送り火の中止と白い送り火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:50 UTC 版)
「如意ヶ嶽」の記事における「送り火の中止と白い送り火」の解説
太平洋戦争下にある1943年(昭和18年)、主として連合軍の空襲への備え、防空上、灯火管制上の観点から、送り火の点火は見送られた。屋外での焚火等が禁止されており、空襲警報発令時に即座の消火が困難であるとみられたためという。そのため同年8月16日は早朝より第三錦林小学校の児童400人とその他一般人400人、計800人が白いシャツを着用し大文字を登り、ラジオ体操を奉納し、これに代えることとなった。当時の京都新聞では「英霊を送る」ともされている。 翌1944年には錦林小学校および第二、第三、第四錦林小学校の児童が人文字を表し、1945年も中止となっていたが、終戦より1年余りが過ぎた1946年8月16日には4年ぶりに送り火が行われた。 2012年(平成24年)3月11日午後には、前年発生した東日本大震災の追悼のため、第三錦林小学校児童および地元住民ら約400人により、白い紙で大の字を作った。 なお、冬季積雪時「大」の字が白く浮かび上がった様子を「雪大文字」と言う。
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