^_^霞ヶ浦とは? わかりやすく解説

かすみがうら


かすみ‐が‐うら【霞ヶ浦】

読み方:かすみがうら

茨城県南部海跡湖面積167.6平方キロメートルで、琵琶湖に次ぐ。富栄養湖。ワカサギ・シラウオなどの魚類が多い。

霞ヶ浦の画像

霞ヶ浦

恵みの湖 霞ヶ浦
霞ヶ浦は、西浦北浦鰐川常陸利根川の4河川総称で、茨城県東南部位置する海跡湖です。湖面積は220km2と、日本2番目に大きな湖です。波崎町太田地先利根川本川合流してます。

潮来市上空から見た霞ヶ浦(西浦)
潮来市上空から見た霞ヶ浦(西浦

河川概要
水系利根川水系
河川名霞ヶ浦
北浦
常陸利根川
幹川流路延長湖沼のためデータなし
流域面積2,157km2
湖面積を含む)
流域内人97万人
流域関係都県茨城県千葉県栃木県

霞ヶ浦流域図
○拡大図
1.霞ヶ浦の歴史
"霞ヶ浦周辺地域利根川東遷によって、洪水増加湖水淡水化などの大きな影響受けましたまた、水運漁業についても霞ヶ浦独自の発展しました。"

特有の歴史先人の知恵活用


湖名の由来
霞ヶ浦は8世紀半ば書かれた「常陸国風土記」には流海、また「万葉集」には浪逆の海という名で出てます。流海高浜の海、佐賀の海、信太の海、浪逆の海、香取の海浦、安是の湖の総称でした。平安時代鹿島灘の外の海に対して内の海とよばれていました。これらの名が示すように海であり、その入江となっていました鎌倉時代内の海のうち高浜の海、佐賀の海、信太の海、行方の海を合わせての浦」ともよんでいました。これが霞ヶ浦の名の起こりです。

歴史的治水事業利根川東遷から居切堀の完成へ)
江戸時代初め東京湾注いでいた利根川現在の銚子河口とする川筋瀬替えしました。これが俗に言う利根川東遷です。これにより利根川下流から霞ヶ浦一帯洪水の常襲地域となりました。特に天明3年浅間山大噴火による土砂流入によって利根川河床上昇してからは少しの出水水害を受けるようになりました。これに対処するために北浦から鹿島灘への放水路計画され明治初めに居切堀として竣工しました今はその一部鹿島港に姿を変えてます。

嫁入り舟
嫁入り
水運江戸時代~現在)
霞ヶ浦・北浦一帯古来より水上交通盛んでしたが、江戸発展と共に東北地方からの物資輸送盛んになり、その舟運ルートとして利用されるようになりました
明治になると蒸気船就航し水上交通はますます盛んになっていきました。ところが、明治29年常磐線開通封切り鉄道の整備進み、またその後バストラックなどの陸上交通登場し水上交通幹線輸送の手段としては鉄道自動車主役譲りました。しかし、ローカルな交通手段としては、水泳客や観光客輸送手段として昭和40年代まで舟運利用されました。今でも潮来アヤメ祭り季節等にはサッパが行交う等、観光客楽しませてます。

帆引き船
帆引き船
漁業変遷(霞ヶ浦の風物詩帆引き船~)
霞ヶ浦が入り海であったころは黒鯛スズキといった海産魚種多かったことが「常陸国風土記」に記されています。しかし、江戸時代以降利根川東遷により霞ヶ浦が淡水化してきたため、コイ・フナ・ワカサギ・シラウオなどの種類かわってきました。この豊富な水産資源管理するため江戸時代の霞ヶ浦・北浦では、霞ヶ浦四十八津北浦四十四津と呼ばれる自治組織が霞ヶ浦を入会管理共同管理)していました。これらの結束強化するために従来漁業慣習明文化した「霞ヶ浦四拾八津掟書」は入会で漁をするときの漁具漁法漁期制限について規定し、これにより漁業資源保護図られ、湖の秩序維持されました。明治入ってから地元漁師によって大徳網漁や帆引き漁という霞ヶ浦独特の漁法考案されました。特に帆引き漁は少人数での操業大量漁獲得られたためワカサギ・シラウオ漁に用いられ広く普及し帆引き船が浮かぶ独特の景観は霞ヶ浦を代表する風物詩ともなっていましたが、現在は観光用運行するのみとなってます。
2.地域の中の霞ヶ浦
"霞ヶ浦では水質汚濁により水泳場閉鎖された後も、広大な水面利用する水上スポーツ盛んに行われてます。また、豊かな自然を活かした野鳥観察環境教育の場としても利用されています。"

地域社会とのつながり

・霞ヶ浦の神事
鹿島神宮御船祭午年9月2日行われる12年1度お祭りで、御座船中心に数十艘の船団大漁旗や幟を立てて平安絵巻さながら常陸利根川を進む様は壮観です。また、湖岸地域神社では御輿湖水清める神事「川揉み」が夏の祇園祭行われますこのような神事に、かつての湖と地域社会との深い結びつき感じられます。

