起源・歴史
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以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし坂上田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも坂上田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流で、現在の形式のねぶた祭りの発祥は浅虫ねぶたとされている。一方で、田村麻呂の側近である文室綿麻呂は史実の上で青森県まで達した可能性が高く、また青森ねぶたのみ、他の地域のねぶた・ねぷたと大きく異なる、日本の伝統音楽には他に類を見ないほどの勇壮な囃子であることから、蝦夷征伐説の可能性もなお否定できない。青森市内には妙見の大星神社(征伐軍の戦勝祈願)・幸畑地区の熊野神社(蝦夷の砦「甲田丸」跡)・沢山地区の稲荷社(蝦夷「屯慶」没所)等、蝦夷征伐を伝える痕跡が残っている。 藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対ししばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には戦意高揚の為に解禁されており、「桃太郎の鬼退治」をもじった「桃太郎のルーズヴェルト退治」(製作者は北川金三郎)といったものが製作された。戦後は逆に進駐軍の影響により西洋への敵対的な表現ができなくなり、また刀を持ったねぶたも事実上制作不能だった。進駐軍撤退後には企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分はその上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に北川啓三というねぶた師が針金を用いて指を1本ずつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われているが、その表現性の高さから程なくして主流となった。北川によってロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功しより芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの礎は北川が築いたと言える。その後、佐藤伝蔵や鹿内一生によって更にねぶたの造形性が高められ現代のねぶたの形が整った。千葉作龍や竹浪比呂央が郷土(青森)の題材をねぶたに取り入れた。
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小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。 本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。1970年頃から、島村俊廣が実戦で継続的に用い、その後も加藤正夫や藤沢秀行らが常用して大流行。現代も人気布石の地位を保ち続けている。
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江戸時代の享保6年(1721年)、陸奥國八戸藩総鎮守の法霊社(現在の龗神社)に対し、日和乞並びに豊作感謝の意を込めて、神輿を長者山虚空蔵堂(明治になり神仏分離令により長者山新羅神社)に渡らせたのが三社大祭の始まりである。当時は法霊社の神輿行列は市内を神幸渡御し長者山に到着後、中日には長者山で法霊社別当(現、龗神社宮司)によって例祭が執り行われ、3日目に行列ともども法霊社に還御するという神事だった。のちにその神輿行列に対して踊りや屋台山車などを奉納する形で町民がついて回り、現在の形へとつながってゆく。 江戸時代当時法霊社祭礼は藩による運営で、神輿行列許可、祭礼日程などは全て藩によって取り仕切られ、要職にあった家臣が徒目付や奉行として行列運行の役を担っていた。また、城内二の丸に鎮座していた法霊社は、すぐ近くに南部家の居城があった関係で一般の参拝が許されていなかったが、祭礼の時期だけは午前8時から午後4時までの間のみ、一般領民などの参拝が許されていた。江戸期の祭礼の様子に関しては、八戸藩日記、法霊御神事諸事覚、法霊御神事日記など、藩などが記した文献で確認されている。 現在は、三社大祭を執り行う根拠となる法霊山龗神社の神社行列に加え、明治期になって衰退していた大祭の再興を目的とし、大澤多門の発案により参加した長者山新羅神社、神明宮の各神社行列、それに附祭として合計27台の豪華絢爛で巨大な山車が市内中心部を運行する形となっている。 