年』と気兼ねなく回答するほど、韓国人は檀君の子孫であるという単一民族意識は超歴史的実体として、神話化された集団記憶(collective memory)として存在する。しかし、1990年代以後、『民族』という概念が近代に入って想像された『想像の政治共同体』に過ぎないという『脱民族主義』が韓国の知識人社会で台頭し、絶対的権威を享受していた単一民族意識にひびが入り始めた」と評している。 宋鎬晸(朝鮮語: 송호정、韓国教員大学)は、徐居正(中国語版)らが著した『東国通鑑』が中国北宋の司馬光の『資治通鑑』を参考にして、堯の即位を紀元前2357年に設定し、堯の即位より25年後の紀元前2333年に檀君が古朝鮮を建国したと設定したのであり、檀君朝鮮の建国年代に具体的な根拠があるわけではなく、檀君建国年代としては意味がないと指摘している。 盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は、檀君を朝鮮の歴史における建国始祖として認識したのは高麗後期であり、モンゴルの高麗侵攻により、国土が蹂躙され、高麗は三韓それぞれの民族意識を統合し、「三韓すべてが古朝鮮から誕生した同族の歴史共同体」という民族の象徴として檀君を強調した。したがって、日本の植民地時代に民族主義者が檀君を強調したのは、民族を統合するためだった。しかし、韓国の現代社会では、合理性と客観性にそぐわない、すなわち国家主義・全体主義の強化のための記号として檀君を利用するのは歴史の反動でしかなく、檀君朝鮮が紀元前2333年に建国したというのは、中国の堯と同時代に朝鮮に国家が存在し、朝鮮の歴史が中国の歴史に劣らないほど永いということを主張するためであり、歴史的事実ではなく、朝鮮上古の紀年を間延びさせているに過ぎず、「紀元前2333年という檀君朝鮮建国年代は、考古学調査による青銅器文化をみたときに、紀元前10世紀前後でしかない」と主張している。 李基東(朝鮮語: 이기동、東国大学)は、「北朝鮮は1980年代以前は、檀君神話は奴隷所有者階級が奴隷の搾取を正統化するためにつくられた社会思想と規定したが、1993年の檀君陵の発掘以後、檀君を民族の始祖として奉じているのは、北朝鮮の現政権を正統化する意図が隠されている」と指摘した。 徐永大(朝鮮語: 서영대、仁荷大学)は、「神話は架空、歴史は真実」という二分法を批判、「檀君の伝承が神話的な形で表現されたのは、古朝鮮の権力を正統化する意図がある」とし、桓雄が天から降りてきたのは種の移動を反映、桓雄と熊女が婚姻して檀君を産んだのは、先進的移民勢力と後進的土着勢力が連合して古朝鮮が誕生したことを意味し、古朝鮮の始祖を神聖視し、支配を正統化する意図があると解釈する。 鄭早苗は、「日本でも昨年からこの檀君が実在したというニュースは在日韓国・朝鮮人の間でも話題になっている。今から四三二七年前に檀君が古朝鮮で即位したということは『東国通鑑』などで知られ、檀君は『三国遺事』ではじめて登場して以来、古朝鮮の開祖として親しまれ、今も韓国の新聞で檀君紀年が西暦と併記されているほどであるが、誰も実在の人物とは考えていなかったであろう。檀君陵の真偽はともかくとして、北朝鮮が国家的威信をもって公表した檀君実在説は、神話が形成される社会的状況と政権担当者の史観を検討する上で、現代の私達に示唆を与えているように思われる。北朝鮮の首都平壌は朝鮮民族史にとって古代から発展の中心であったとみなすことが、南北統一にとって必要な論理であると北朝鮮では考えられているのかも知れない。しかし文献から見れば、古朝鮮時代の民族構成だけでなく高句麗の民族構成も不明のままである。発掘されたという『檀君陵』のある平壌は高句麗第二の王都であった中国吉林省集安から四二七年に第三の王都として移され、六六八年に高句麗が滅亡するまで首都であっただけでなく、その後の韓国・朝鮮史のなかでも都市として重要な位置を占めてきた。高句麗や古朝鮮の地域はかつて東夷と呼ばれて来た所で、夫余、挹婁、粛慎、東沃沮、濊、辰韓、弁辰、馬韓、加羅、百済、新羅、倭等多くの民族や国が存亡してきた複雑な歴史が記録されている。文献では檀君伝説は十三世紀末の『三国遺事』以前の記録がないため、いわゆる檀君朝鮮は東夷伝のなかには含まれず、韓国・朝鮮史は箕子朝鮮、衛満朝鮮から始まり、漢の四郡の時代から玄菟郡下の県名のひとつとして高句麗の名称が記載され、その後、高句麗の建国から三国時代に入っていく。朝鮮半島中南部の百済、新羅は韓族が主たる住民であったと考えられるが、高句麗は多民族が雑居し、また王系も夫余系であるなど複雑である」と評する。