横断遠泳大会
横断遠泳大会
・霞ヶ浦と水上スポーツ
霞ヶ浦は水泳場適した遠浅地形の場所が多く水質良好な昭和40年代前半までは多く水泳場があり夏になると多く人々賑わいました。しかし、昭和42年頃から水質汚濁進み昭和49年の歩崎水泳場廃止最後に霞ヶ浦の水泳場無くなりました課題水質改善がなかなか進まない状況ですが、かつての「泳げる霞ヶ浦」の復活を願う横断遠泳大会浮島天王崎間 約2.5kmのコースで年に1度開催されています。水泳に代わって、現在の霞ヶ浦では日本第2位広大な湖水面を利用したヨットウィンドサーフィンなどの水上スポーツが盛んで、潮来市北利根川では8月パワーボート全国大会開催され多く観客賑わってます。また、北利根川にはレガッタ公認コースがあり学生練習競技会利用されています。
霞ヶ浦・北浦湖岸には総延長約250kmの湖岸堤防整備されており、健康増進のためのウォーキングサイクリングコースとして多く地域住民方に利用されています。さらに、水面堤防道路両方利用したトライアスロン大会毎年5月潮来開催されています。

植生の植え付け
植生植え付け
自然とふれあい
豊かな自然環境活かした利用としては、霞ヶ浦に生息している野鳥観察できる妙岐の鼻や水原白鳥の里等の観スポットではシーズンになると様々な訪れた人々目を楽しませてます。また、近年植生保全対策によって新たに創出され湖岸植生帯では、そこを利用した自然観察会や浅瀬への植生植え付け作業が行われており地元の子供達の環境教育の場所として積極的に利用されています。
3.霞ヶ浦の自然環境
"霞ヶ浦は、大昔入り海淡水化することで形成され海跡湖です。その成り立ち反映し多様な魚類生息してます。また、渡り鳥等の飛来地として利用され湖岸には大規模な湿生草原残されています。"

霞ヶ浦は、西浦北浦外浪逆浦3つの湖沼常陸川北利根川鰐川横利根川4つ河川から構成され利根川河口18km付近に合流する一級河川です。湖面積は約220km2琵琶湖次いで日本第2位湖岸線は約250kmに達し日本一誇ります流域面積は 2,157km2で、その大部分平地占め(91%)、山地は9%とわずかです。
霞ヶ浦(西浦)北浦外浪逆浦
霞ヶ浦(西浦北浦外浪逆浦

霞ヶ浦は、もともと自然豊かな湖でした。かつては、その遠浅地形透明度の高さから、沈水植物等の大群落が広がる豊かな沿岸植生帯有していました近年流域からの流入負荷増加に伴う水質悪化や、周辺地域の生活を守るための湖岸堤の建設等の様々な要因により、これらの植生帯減少してます。しかし、これらの植生帯取り戻すための取り組みが湖の各所行われており、近年見られなくなっていた霞ヶ浦本来の水生植物再生するなどの成果もでてきています。
コジュリン
コジュリン
現状の霞ヶ浦においても、たくさんの生物生息生育確認されています。霞ヶ浦の河川区域には、ヨシヤナギ優占する群落はじめとする水辺特徴的な植生豊富に分布してます。特に西浦には、環境省自然環境保全基礎調査において、「霞ヶ浦周辺湿生植生」として特定植物群落選定されている大規模な湿生草原(妙岐の鼻のヨシ・マコモ・ガマ群落)が分布してます。ここでは、県内での分布が霞ヶ浦湖畔限られるなど絶滅の危惧される植物種生育多数確認されまた、コジュリンオオセッカ等の貴重な鳥類繁殖環境ともなってます。

霞ヶ浦に分布する広大な水域部も、多く生物にとっての重要な生息環境になってます。霞ヶ浦周辺は、カモ類等の水鳥をはじめ、多く野鳥飛来し一定期間飛来する野鳥宝庫といわれています。その数は、冬季水鳥だけで5万羽、夏の渡り鳥含めると 10万羽以上といわれています。霞ヶ浦の魚類は、海跡湖名残反映し淡水魚汽水魚海水魚多彩な分布がみられます。確認される種類も他の湖沼等と比較して多くなっています。代表的な魚類としては、ワカサギシラウオコイなどが挙げられます。
4.霞ヶ浦の主な災害
"霞ヶ浦の洪水については江戸時代より数々記録残ってます。中でも現在の霞ヶ浦の治水計画基本となる「霞ヶ浦新放水路計画」の対象洪水一つとして位置付けられている「昭和13年6月洪水」は地域大きな被害与えました。"

代表的な水害

発生発生原因被災市町村被害状況
明治43年8月前線台風沿岸市町村浸水家屋 1,607戸(土浦
昭和13年6~7月台風流域32市町村死者 45名(流域合計
浸水家屋 81,739
昭和16年7月台風8号茨城県土浦市浸水家屋 約4,300

5.その他
"霞ヶ浦は、生活用水届けとともに漁業農業工業など地域の産業支えてくれる、なくてはならない存在です。その霞ヶ浦が、いま、近年における都市化の進展などさまざまな要因から、水環境悪化大きな問題となってます。"

霞ヶ浦の水質

湖内湖植生浄化施設(ウェットランド)
内湖植生浄化施設ウェットランド
霞ヶ浦の水質は、流域の都市化の進展などのため富栄養化汚濁様相示しており、近年においては、毎年夏になるとアオコ異常発生により水質悪化していましたが、ここ数年は、植物プランクトン優占種変化等により、回収をしなければならないほどの夏期アオコ発生見られません。
近年水質状況COD変化からみると、昭和40年代高度経済成長歩調合わせるように悪化し昭和54年には11.3mg/lと高い値となりましたその後水質浄化対策等の促進により改善傾向にあるものの、依然環境基準大幅に上回っており、長期的な水質汚濁継続してます。

(注:この情報2008年2月現在のものです)

霞ヶ浦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/03 07:22 UTC 版)