龗神社の例祭に新羅神社と神明宮が参加してからは、中日例大祭に長者山で龗神社宮司が執り行っていた例大祭や直会による振る舞いなどが長者山新羅神社の例大祭へと変化し、龗神社御神輿や神職による長者山への逗留も廃止され、各神社日帰りの祭りになっている。 この大祭の起源から変遷の歴史を重要視する観点から、三社大祭はあくまでも発祥である龗神社の祭礼であり唯一の根拠であると考え、二神社と比べて龗神社を特別に重要視する傾向が非常に強くあるが、龗神社の見解としては、27台ある山車もどこの神社の附祭かによって奉斎する神が違い願意も異なるため、三社大祭とは連綿と続く国民性や国体の指針としてその精神を伝える形に過ぎず、本質であるその祈りの価値に上下があるなどということは考えられないとしている。 各神社への附祭となる山車の大きな特徴は人形がせり上がり、左右の大きく広がる仕掛けを持つ豪華な山車にある。当初は1体の人形を乗せる程度だったものが、明治の中頃より物語を表現する山車に変化し、昭和50年代頃から徐々に仕掛けが施されるようになった。近年では煙が吹き上がるなどの仕掛けもあり、豪華さ、荘厳さでは他に例を見ない規模となっている。 山車は町内ごとに製作されるが、これも明治時代に大澤多門が発案したものである。
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筥崎宮の放生会は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」という趣旨により行われる。期間中に行われる供養祈願祭では、やむを得ず殺生した生き物や、死亡したペットなどの供養と、商売繁盛、家内安全の祈願を行う。 放生会は「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という神託により始められたとされ、延喜19年(919年)に筥崎で放生会があったという記録がある。元中6年(1389年)に九州探題の今川貞世が筥崎宮大宮司五智輪院に宛てた文書に「放生会不可怠」という記述がある。慶長年間に途絶えたのち延宝3年(1675年)に再興し、毎月15日に法会として行っていたが、明治時代の神仏分離により法会としては消滅した。 御神幸(神幸行事)は古くは筥崎宮から博多湾を船で渡り、博多の夷町にあった頓宮(現在の博多区大博町の恵比須神社のある場所)へ渡御を行っていたが、天正年間に戦乱により途絶えたとされる。元禄14年(1701年)に神職等の願いにより当時の福岡藩藩主黒田綱政が寄進を行い、海岸部に頓宮を設け、本宮と頓宮の間を往復する形態で再開された。神幸行事は福岡市指定無形民俗文化財。 祭りの期間中の来訪者数は延べおよそ100万人とされる。祭の様子を表す言葉として「ナシもカキも放生会」と言われる。
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小千谷仏壇の起源は、はっきりしない。もともと小千谷は長岡仏壇の生産地域であり、長岡市側は門徒が多く、小千谷市でも長岡仏壇を使用している地域も多い。山間部などでは、曹洞宗や真言宗の寺院数の割合が多いが、次第に浄土真宗の影響を受け、他宗徒においても仏壇を使用することになったとみられる。欅の木目をそのまま生かした仏壇が製作されるが、これは他宗徒が多いことの影響とされる。
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夜久野郷総社、旧夜久野町内の195の神社の一の宮・総鎮守とされる額田一宮神社の秋の例大祭として開催される。 この祭りがいつ始まったかの正確な記録は残っていない。しかし2005年(平成17年)発行の『夜久野町史』に「90年前」との記述がある[要文献特定詳細情報]ため、少なくとも百余年の歴史があることはわかっている 五穀豊穣を祝って神に感謝し、来年の豊作と家内安全・無病息災等を神に願い、旧山陰道を通る旅人を楽しませようと江戸時代に始まったとされる。
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山に画かれた字跡に点火する行為の起源については、平安時代とも江戸時代とも言われているが、公式な記録が存在するわけではない。場所と行為を具体的に特定した史料が登場するのは近世に入ってからである。『雍州府志』によると、盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたとあり、『花洛細見図』にも「盂蘭盆会の魂祭」として紹介されていることから、江戸時代前期から中期までにはそれに類する性格を持っており、大文字、妙法、船形、加えて所々の山、原野で火を点けていた。 なお、以前の京都は過度の森林利用のせいでハゲ山が多く、森林は少なく、それが故に送り火という文化が産まれたのではないかという説がある(京都精華大学人文学部教授 小椋純一による)。
