おくり‐び【送り火】
おくりび【送り火】
送り火
送り火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 07:53 UTC 版)
16日の野火を送り火(おくりび)と呼ぶ。京都の五山送り火が有名である。15日に送り火を行うところも多い(奈良高円山大文字など)。 また、川へ送る風習もあり灯籠流しが行われる。山や川へ送る点は、釜蓋朔日で記したとおり故人が居るとされるのが文化的に山や川でありそのようになる。 なお、故人を送る期間であるが、16日から24日までであり、お迎え同様に墓参などをして勤める。 仏教では広くとった場合、お盆は1日から24日を指す。これは、地獄の王とされる閻魔王の対あるいは化身とされるのが地蔵菩薩であり、24日の地蔵菩薩の縁日までがお盆なのである。「地蔵盆」も参照。 ちなみに、天道すなわち大日如来の「大日盆」は、その縁日に則って28日である。
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送り火(おくりび)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:09 UTC 版)
狐の顔を思わせる形をした怪火。追跡用にプログラミングされた使い魔。
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送り火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 08:55 UTC 版)
「ウルトラQ dark fantasyの登場怪獣」の記事における「送り火」の解説
第10話「送り火」に登場。 人間の死を司る一族で、その死の際に「原風景」を見せて安らかな死を与え、死なせた相手の金銭を奪って生業としている。他人に素性を知られてはならないうえ、自らの過去を記憶から抹消しており、それゆえ「原風景」というものも持たない。 涼と知り合った送り火の少年ヒタキは、その「原風景」に「マザーランド」と名づける。涼たちと別れたヒタキは、仲間の赤目と共に何処かへ消える。 出演/ヒタキ:上條誠、赤目:周防進 第10話の内容は、脚本を担当した太田愛が『ウルトラマンティガ』のころから構想していたものである。ヒタキの名は鳥類のヒタキに由来する。 本作品では「少年が大人になる瞬間」を題材としていたことから、ヒタキ役にはその年代に当たる上條誠が起用された。監督の原田昌樹や脚本の太田は『ブースカ! ブースカ!!』に出演していたころから上條を評価しており、担当作品に度々出演させていた。 赤目役の周防は、映画『新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE』で振付師を務めていた縁から起用された。 監督の原田は、後年病気になって送り火のような死の前に苦痛を取り除く存在の必要性を実感したという。
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送り火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 18:07 UTC 版)
「 五山の送り火」も参照 毎年8月16日(かつては旧暦の7月16日であった)、19時半ごろには大の字の中心(金尾、カナワ、カナオ、カネオ)にある弘法大師堂で行事・般若心経の読経が開始され、20時から「大」の字の送り火が行われる。運営は大文字山麓、浄土寺界隈の民間人らの組織する保存会が行っている(後述)。ちなみに火床周辺は昭和13年/26年の地形図では「大文字霊場」と記されている。また『京都故事物語』によれば、辺りの面積は7,000坪程度であるという。この送り火は本来の盂蘭盆の「送り火」としての意味だけではなく、都の安寧や悪霊退散を願うものでもあったともいい、家内安全や無病息災なども願う伝統的・包括的な宗教行事である。 「大」の字は第一画の横棒を一文字といい80メートル、第二画の左払いを北流れといい、一文字より上に突き出した字頭(じがしら)部を含め160メートル、第三画の右払いを南流れと言い120メートル。