霞ヶ浦

衛星写真
青色で強調した範囲は西浦
所在地 茨城県10市1町1村、千葉県1市、栃木県1町[1][2]
位置 北緯36度0分0秒 東経140度25分0秒 / 北緯36.00000度 東経140.41667度 / 36.00000; 140.41667座標: 北緯36度0分0秒 東経140度25分0秒 / 北緯36.00000度 東経140.41667度 / 36.00000; 140.41667
面積 220 km2
周囲長 249.5 km
最大水深 7.1 m
平均水深 4 m
貯水量 0.85 km3
水面の標高 0 m
成因 海跡湖
淡水・汽水 淡水
湖沼型 過栄養湖
透明度 0.6 m
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

霞ヶ浦霞ケ浦(かすみがうら)は、茨城県南東部に広がる[3]。広義には、西浦と北浦、常陸利根川(北利根川、外浪逆浦及び常陸川)、鰐川、横利根川(河川法上は5河川からなる一級河川[1])を総称した水域である[4][注 1][注 2](流域市町村には茨城県の22市町村に千葉県香取市と栃木県益子町を含む[2])。狭義(湖沼学的)には西浦のみをいう[5][6]

広義の霞ヶ浦(常陸利根川、横利根川、西浦、鰐川及び北浦)の総面積は約220平方キロメートル[1][7]、狭義(西浦)でも総面積は172平方キロメートル[3]で、日本の湖沼では琵琶湖についで二番目に大きい。流域の一部は水郷筑波国定公園に指定されている[1]湖沼水質保全特別措置法指定湖沼(北浦及び常陸利根川を含む)[8]

地理

霞ヶ浦と各水域
稲敷市境島から望む霞ケ浦と筑波山
外浪逆浦周辺の空中写真。
2012年2月21日撮影の21枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

広義の霞ヶ浦について河川整備計画では「常陸利根川、横利根川、霞ヶ浦(西浦)、鰐川及び北浦の5河川の総称」としており、湖面積約220平方キロメートル、流域面積2,157平方キロメートルの一級河川としている[1]。湖面積220.0平方キロメートルは日本第2位[注 3]、茨城県内では最大である。

なお「常陸利根川」は河川法で指定された河川名であり、これには北利根川、外浪逆浦及び常陸川と呼ばれていた水域を含む(国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所「霞ヶ浦の現状と課題」の補足説明では北利根川、外浪逆浦及び常陸川は旧来の河川名としている[4])。

主な水域別の面積は次のとおり。

  • 西浦:172平方キロメートル[7]
  • 北浦:36平方キロメートル[7]
  • 常陸利根川:12平方キロメートル[7]

平均水深は約4メートル[9]、最大水深は約7メートル、年間流下量は約14億立方メートル、貯留量は約8.5億立方メートル。流入河川は56あり[9]桜川恋瀬川、巴川、小野川などが有名である。

江戸時代など低鹹汽水化していた時期もあるが、1963年(昭和38年)に常陸利根川の河口に水門(常陸川水門)が設けられ、外洋水塊は完全に遮断されたため淡水湖とされている[4][10]

西浦

湖沼学的に区分された狭義の霞ヶ浦は西浦のことを指す[5][6]。湖面積172平方キロメートル、湖岸延長122キロメートルである[3]

土浦方面に伸びる水域を「土浦入(つちうらいり)」、石岡方面に伸びる水域を「高浜入(たかはまいり)」[注 4]、この両者が交わる出島沖の広い水域を「三叉沖(みつまたおき)」と呼ぶ。他に「江戸崎入(稲波干拓)」、「甘田入」、「大山入(余郷入)」などがあったが、昭和期の干拓事業により消滅した。羽賀沼、野田奈、西の洲、本新、八木などの干拓も行われ、湖水域は減少した。

稲敷市浮島の和田ノ岬、稲敷郡美浦村の稲荷ノ鼻、稲敷市古渡の堂崎ノ鼻は、霞ヶ浦(西浦)に伸びてできた砂嘴である[11]

北浦

湖面積36平方キロメートル、湖岸延長75キロメートルである[3]

潮来市の水原洲吠崎、鹿嶋市の爪木ノ鼻は北浦に伸びて出来た砂嘴である[11]

常陸利根川

先述のように河川法上の「常陸利根川」には北利根川、外浪逆浦及び常陸川と呼ばれていた水域を含む[4]

北利根川
北利根川では1949年(昭和24年)からの工事で川幅が従来の2倍となり引提と浚渫により河道が明瞭化した[4]
外浪逆浦
面積約6平方キロメートル、最大水深9メートル。1893年に浪逆浦を堤防で南北に仕切り、その南が外浪逆浦である。内浪逆浦(うちなさかうら)は外浪逆浦の北にあったが、昭和初期の干拓事業で農地となり消滅。現在は住宅地(潮来市日の出地区)となっている。
常陸川
逆流防止と塩害防除のため1963年(昭和38年)に常陸川水門が竣工した[4]

名称

表記

国土地理院発行の『標準地名集(自然地名)』では「ケ(大文字)」を用いており、地名としては「霞ケ浦」が正式表記である。が「ヶ(小文字)」を、茨城県が「ケ(大文字)」を用いる傾向にある。「霞ヶ浦・北浦」という表現のように事実上は西浦のみを指して使われる場合も多い。

霞ヶ浦は古代に「流海」(ながれうみ)か「浪逆の海」(なさかのうみ)と呼ばれ、中世に入って「霞の浦」と和歌に詠まれていたが、鹿島灘の「外の海」に対して「内の海」ともいわれた。「霞ヶ浦」と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのことである[12]