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ハンティとマンシは元来同じ民族であったが、鉄器時代以降紀元1世紀頃に分かれたとされる。古くは騎馬文化を持っていたようであるが、シベリアの環境への適応から、狩猟・漁猟・トナカイ飼育の生活を導入するようになった。10世紀頃にはロシア人との接触をはじめ、11世紀までには定期的な交易を行っていた。 モンゴル帝国の拡大にともないマンシ人と共に服属し、西シベリア汗国に含まれた。その後、ロシア帝国のイェルマークによるシベリア征服で、西シベリア平原がロシア帝国による支配を受けた。 ハンティ人は、ロシア人との同化が、マンシ人と比較すると遅く17世紀以降であったという。
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マンシ人の祖先はハンティ人の祖先と同祖であり、ウラル山脈の西側に居住していた。ペルミ近郊でマンシ人の遺跡が発掘されている。 そして、紀元前10世紀以降に西シベリア平原に移住し、その土地の民と同化していったと言われる。一方、他の文献によると、紀元500年頃に、南にあるウラル・ステップから現在の位置にやってきたとされる。鉄器時代以降の紀元1世紀頃に分かれたとされる。 古くは騎馬文化を持っていたようであるが、シベリアの環境への適応から、狩猟・漁猟・トナカイ飼育の生活を導入するようになった。10世紀頃にはロシア人との接触をはじめ、11世紀までには定期的な交易を行っていた。モンゴル帝国の拡大にともない服属し、西シベリア汗国に含まれた。その後、ロシア帝国のイェルマークによるシベリア征服によって、西シベリア平原がロシア帝国による支配を受けた。 遅くとも16世紀にはロシアとの接触をしていた。ロシア及びソビエト連邦政府との接触が多かったため、マンシ人は東方のハンティ人に比べると、ロシア人との同化が全般的により進んでいる。 1960年代、ハンティ・マンシ自治管区・ユグラで石油開発が始まると、第二次世界大戦以降ではソビエト連邦史上最大規模の内地強制移住が行われた。この結果、マンシ人・ハンティ人の少数民族化が進み、今日では自治管区の人口に彼らが占める割合はわずか1%強と言われる[要出典]。 他の北方民族の多くと同様、ソビエト連邦はマンシ人にも「国民文学」を作るように要求し、主にレーニン革命によってもたらされた啓蒙と進歩を称揚する作品が作られた。この分野における最も著名な作家として、ユーヴァン・シェスタロフ(英語版)がいるが、ソヴィエト連邦崩壊後には、彼はシャーマニズムに転向し、マンシ人はシュメールの末裔であると主張するようになった[要出典]。
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マクビティブランドは1830年にロバート・マクビティ (Robert McVitie) がスコットランドのエディンバラで、パンの製造販売所として開業した。最初のビスケットは、新入社員のアレクサンダー・グラント (Alexander Grant) が1839年に開発した。重曹を多く含有して消化に作用する世界で初めてのビスケットであることから、マクビティ・ダイジェスティヴ・ビスケット (McVitie's Digestive) と名付けた。 1925年に開発されて今日も親しまれる片面にチョコレートを塗布したビスケットは、イギリスで1年間に7100万パッケージ以上売り上げて1秒に52枚の割合で食されている。 1985年に多くのシリアルやドライフルーツを混ぜたホブノブ味、1987年にミルクチョコレート味、などもそれぞれ発売された。
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イリシッドの起源は謎に包まれている。 第2版のサプリメント『The Illithiad』では、イリシッドは"彼方の領域"という既知の次元界とは完全に無縁な不可解な世界から来たのではないかと示唆している。人類の歴史の数千年前に彼らは何処から出現し、数多の世界に広まっていったことを、最古の種族による最古の古代史書の幾つかに(他の種族に関する言及のないものにさえ)イリシッドに関する言及があることが明示している。 第3.5版のサプリメント『Lords of Madness: The Book of Aberrations』では滅亡に瀕した未来の世界から、それぞれのゲーム世界における2000年過去の時代へとタイムトラベルしてきたとしている。 