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日本や中国やアメリカでの捉え方
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「衛氏朝鮮」の記事における「日本や中国やアメリカでの捉え方」の解説
豊田隆雄 は、「燕人の衛満は、王と行動を共にすることなく、兵とともに朝鮮に亡命する道を選んだ。当時朝鮮を治めていたのは、建国の父・檀君が君主の座を譲った(伝説上は)箕子の子孫・準王だった。彼は衛満を歓迎し、博士の官職と土地100里を与え、辺境の警備を任せた。ところが、である。紀元前194年、亡命してきた中国人を糾合して力をつけた衛満は、準王を攻撃して追放し、国を奪ってしまう。まさに恩を仇で返す所業である。彼は王倹城(現在の平壌)に新たな都を定め、王朝を打ち立てる。これが『衛氏朝鮮』の始まりだ。つまり、朝鮮初の国家は中国からの亡命者によって建国されたことになる。司馬遷の『史記』朝鮮列伝にも『朝鮮王満者、故燕人也』とはっきりと記されている。ところが韓国の歴史学者の中には、衛満を中国人ではなく燕に住んでいた朝鮮人だと主張する者も多い。『史記』にある『髷結蛮夷服而東出塞』の一文、すなわち『髷を結い、蛮夷の服を着て東に逃れた』という部分を根拠にしているのだろうが、髷が朝鮮族だけのものとするのは無理がある。『三国志魏書』にも同じような記述があり、そこには『燕人衛満亡命、為胡服』とある。胡服を朝鮮服と考えるのには無理があり、やはり衛満は朝鮮に亡命した中国人であろう。亡命者の衛満があっさりと朝鮮を支配できたのは、当時まだ青銅器文化だったところへ鉄器文化を持ち込んだからだといわれる。『歴史に初めて登場する政権が、他国からの亡命者によって建てられた』という事実は韓国人にとっては辛い現実である。彼らが日本にことさらに『漢字を伝えてやった』『仏教を伝来させた』と主張するのは、常に民族的なアイデンティティーが危機に晒されてきたことの裏返しだといえるだろう」と述べている。 武田幸男 は、著書のなかで衛満を「もと燕人の衛満」と記述している。 ペンシルベニア大学のRobert W. Preucelとマサチューセッツ大学のStephen A. Mrozowski は、衛満=朝鮮人説を「一部の北朝鮮の考古学者は、衛満が純粋な朝鮮人であったと考えることを好みます」と評する。 田中俊明は、「朝鮮」名は紀元前3世紀頃から知られていたが、歴史的実態が明らかなのは衛氏朝鮮が最初であり、「前195年ころのことで、そのとき、燕に仕えていた満という人物が、徒党1000人余りを率いて朝鮮へいき、そこに国をひらいた」「衛満は、漢帝国の中の燕国から亡命してきた」「燕人滿は、漢帝国のなかの燕王盧綰に仕えていたが、前一九五年、盧綰が匈奴に亡命し、燕國が瓦解したあと、滿は徒党を率いて東走し、燕・齊からの亡命者たちを従えて王となり、王險城に都した。王險城は、現在の平壤である」と記述している。 森鹿三は、燕が秦に滅ぼされ、その亡命者が朝鮮に流入した後、秦末期から前漢初期にかけても、戦乱を避けて大量の難民が朝鮮へ移動した状況のなかで「朝鮮には殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満が亡命してきてついに箕子を追いだし、朝鮮王となって今の平壌を都とした」と分析する。 