日本らい学会での論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 08:43 UTC 版)
1941年2月22日、仏教系新聞『中外日報』が小笠原の学説を「らいは不治でない。伝染説は全信できぬ」という題で紹介した。彼はらい菌に遭遇して発病するが如き体質が問題とすべきである、とした体質論を主張した。この記事の登場は、当時らい医療の絶対的権威であった光田健輔ら療養所医師には黙認できないものであった。早田晧は同じ新聞に小笠原への批判の文章を書いた。小笠原はこれに対し2回反論したが、早田は4回にわたり隔離を正当化する文章を書いた。朝日新聞も小笠原の学説を紹介した。大阪帝国大学の桜井方策は小笠原の学説を朝日新聞で批判した。 同年11月14日 - 15日、大阪帝大微生物学研究所で第15回日本らい学会が開かれた。初日小笠原は「らい患者の心臓」を発表、らいの発病条件は体質と栄養不良による虚弱不良にあると述べた。2日目、野島泰治はらいの誤解を解くという報告で小笠原を攻撃した。座長を務めた村田正太(まさたか)はらいを伝染病であるかと小笠原に質問した。らいは広義の伝染病ではあるが誤解は起こさねばならぬ、と述べた。村田はそれに満足せず、伝染病であるかと再び問い、それは伝染病であるという言葉を聞くやそれでいいと、終了した。その結果、小笠原が体質論を撤回したと受け止められ、朝日新聞と大阪毎日新聞は小笠原が論争に敗北したものとして報じた。
※この「日本らい学会での論争」の解説は、「小笠原登」の解説の一部です。
「日本らい学会での論争」を含む「小笠原登」の記事については、「小笠原登」の概要を参照ください。
- 日本らい学会での論争のページへのリンク