第4版のサプリメント『Wizards Presents: Worlds and Monsters』(2008、未訳)では、イリシッドが彼方の領域を起源としていることに言及しており、『次元界の書』(2008)では現在のマインド・フレイヤーはこの世で過ごすうちに人型の形態をとるようになったもので、本来の生活環と異なる進化を遂げたとある。 第5版のサプリメント『ヴォーロのモンスター見聞録』ではただ数千年前にアストラル界に拠点を築き、内方次元界で威勢を誇っていたとだけある。 いずれにせよ、イリシッドは遠い昔、他の知的生物を奴隷にすることで広大な帝国を築いていた。一説には”Nihilath”という名の帝国の版図は物質世界から数多の次元界にまで及び、その勢力はデヴィルとデーモンが帝国と取引するために両者の誕生以来続く闘争(流血戦争)を休止させるほどであったという。第2版における帝国の中枢“ペナンブラ(Penumbra)”は太陽をその直径程の長さの円筒に収め、円筒壁面中央から両面に日の射さない大地が乗った半径1億マイルに及ぶ円盤が広がるという巨大な人工天体であった。 だが、帝国は滅んだ。 イリシッドの主要な奴隷、そして兵力は冒涜的な科学技術によって世代を重ねて改造された人型戦闘種族であった。気の遠くなる年月の果てに名前すら忘れられた彼らはしかし、主人が発する精神支配への抵抗力を徐々に高め、時折反抗するようになる。そして遂に"ギス"という女戦士が翻した反旗に種族全体が立ち上がった。自らを"ギス族"と称した彼らの反乱は瞬く間に全領域に拡大し、帝国は瓦解。物質世界にいて生き残ったイリシッドは地下世界に逃れた。 そして、ギス族も思想的な対立から"ギスヤンキ"と"ギスゼライ"とに分裂したのである。 第5版ではイリシッドの帝国の遺構が発見されていないこと、かくも強大な帝国が僅か1年程で崩壊したという伝説から、帝国はその拠点ごと未来へタイムトラベルしたのではないかという可能性が示唆されている。
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秋田県稲川町に伝わる通商産業大臣指定の伝統工芸品の川連塗の椀や膳を県外に販売していた阿部雄二が、昭和30年後半に川連塗の技法を応用し仏壇製造を開始したのが始まりとされる。はじめは山形仏壇をモデルにして作られた。1963年(昭和38年)に梨地仏壇と言われるオリジナル製品が開発され、また各産地型の仏壇も製作されるようになった。 以来、消費地での品不足と価格競争力を背景に昭和50年代には全国有数の産地となった。昭和60年代には年間製造本数が約35,000本で、年出荷額は70億円にも及んだ。しかし、1998年(平成10年)以降は海外産地の台頭により製造本数は大幅にダウンした。 生産される仏壇の種類は、新潟型・金沢型・富山型・名古屋型・三河型・京型・江州型などである。石川県・富山県・新潟県などの北陸地方や東北一円、中京一帯をはじめとして、産地メーカーは全国に販路を持つ。
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1925年(大正14年)、当時日本最大の仏壇仏具問屋であった名古屋の岡谷鋼機仏具部が、徳島のフジモトに仏壇を発注し、1本を満州に輸出している。徳島は元来家具・鏡台の一大産地であり、仏壇の材料には事欠かず、木工技術の基盤もある。そこから仏壇産地としての立ち上がりが早かったとみられる。 徳島はもともと大阪との交流が密接であった。大阪の唐木仏壇技術が徳島に伝わり、徳島仏壇の発展の基礎となった。大阪は第二次世界大戦の戦火に見舞われたが、戦後の復興と共に大阪市場では大量の仏壇を必要としていたことから、徳島での生産が拡大、大産地となった。 徳島メーカーの技術は高く、高級品を中心として製作されている。また、近年では流通産地としての機能も高まっている。
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1940(昭和15年)以降、中井沢武一が針箱の木地屋から仏壇製作に乗り出したのが創始とされる。静岡が仏壇産地化するのが、1947~48年(昭和22~23年)頃であり、鏡台・針箱・下駄の製造卸業が東京・名古屋などの需要増加に伴い、仏壇製造卸業に転身した。 昭和20年代後半から30年代にかけ、創価学会の急激な大発展によって、爆発的な「正宗仏壇」の需要が起きた。静岡・徳島の正宗仏壇産地は一大躍進を遂げ、生産高の約60%を占めた。これにより、唐木仏壇産地が形成されたともいえる。また、東京が第二次世界大戦の戦禍により、仏壇生産が間に合わず、静岡産地に注文が殺到した為、八宗仏壇も東京唐木仏壇産地の需要も吸収し、大発展を遂げた。東京で需要の高い小型仏壇を得意としていた為に出荷額は激高し、本数的には徳島以上の産地となり、バブル絶頂期まで好景気が続いた。 1990年代、創価学会が日蓮正宗から破門され、またバブル崩壊により正宗仏壇の売れ行きが悪化。正宗仏壇メーカーが八宗仏壇の生産をするなど混迷した。1990年代後半からは海外製品の台頭が静岡産地を圧迫しているが、製造産地としては商品の多様化をはかり、高級仏壇も製造されるようになった。また流通産地としての機能も大きい。