語源

常陸国風土記』の行方郡の条にある「香澄(かすみ)の里」に由来すると言われる。大足日子(景行天皇)が付き随う臣下に「海には、すなわち青い波が漂っており、陸には、これまた、赤色の霞がたなびいている。国がその中にあると私の目にはみえる。」と言ったことは語源の1つだとされるが[12]、明確にいつ、誰が名付けたかに関しては不明である[13]

利用

漁業

現在の霞ヶ浦で主に漁獲されるのはワカサギシラウオコイ(鯉)、フナウナギアユボラレンギョハクレンなど)、イサザアミなど。エビ、イサザアミ、ゴロ、コイなどが生息している。またワカサギやシラウオなどは付加価値が大きいため、重要な魚種となっている。アユは最近になって漁獲されるようになっている。少量ではあるが、タナゴ亜科クルメサヨリウグイドジョウスズキ(セイゴ)、ヒガイソウギョブラックバスアメリカナマズ(チャネルキャットフィッシュ)、ペヘレイなども漁獲されている。

ただ、特にブラックバスやペヘレイなどの魚種は現在のところほとんど商品価値がなく、あまり利用されていない。また、水揚げされたアメリカナマズ、ブルーギル、ブラックバス、ハクレンなどを用い、管理された原料・環境で魚粉が製造され養鶏飼料から始まり魚類の養殖飼料や有機肥料として利用されて地産地消品として有効利用されている。こうした食用として人気が低い外来魚の肥料・飼料化は茨城県庁も後押ししており、在来種魚介類への食害を減らして、漁業資源と生態系を保全する目的もある[9]

全般的に漁獲量は1978年の漁獲量(17,487トン)をピークにして減少傾向が続いていて、1998年には2,000トン台に突入。2000年の漁獲量は2,416トンであった。魚種別に見ても減少傾向は変わらず、例えばワカサギは1980年代には1,000トンを超えることもあったが、90年代初頭には400 - 500トン前後となり、2000年の漁獲は51トンでしかない。シラウオも一時300トン前後と回復傾向にあったが1998年頃から100トン前後になり、2000年の漁獲量は95トンだった。また、漁獲量の約半分を占めるエビ・アミ類についても減少傾向にある。

漁業種別漁獲量を見ると、わかさぎ・しらうおひき網(トロール網)が36.6%、いさざ・ごろひき網が32.0%、定置網が16.3%、掛網が13.6%となっている。定置網は張網ともいわれ、湖岸沿いからもかなりな数を見ることができる。

生産額は2000年の総額が8億6,100万円で、その内訳はエビが半分以上の4億6600万円、シラウオが1億600万円、ハゼが5,500万円、コイが5,000万円、ワカサギが4,200万円となっており、シラウオやワカサギが漁獲量に比べ生産額が高い。

農林水産省『漁業センサス』によると、霞ヶ浦一帯の漁業従事者は2018年で326人と、2008年(725人)に比べ半数以下に減った[9]

養殖漁業においては、特にコイの養殖が有名で、かつては全国一の生産量を誇っており、佐久などの他のコイ産地にも出荷していた。しかし、2003年コイヘルペスウイルス (KHV) の流行により壊滅的打撃を受け、翌年には全業者が廃業した。2009年4月に養殖自粛要請が解除され養殖が再開されることとなった[14]。養殖鯉は出荷直前の数日間、湖水中の生け簀から、地下水を汲み上げたシメ生簀[15]移して、消化器の内容物や余分な脂肪を落として臭みを抜く[16]

この他、浮島付近や江戸崎などでは淡水真珠の養殖も行われている。2000年の淡水真珠の浜揚量は135キログラムで、これは全国(181キログラム)の約75%になる。なお、生産額は7億100万円だった。

そして、霞ヶ浦の魚介類は、煮干し甘露煮佃煮焼き物などに加工されている。煮干は古くから保存食として定着していたが、佃煮は明治以降に普及したものである。煮干になる主なものはワカサギ、シラウオ、イサザアミ、エビ。佃煮はワカサギ、ハゼ、イサザアミ、フナ。焼き物はフナ(すずめ焼き)、ワカサギなどである。焼きワカサギなどは独特の風味であるということで霞ヶ浦の特産品として特に珍重された。しかし、近年は漁獲量の減少とともに霞ヶ浦産の原料の確保が難しくなっている。また、行方市商工会北米原産のチャネルキャットフィッシュ(アメリカンキャットフィッシュ)を使った行方バーガー(なめパックン)というご当地グルメ街おこしをしている。

なお、霞ヶ浦の範囲には独立した「海区」が設定されており[注 5]、漁業法上、内水面ではなくと同じ扱いを受けるほか、独自の海区漁業調整委員会(茨城県霞ヶ浦北浦海区漁業調整委員会)と漁業調整規則(茨城県霞ヶ浦漁業調整規則)を持っている[17]。近年、常陸川水門を部分的に開門するなどの措置を行うことにより、近隣水域の湖水が汽水と撹拌・浄化され、シジミやスズキなど日本固有種でかつ漁業価値の高い生息魚貝類の豊化の可能性が考えられている。これはすなわち関連漁業資源の回復を意味するものである。状況的には汽水湖である浜名湖静岡県西部)のように、漁業や遊漁業がかなり活性化される可能性を秘めている。霞ヶ浦も以前は汽水湖だったので原点回帰策とも言える。汽水化されれば先述のブラックバスやアメリカナマズなどの迷惑外来種も住めなくなり、代わってスズキやクロダイ、ウナギなどの付加価値の高い魚種に入れ替わる。