日比野丈夫は、秦の始皇帝が中国を統一して、紀元前226年燕を陥れ、逃亡する燕王たちを追跡して遼東に進軍して5年目に捕虜としたとき、多数の燕人が朝鮮半島に流入した。その後楚漢戦争が始まると、中国人の流入はますます増大して、「漢のはじめ衛満というものが中国から亡命して今日の平壌に都をさだめ朝鮮国を立てたのは、じつにこのような地番があったからである」と分析する。 藤永壮は、檀君朝鮮と箕子朝鮮は説話的であるが、衛氏朝鮮は実在したとして、「燕からの亡命者・衛満が箕子朝鮮を滅ぼし」たとする。 矢木毅は、箕子の末裔と称する中国化した政治勢力が、「前漢の初めに燕人の衛満によって減ほされた」と記述している。 石平は、「朝鮮半島最初の王朝・衛氏朝鮮は中国人が建国したという史実や、朝鮮の歴代王朝が中華帝国の属国となり続けたことの劣等意識から、韓民族は建国物語『檀君神話』を生み出した」と指摘している。 宇山卓栄は、「箕子朝鮮に続き、紀元前195年頃、衛氏朝鮮が建国されました。都は箕子と同じく、王険城(現在の平壌)に置かれました。やはり、この衛氏もまた、中国人です。このように中国人の支配者が続くのは朝鮮人に、国を運営する能力やノウハウがなかったからだと言う他にありません。衛氏朝鮮は燕の出身の武将の衛満によって建国されます。燕は、現在の北京を中心とする中国東北部の地域です。劉邦の前漢王朝の成立に伴い、彼らの勢力と対立していた燕の人々を、衛満が率いて朝鮮に亡命しました」「中国支配を否定する韓国…衛満は鉄製の武器で武装し、その軍隊も優れた機能と統制を兼ね備えていたので、朝鮮人はほとんど対抗できませんでした。高度な文明を擁していた中国人にとって、朝鮮人を屈服させるのは難しいことではなかったでしょう。箕子朝鮮の実在が未だ確定されていないのに対し、衛氏朝鮮の実在は確定されています。そのため、現在の韓国は中国人起源の箕子朝鮮を否定しても、同じく中国人起源の衛氏朝鮮を否定できず、中国人が古朝鮮を支配していたという実態を結局、覆い隠すことができません。それでも、かつては衛満が朝鮮人であるという無理矢理な理屈をでっち上げていました。衛満が朝鮮に入った時、髷を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定でき、朝鮮人である衛満が中国の燕に滞在し、朝鮮に帰って来て国をつくったと説明されていました。韓国の学校でも、1990年代までそのように教えられていました」と述べている。 西嶋定生は、「周知のように、漢帝国ではその国内体制として郡県制と封建制とが併用された。いわゆる郡国制がそれである。この場合の封建制とは、皇帝の一族や功臣を諸侯王・列侯とし、これに食邑を与えてこれを国と称し、その支配を委任するというものであり、そこに郡県制以外の間接的統治方式が復活したのである。この封建制の復活が周辺地域の首長に対して官職を授与し、これと君臣関係を結ぶという形式を可能ならしめた。その結果出現するのが朝鮮王衛満・南越王趙佗などの外藩国王である。これらはたまたまともに漢人出身者ではあったが、その統治する住民はほとんど異民族であり、そこには郡県制は施行されず、また朝鮮王・南越王も内臣である中国内の諸侯王と相違して、外臣と呼ばれる扱いをうけていた」と述べている。 鈴木織恵は、「生没年未詳。衛氏朝鮮の初代王。燕人。紀元前一九五年に燕王が匈奴へ亡命した際に、大同江流域の平壌に亡命して箕子朝鮮国王の箕子の臣下となるが、翌年に箕準王を追放して王となった。これを衛氏朝鮮と呼ぶ。衛満は漢に朝貢して遼東太守の外臣となる一方で、周辺の領域を侵攻し、真番や臨屯を降伏させて勢力を拡大した。衛満の孫・右渠の代になると、さらに勢力は拡大し、右渠は漢の皇帝への拝謁を拒んで対立し戦争へと発展した。漢の武帝は大軍を派遣して軍事的制圧を進め、紀元前一〇八年頃に衛氏朝鮮は滅亡した。旧衛氏朝鮮領には楽浪郡が新設され、漢は朝鮮半島を直接支配した」と述べている。
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