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大阪における仏壇の歴史は仏教が伝来した6世紀頃といわれ、大阪仏壇(塗仏壇)の歴史は16世紀、石山本願寺が建立された頃とされる。江戸時代初期になると、寺請制度などにより仏壇を持つ家が増え、船場の指物師が杉・松・檜などの材料を使用し、庶民向けの簡単な戸棚仏壇を作ったのが、大阪唐木仏壇の始まりとされる。また同時期、大阪には東南アジアから唐木材料が輸入されるようになり、指物技術も発達したことから唐木仏壇も製作されるようになった。(一説には金仏壇よりも唐木仏壇の歴史が古いと言われる) 大阪は人口も多い消費地であることから戦前戦後を通して大阪は唐木仏壇の産地であり、その伝統は今に受け継がれている。
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小樽で仏壇製作がはじまったのは明治20年代とされる。 小樽は新潟県出身者が多かったので、形式としては新潟・白根仏壇の系譜を引く。塗師が新潟から移住し、その後、次第に仏壇を組み立てる木地師などの職人が定住するようになった。 道内生産の90%以上を小樽で独占しており、圧倒的なシェアを誇る。北海道は元々、大型で高価な仏壇の売れない地域であり、そうしたこともあって小樽仏壇は道内で根強い人気があった。昭和50年代まで小樽では盛んに仏壇が製造され、道内に出荷されていたが、近年、海外製の仏壇に押されてきている。
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起源・歴史
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起源は不明であるが、平安時代前期の文人である都良香の『富士山記』による「貞観十七年十一月五日吏民仍舊致祭」にあるように、役人による祭りからの派生として始まったといわれる。 豊作に感謝する民衆による祭りとして始まったといわれる。 明治時代には大宮青年団(大宮は市の中心地の名称)により、祭りのさらなる発展が図られる。
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起源・歴史
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ブドウ品種学者たちは、カナイオーロの原産地はイタリア中部である可能性が最も高く、おそらくはトスカーナ地方であろうと考えている。14世紀初頭には、農学者デ・クレシェンツィがその著作においてウーヴァ・カナユオラ (Uva Canajuola) というブドウに言及し、「とても美しいブドウであり、保護すべき」と評している。カナイオーロはキャンティ地区で広く栽培されていた品種であり、18世紀まではキャンティのワインのブレンドにおいて最も比率の高いブドウ品種であった可能性が非常に高い。イタリアの植物学者コジモ・ヴィッリフランキの著作 (『トスカーナのワイン醸造』Oenologia toscana (1773) ) には、キャンティのワインはカナイオーロ・コローレ (Canaiolo Colore) を主体とし、サンジョヴェーゼ、マッモーロ、マルツェミーノ(英語版)とブレンドしていたと述べられている。 19世紀半ばに第2代リカーゾリ男爵ベッティーノ・リカーゾリは、サンジョヴェーゼを主体とし、果実味を強めサンジョヴェーゼのタンニンを和らげる目的でカナイオーロを加える、新しいキャンティの製法を生み出した。ワイン専門家のヒュー・ジョンソンによると、サンジョヴェーゼとカナイオーロの関係は、カベルネ・ソーヴィニヨンをメルローの果実味で和らげるというボルドーの伝統的なブレンド方式といくらか類似しているという。サンジョヴェーゼの増産に殺到するワイン生産者が相次ぎ、サンジョヴェーゼが突出した著名な栽培品種になるにつれ、カナイオーロの生産は衰退していった。 14世紀から続く伝統的な手法であるゴヴェルノにおいて、カナイオーロは陰干し期間中に腐敗しにくいという特性から重宝された。しかし戦後のメッツァドリア制(地主と小作農が出費と利益を折半する制度)の解体と1970年以降のD.O.C.規定による品質管理・規制により、小作農の労働集約的な作業に依拠していたゴヴェルノは廃れ、それとともにカナイオーロの重要性も薄れ、栽培の減少に拍車をかけた。
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