利水

霞ヶ浦は上水道や農業用水、工業用水の水源として使われている。水利権は茨城県(毎秒37.23立方メートル)、千葉県(毎秒4.19立方メートル)、東京都(毎秒1.50立方メートル)におよび、合計で毎秒42.92立方メートルとなっている。しかし、その水質は化学的酸素要求量』(COD)や総窒素・総リンなどの化学的指標によると良好とは言えない状況が続いている。また、湖水は茶色がかり、透明度も著しく低い状態となっており、場所によっては浮遊物(ゴミなど)が打ち上げられている場所も少なくなく、心象は決して清浄とはいえない。1978年日本中央競馬会(JRA)によって開設された美浦トレーニングセンターでの飲料用にも使用されているが、他の競馬場やトレーニングセンターとの比較で「水が悪い」と言われ、競走馬に水を飲ませるのに苦労するケースがこれまでも多々見られている。

1970年代から夏季を中心にアオコの大発生、水道水の異臭、シジミや養殖ゴイの大量死などが顕著に発生するようになり、1979年にはCOD年間平均が過去最悪の11.3mg/lに至る。これに対し、他の合成洗剤に代えて石鹸を使おうと呼びかける市民運動が行われたり、1981年に富栄養化防止条例が公布されたりたりしたものの、この時期の強烈なイメージから「汚れた湖」「死の湖」というイメージが定着するようになってしまう。1990年代半ば以降、かつてのようなアオコの大発生は観測されていない。しかし、それは水質が改善されてきたというよりも発生する植物プランクトンが変化した結果と考えられている。なお、2000年代には(アオコの)大きな発生はなかったが,2011年に大発生があった[18]

こうした霞ヶ浦の水質汚濁の特徴としては、流域が平地で面積も広く水深が浅いので、そもそも自然的に富栄養化が進行するうえに流域での生産や生活活動の増大によって人為的な富栄養化が重なっている点、平均水深が4メートルと浅いために底泥が舞い上がりやすい点。夏季の無酸素状態による窒素・リンの底泥からの溶出。流入河川の総窒素・総リンの濃度が高い点、湖岸植生帯や流域の森林・水路の変化などによっていわゆる「自然浄化力」が低下している点などが挙げられている。

汚濁要因をみてみると、外部要因では生活廃水よりも、山林・田畑・道路などからの流出による面源系のものが多い。具体的には流域で約40万頭に及ぶ養豚、沿岸地帯に約1,700ヘクタール広がるレンコン栽培用の蓮田によるものが特徴的とされている。内部の要因としては底泥からの溶出などがあり、CODやリンで全体の負荷の半分近く、窒素で3割を占めるという。

こうした状況の中で、霞ヶ浦では主に霞ヶ浦を管理する国土交通省(旧・建設省)によって水質浄化対策が行われてきた。その筆頭に挙げられるのは底泥の浚渫事業である。これは1975年度より西浦の土浦入と高浜入で行われ、1992年度からはその規模が大きくなって、一年間に50億円以上の予算を使い約50万立方メートルを浚渫しているとされている。この計画の合計浚渫量は800万立方メートルで、これは湖底にある全底泥(約4,000万立方メートル)の1/5ほどに相当し、1975年から2000年度までの間に534万立方メートルが浚渫されている。浚渫は窒素やリンを溶出させる底泥を除去しようというもので、比較的リンなどを多く含む表面から30センチメートルの底泥を対象にしている。国土交通省の説明によると浚渫を行うことによって、溶出の速度が1/4になり負荷を減少させることができるとされている。しかし、浚渫をしても新たな堆積物が積もるため、10年後には再び5 - 7センチメートルの底泥表面が新たに形成されてしまう。そのため、広大な霞ヶ浦では汚濁後の水質浄化処理をしたとしても、汚濁原因も併せて改善させない限りその効果は限定的であるという指摘もある。茨城県では、霞ヶ浦流域の住民を対象にした、下水道に接続する工事や浄化槽を設置する際の工事の助成を行っている。

一方で常陸川水門を部分的に開門し、汽水との撹拌で水質を浄化する試みも模索し始められている。この際、利水に必要な取水口の位置と汽水拡大範囲の関係確認などが必要であるが、現在考えられうる最も現実的な湖水浄化の手段である。

観光

帆曳船

霞ヶ浦は釣りヨット水上オートバイなどのレジャーに利用されているほか、湖上には遊覧船・観光帆曳船が運航されている。日本百景に選定されており、高度成長期以前は、独特の水郷景観を特徴とした観光地でもあった。

  • 遊覧船
    • ラクスマリーナ「ホワイトアイリス号」
      • 【定期遊覧】ラクスマリーナ→桜川河口沖→霞ヶ浦総合公園沖→予科練沖→防衛技研沖→三又沖および筑波山展望→霞ヶ浦町(旧出島)川尻沖→沖宿沖→ラクスマリーナ
      • 【季節定期航路】土浦港→潮来港汽船埠頭→玉造ふれあいランド前桟橋→土浦港
    • 常陽観光「ジェットホイルつくば号」
  • 観光帆曳船
    • 夏 - 秋期の金・土・日・祝日のみ運航。
  • 西浦湖畔の観光スポット
    • 小美玉市
      • おみたま花火大会 … 2023年より、10月第1土曜日に湖畔の大井戸湖岸公園周辺で開催される(予定)の花火大会。打ち上げ数5,000発[19]
    • 行方市
      • サンセットフェスタIN天王崎 … 毎年8月に湖畔の天王崎公園で、市内外の団体や個人から寄付を受けて開催されるイベントである。夕方からステージ上でのイベントが開催され、夜には湖上花火大会が開催される。打ち上げ数は毎年約5,000発で、1万人前後が訪れる。
      • 霞ヶ浦ふれあいランド
    • かすみがうら市
      • 観光帆引き船「7月 - 11月までの毎週日曜日」
      • 帆引きフェスタ「5月のゴールデンウイーク」
      • 歩崎公園…主に霞ヶ浦に棲息している魚を展示しているかすみがうら市水族館がある。
      • また、サイクリングで湖畔をぐるりと一周して楽しめる「つくば霞ヶ浦りんりんロード」も整備され、ナショナルサイクルルートにも指定された。土浦駅などで自転車をレンタル出来る。
    • 土浦市
      • かすみがうらマラソン…4月中旬に霞ヶ浦湖畔で開催されるマラソン大会。ランナー数は2万6千人を超え、東京マラソンに次ぐ日本第2位の規模の市民マラソン大会である。
      • 泳げる霞ヶ浦市民フェスティバル…7月の海の日に霞ヶ浦湖畔で開催されるお祭り。
      • 観光帆曳船…7月中旬 - 10月中旬の金、土、日、祝日の午後1時から午後2時半頃まで運航。
    • 稲敷市
      • 和田公園…チューリップの名所である。
  • 北浦湖畔の主な観光スポット