火床の数は大の字中心より上が9、左が8、右が10、左払いが20、右払いが27。これに大の字中心の「金尾」を加え合計で75。 他に妙法、左大文字、船形、鳥居形でも行われ、これらを併せて「五山送り火」とし、京都の夏の風物詩の一つである。現在は20時ちょうどに、五山の先頭を切ってこの大文字が全火床一斉に点火され、25分から30分程度燃焼する。なお、火床の所在地は京都市左京区浄土寺七廻り町1。 なお日本が太陽暦を採用してからは点火は20時に行われているが、それ以前、旧暦の時代においては、約1時間前、太陽暦採用後で19時ごろに点火されていたと言う説が、2014年、在野の研究家である青木博彦より提唱された。これは本居宣長 1756年『在京日記』に、送り火当日(当時の暦で7月16日)、ある人物の家を訪れたとあるが、この時に月が出るのを見たと記されていたことがきっかけとなっている。京都市の標高や国立天文台の公開数値から計算すると当日の月の出は20時6分ごろと推定され、日記の記述から本居の足取りを推測した結果、本居が三条大橋で大文字を見たのは19時16分ごろとしている。また送り火の燃焼時間を20分と推定し、19時16分ごろにはまばらに消え残っていたと記されていることから、点火時刻はその20分前の18時56分ごろとしている。なお当日の日の入りは18時46分であり、よって点火はその直後に行われたことになる。また日暮れは19時22分であるから、そのころには既に消火していた。このため送り火は現代の様な「夜間」ではなく、夕方、薄暮に行われていたことになる。青木は他にも1603年『慶長日件録』や1864年『花洛名勝図会』も分析し、明治時代に至ってもしばらくの間は19時ごろに点火されていたと結論している。また、当時は現在のように携帯できる照明器具が発達していなかったことも影響し、薄暮に行われたのではないかともしている。なお1780年『都名所図会』でも、送り火の紹介には「毎年七月十六日の夕暮」と記されている。 大文字山で燃やされるのは薪(アカマツ)が600束、松葉が100束、麦わらが100束。要するアカマツは25本、約4トン。前日の8月15日正午ごろより、慈照寺の門前で護摩木を受け付けている。薪については主に大文字保存会が管理する、大の字周辺およびそれより上部の約12ヘクタールにおよぶ共有林のものが使用されるが、近年マツクイムシによる被害や、時代の流れによるアカマツ林の手入れ不足・土壌の肥沃化(アカマツは痩せた土壌を好む)による影響などもありアカマツが減少。植林を行ったり、隣接する銀閣寺山国有林から融通されるなどして対応している。 各火床については古来は杭を立てそれに松明を結わえたものとなっていたが、寛文・延宝年間(1661年 - 1681年ごろ)には、薪を積み上げる形に移行した。近年までは単に土を掘ったところに薪を井桁に積み上げたものであったが、1969年以降、火床については細長い大谷石を二つ並べたもの(上から見ると「=」の形状)に薪を井桁に積み上げるかたちとなっている。薪の間には松葉を詰め、周囲には麦わらを立てかけ、点火を行っている。 各戸の受け持ちは原則として1戸が2床で、負担を均等化するためか、古くから交代制になっている。「大」の中心である「金尾」は4戸、「大」の最上部、字頭のものは2床一組でこれを2戸で受け持つやはり大きなもの。また、担当した火床の燃え方が悪いとその家に不幸が続くとの言い伝えもあるという。 薪は毎年2月に切り出され、4月から翌5月まで火床近くの倉庫で乾燥させ、麓まで下ろし各家庭で保管。8月16日に再度火床まで運搬する運びとなる。 年一回の送り火のために多大の準備を要し、切り出しのほかにも各所の下草や雑木の刈り取り、近年比較的入手困難な麦わらの確保、火床の維持管理など多岐にわたるものであり、また地元民も現在は農民というわけではなく作業への慣れの問題もあり、負担は大きい。2004年『京都・火の祭事記』によれば中心メンバーはほぼ毎週の土曜日曜、その他は年間平均約10日をボランティアに充てている。 送り火当日の作業人員は総計約300名。雨への備えのため、火床への薪上げは当日まで行われない。かつて作業者は1週間前から沐浴・酒肉断ちなどを行い、当日には1束10キログラムの薪束を一人2束担いで1.5キロメートルにおよぶ山道を4回登ったというが、1972年にはこれに代わり約400メートルのリフトが設置され、途中からはそれを用いている。 また送り火当日には事故に備え、消防および消防団の協力も見られているほか、京都市文化財保護課職員による立ち会いもあり、関係者が消火を確認してから下山するのは、22時以降になるという。 送り火の由来については諸説あり様々な文献で様々な説が見られるが、送り火という性質上、仏教が伝来し民衆に深く根付いた時代より後のことであると考えられる。また公式な記録が見られないことから、為政者・権力者の側ではなく、民衆の側より発生したのではないかと見る向きもある。送り火について言及している最も古い文献は慶長8年(1603年)の『慶長日件録』7月16日に「山々灯を焼く」と記されているものである。その後、江戸時代に発刊された各種の都案内本の類ではほとんどで送り火への言及が見られたが、何故か地図への反映は遅れ、駒敏郎によれば1709年(宝永6年)の「京絵図」が最も古い。 足利義政説、延徳元年(1489年)、足利義政が病によってその息子である足利義尚を亡くした時に、相国寺の横川景三らによってなされたというもの。『山城名跡志』など。大文字山が慈照寺領であったことを示す資料があるといった意味で有力視されている。 空海(弘法大師)説。平安初期、弘仁年間に悪病が流行したとき、弘法大師が山頂でゴマ行法を行ったというもの。また『都名所図会』、『花洛名勝図会』では、浄土寺が炎上した時に本尊である阿弥陀仏がこの峰に飛び去り光明を放ったものを、弘法大師が大文字に改めた、と記されている。その他にも空海説はいくつか見られるものの、弘仁年間より近世に至るまで大文字について触れられている文献が無く、この様な古い時代から行われていたとも考えにくいといった意味で、真実性については疑問が残る。ただし前述のように、火床中心部に弘法大師が祀られていることも事実である。 近衛信尹説。中川喜雲、1662年『案内者』によれば、「大文字は三藐院殿の筆画にてきり石をたてたりといふ。」。先述『慶長日件録』が1603年、近衛信尹の没年が1614年と時代が近いことを考慮すると有力な説であるという。 また『新撰京都名所図会』では、如意ヶ嶽(大文字山)が送り火の山として選ばれた理由を、この山裾一帯が埋葬地であったが故に、それにふさわしかったのではないかとしており、『京都市の地名』ではそれに加えて、この山が洛中のどこからでも見ることができたからではないかともしている。 「大」の字の意味についてもやはり諸説あり、「大」の字を人の五体に見立てたとの説もあれば、仏教法相学でいうところの「四大」、すなわち地、水、火、風が由来であるとも言われ、「大」の字が五芒星を表す、さらにはこの五芒星は北辰、すなわち北斗七星または北極星になぞらえたものであるとの説もある。 火床の数は5位75法、すなわち75の煩悩が由来であるとする説があり、地元の浄土院もこれを採用している。ただし古い文献によれば火床の数は(そして火床の大きさも)まちまちであった。『雍州府志』では72または59余り、『京都坊目誌』では69床などがその一例である。 「大」の字の筆者についてもこれもまた諸説あり、前述の近衛説であれば1662年案内者によれば近衛信尹の、1658年『洛陽名所集』によれば青蓮院門主の、1684年『苑萄泥赴』または1711年『山州名跡志』によれば相国寺の横川和尚の筆などとされ、1684年の『雍州府志』でも謬伝が多しと紹介されている。また、大の字の向きについては、相国寺または室町御所を向いているという説、または、特に御所の池に映る様に向いている説や、一条通を向いているという説などがある。ちなみに大の字は丸太町通あたりより以南は段々と見えがたくなり、三条通からは半分程度しか見えない。一見Kの字に見えるため、かつては外国人観光客が「KYOTOの頭文字だ」と勘違いするようなこともあったらしい。 この節全体についての参考文献は以下を参照。
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