生物相

霞ヶ浦周辺は筑波山隗を除くとほとんどが台地と低地で構成される平地であるため、古くから農耕地などの開発が進み、それによって追いやられてしまったとされる生物も多い。しかし、その反面クヌギコナラアカマツなどを主体とする二次林を中心に農地や小川・湧水ため池、そして住居など生活空間を含めた里山のような環境で生きる生き物たち(例えばオオタカフクロウなどの猛禽類食物連鎖における最高次消費者とし表徴とするようなもの)を豊かにはぐくんできた。また、入り江から汽水湖、そして淡水湖と姿を変えてきた遠浅で広い海跡湖である霞ヶ浦の存在もその周辺に住む生き物を特徴付ける要因となっている。

植物

霞ヶ浦のように勾配が緩やかな浅い水域のある湖では、陸から水面へと向かう「水辺」に環境条件の勾配があり、それに呼応するように抽水(挺水)植物(ヨシマコモなど)、浮葉植物(ヒシアサザなど)、沈水植物(クロモなど)などの多様な植生帯が発達していた。こうした水生植物の群落は動物にとっても産卵場所・生息場所となり、霞ヶ浦の周辺を特徴付ける重要な要素となっている。一方、人間もこれらの水生植物を利用してきた。

しかし、富栄養化が進行し透明度が悪くなると沈水植物は光合成が出来なくなり生育できなくなる。また、湖岸をコンクリート護岸にしたことで、物理的に植生帯が失われ、また、時に堤防を越えるような激しい風浪による洗掘と侵食が発生するようになった。この他、水資源開発による水位操作などによって霞ヶ浦の植生帯は大きく失われている(逆に妙岐ノ鼻(浮島湿原)のように一部でもヨシ原が比較的多く残っている場所は鳥類を筆頭に生き物の貴重な住処となっていることで有名であり、こうした植物群落が生き物にとって重要な存在であることがわかる)。

そのほか、植物プランクトンも霞ヶ浦にとって重大な影響を与える。アオコのような植物プランクトンの大発生はその後の遺骸の分解によって湖水の酸欠をもたらし、生物の大量死を招くほか、植物プランクトンの種類や発生状況は動物プランクトンやそれを食べる甲殻類・魚類などの動向をも決定付けている。

鳥類

鳥類を特徴付ける大きな要素として霞ヶ浦自体が長い湖岸延長により多くの「水辺」を提供し、葦原などの湖岸植生帯が発達していることが挙げられる。サギガンカモクイナシギチドリなどの多くの鳥類がそれぞれ生息したり、渡りの途中に飛来したり、繁殖したりしている。

現在の湖岸では、葦原などがだいぶ失われてしまってはいるが、それでも夏になるとオオヨシキリがさえずり、ツバメなどのねぐら入りが見ることが出来る。そして妙岐ノ鼻のように広い葦原が残っているところではサンカノゴイなどの希少なサギ類やオオセッカなどの他にあまり繁殖地が無い鳥やチュウヒといった猛禽類などの数少ない生息地になっている。また、オオヒシクイの飛来する江戸崎は関東地方に残されたガンの定期飛来地として貴重な存在といえる。

魚類・甲殻類

もともと霞ヶ浦は遠浅でプランクトンが増えやすく、海との交流もあり、生育環境や糧となる湖岸植生帯が発達していたことなどから、生産性が高く魚類や甲殻類の豊富な湖であった。こうした背景から、ワカサギやシラウオ、コイなどの魚が名産品としてもてはやされ、人間の暮らしや文化に深く結びついてきた。

しかし、著しく水質が汚染され、そして近年は外来種が侵入した事により、ワカサギやシラウオ、ハゼ類(ゴロ)やテナガエビなどの漁獲は近年総じて尻すぼみになっている。かつては普通に見られ、食卓も賑わしていたはずのキンブナが姿を消すのではないかと懸念されている。また、スズキやウナギのように海との交流の産物だった魚も往年の面影はなく、現状は決して良好とはいえない。

タナゴ類は、産卵母貝となる二枚貝類の減少などにより、タナゴアカヒレタビラヤリタナゴはいずれも減少が著しく、かつて多産したゼニタナゴは、ついに本水系では絶滅したものと考えられている。霞ヶ浦の淡水魚類相の風物詩でもあるタナゴ類は、今や外来種であるタイリクバラタナゴオオタナゴに席巻された感が強い。特に2000年頃から姿が目立ち始めたオオタナゴは近年タナゴ類の優占種ともいえる状況にまで異常繁殖し、北浦・西浦の全水域で定着している。琵琶湖からの国内移入種と思われるカネヒラは近年減少傾向である。

昆虫類

霞ヶ浦周辺はため池や水田などの水辺が豊富にあったために、かつては無数のトンボが空を埋め尽くしていたという。このほかにも、周辺の水辺はゲンゴロウマツモムシといった水棲昆虫が多く生息していたと考えられている。現在では、こうした昆虫類はだいぶ数を減らしているが、小野川周辺のヨシ原や、妙岐ノ鼻、潮来市の水郷トンボ公園などではトンボや小型の水棲昆虫がまだ多く生息している。

貝類

江戸時代の初期頃までは海産の貝類が生息していたといわれる。しかし、その後の淡水化の流れによって貝類も淡水産のものへと移行してきた。1963年の常陸川水門の竣工は淡水化を決定的にしたために汽水産のヤマトシジミは重要な漁獲種でもあったが姿を消している。また周辺の水田にはオオタニシ、ヒメタニシ、マルタニシなどが生息。比較的汚れた水域にはモノアラガイサカマキガイ、きれいな流入河川にはカワニナなどが生息している。マシジミなどは貴重な自然の恵みとして用水路などでも採取されていた。

現在の霞ヶ浦では、タンカイと呼ばれるカラスガイやイケチョウガイなどの二枚貝類は減少が著しく、諸調査によっても生息が極めて希薄となった地点も多い。イシガイマツカサガイなどイシガイ類が辛うじて流入河川や水通しのよい場所を中心に見られる程度である。原因は富栄養化によって生息するプランクトンが変化し、貝類の餌がなくなってしまったことや微生物による大量の有機物の分解によって酸素が消費され、湖底付近が酸欠になったことなどが考えられている。

シジミについては、マシジミに代わり、タイワンシジミとおぼしきもの、中国産のシジミに酷似した淡水シジミなどが増加している(水産会社によって積極的に移入されているという見方がある)。また、一部では通称「ジャンボタニシ」といわれるスクミリンゴガイが発見されている。

歴史

近代以前

香取神宮拝殿
鹿島神宮拝殿
利根川東遷事業を進めさせた徳川家康

約12万年前の下末吉海進と呼ばれた時代、霞ヶ浦の周辺は関東平野の多くと同じく古東京湾の海底であり、7万2千年前ごろの最終氷期の始まりとともに徐々に陸地化したと考えられている。3万年前まで鬼怒川が現在の桜川の河道を流れ、その幅広い谷が西浦の主要部を形作った。2万年前には陸地化とともに出来た川筋によって現在の霞ヶ浦の地形の基礎が形作られた。1万数千年前の縄文海進では、低地が古鬼怒湾とよばれる海の入り江となったとされる。現在霞ヶ浦周辺で多く見られる貝塚はこの時期に形成されたと考えられている。

4世紀から7世紀にかけて霞ヶ浦周辺でも古墳が築造されるようになり、当時のヤマト王権と手を結ぶような勢力を持つ豪族があらわれるようになる。720年代に書かれたという『常陸国風土記』によれば、霞ヶ浦は製塩が行われ、多くの海水魚が生息するような内海であった。現在霞ヶ浦湖畔の浮島村は、当時はであり周囲は海水であった[20]

その後、鬼怒川小貝川による堆積の影響から、海からの海水の流入が妨げられるようになり、汽水湖となっていったと考えられている。

平安時代末期から室町時代にかけての香取神宮文書や鹿島神宮文書には「海夫」とよばれた人々が記されている。海夫は神祭物を納める代替として漁業や水運などの特権が認められていた。一方、中世には常陸大掾(だいじょう)氏常陸国府大掾職を世襲。職名を名字として勢力を拡大していき、戦国時代まで各分家が霞ヶ浦周辺を勢力下においている。その後、北方の佐竹氏が勢力を南下させ、1591年に佐竹義宣が霞ケ浦周辺の地元領主(南方三十三館)を一斉に誘殺し、佐竹氏が周辺域を掌握している。

江戸時代に入り、利根川東遷事業と呼ばれる一連の事業によって、利根川の水は霞ヶ浦方面にも流れ出すことになった。このことで、利根川を遡り、江戸川を経由して江戸に至るという関東の水運の大動脈が開通する。霞ヶ浦周辺の産物を江戸へと送る流通幹線となり、霞ヶ浦や利根川は東北地方からの物産を運ぶルートにもなっていたため河岸(かし)と呼ばれる港は大いに繁栄した。

一方、霞ヶ浦や利根川沿いの低湿地の開発は近世に入ってからといわれる。利根川東遷事業とともに鬼怒川や小貝川下流域、新利根川の開削とその周辺の新田開発などが大規模に行われるようになっている。

しかし、1783年浅間山大噴火が一つの転機をもたらす。この噴火は利根川の河床を堆積によって急激に上昇させ、利根川の水害を激化することにもつながった。これに対し、江戸幕府は川の拡幅などによって銚子方面へ流れる水の量を増やす工事を行う。これが結果として利根川の霞ヶ浦を含む利根川下流域に洪水を追いやり、水害を深刻化させる原因となる。また、堆積のほか、当時は小氷期とも呼ばれる冷涼な時代で、海水面が低下していたことも一層の淡水化を促すものだった。これらの結果、生息する魚介類も海水から汽水・淡水に生息するものへと変化し、漁業も現在のものに近いワカサギやコイ、フナなどを対象とするものが定着していったと考えられている。

近代

足尾鉱毒事件解決に奔走した田中正造
飛行船ツェッペリン伯号(LZ 127)

明治時代まで、利根川の「主流」は確定していなかった。しかし、足尾鉱毒事件の発生によって霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になる。この方針は結果として霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながる。しかし、1938年6月に「昭和13年の洪水」といわれる霞ヶ浦の近代治水史上最大の大洪水が発生する。さらに1941年には「昭和16年の洪水」といわれ大規模な洪水が再び発生する。これらの二度にわたる大洪水は1939年に起工された利根川増補計画の教訓となり、のちの治水事業にも引き継がれていく。

明治に入ると利根川水系に蒸気船が就航し、霞ヶ浦にも間もなく航路が開設されるようになる。当時は銚子経由で東京に船で行くルートなどがあったが、常磐線総武本線などの鉄道が開通すると長距離航路は急速に減衰していき、水運は霞ヶ浦と利根川下流域を結ぶ短・中距離航路へと性格を変えていった。

また、漁業では、有名な帆曳き漁が考案され隆盛を極めた。農業においては、干拓事業が推進され、1920年代-1930年代を中心に多くの干拓事業が起工されている。

一方、1916年には現在の茨城県土浦市および阿見町の湖畔一帯に、大日本帝国海軍の航空施設が建設される。規模は次第に拡張され霞ヶ浦航空隊が設置された。1929年8月19日には、当時世界最大の飛行船だったドイツツェッペリン伯号が世界一周中に霞ヶ浦航空隊に寄港。このときは、見物客が押し寄せ、観衆は30万人に及んだ。また、1931年8月には、大西洋単独無着陸飛行を初めて成し遂げたチャールズ・リンドバーグ夫妻が北太平洋航路調査のため来日。26日に霞ヶ浦を訪れた。

現代

常陸川水門
鹿島臨海工業地帯

戦前期の洪水の教訓から1948年から浚渫工事が着手される。工事着手後にも1950年8月8日には、利根川の増水の影響で北浦沿岸の鉾田町で550戸、潮来町で66戸が浸水被害を受けている[21]。対策工事の進展によって海水が遡上しやすくなると、「昭和33年塩害」など霞ヶ浦の周辺域では農作物被害などの塩害が顕著に発生するようになり、常陸川水門(通称:逆水門)の建設を強く促進した。常陸川水門は、当初から汽水性のヤマトシジミが生息できなくなることなどから特に漁民の強い反対を招いてきたが、水門の完成によって霞ヶ浦の淡水化は決定的になった。

一方、当時の日本は高度経済成長の最中にあり、それに伴う霞ヶ浦への利水上の要請は霞ヶ浦開発事業へと発展することとなる。霞ヶ浦開発事業は広域地域開発と首都圏の長期的な水需要のための利水と治水の目的で行われ、1968年建設省によって着工され、1971年水資源開発公団が事業を継承。以来25年の歳月をかけて1996年に総事業費約2864億円で完成した。これら一連の開発事業は、鹿島臨海工業地帯の開発や筑波研究学園都市などの開発事業や、首都圏・都市域の拡大と人口増加を背景にした水資源開発の要請と連動しつつ行われてきた。

戦後、市民生活が落ち着いてくると水運は単なる住民の移動手段から、水泳や水郷などの観光航路としての性格を持つようになる。しかし、1960年代から霞ヶ浦の水質汚濁が進むことで水泳場が閉鎖されていき、さらに自動車・道路の普及に伴って水運は衰退し、今では消滅している。

これらの中距離航路のほかに霞ヶ浦の各地では渡船が存在し、人々の足を担ってきた。また、道路などが未整備だった時代には、霞ヶ浦の周辺では個人が船を所有し、物や人を運ぶのに欠かせない存在であった。特に香取市の北部にある「十六島」と呼ばれる地域においては顕著で、江間(エンマ)やミイコとよばれる細かい水路が縦横無尽に入り組み、「水郷」と呼ばれる独特の景観をかたちづくっていた。

漁業では、1960年ごろまでは豊かな淡水性の魚介類はもとより、スズキなどの汽水域に生息する魚もよく漁獲されていたが、これ以降、霞ヶ浦の漁業は大きく変化していく。まず、常陸川水門が設置されたことによって、霞ヶ浦は海とのつながりを遮断され、淡水化への道を歩むことになる。その結果、スズキなどの汽水魚やウナギなどの生活史の中で海から遡上する魚が減少し、それらの漁獲も減っていく。

また、1960年代後半にはそれまでの帆曳き漁にかわり、効率のよいトロール漁業への転換が進むが、これが逆に資源の枯渇を招き漁獲量は減少していくことになる。また、淡水性の貝類も1970年前後に漁獲が激減。1975年には汽水でしか生息できないヤマトシジミの漁業権の補償がなされた。このころは経済成長が進むのと時を同じくして霞ヶ浦の富栄養化が進行し、アオコの発生や養殖コイの大量死などが発生するようになってくる時期である。1990年代後半には漁獲総計が70年代の1/5程度にまで減少するに至った。

なお、太平洋戦争前から霞ヶ浦は干拓が進んできたが、最後の干拓地であった高浜入干拓の余剰や自然保護、地元漁民などの強い反対運動に遭い、漁業権の補償金が支払われたまま1978年に事実上の中止が決定している。

1987年には、西浦に初の橋となる霞ヶ浦大橋が開通した。開通後はしばらく有料道路であったが、2005年11月に無料開放された。2009年現在も唯一の橋である。なお、北浦には鹿行大橋北浦大橋神宮橋新神宮橋東日本旅客鉄道(JR東日本)鹿島線の橋梁の5本が架かっている。

交通

地方港湾として土浦港潮来港などが存在している(航路については#観光を参照)。湖は広大であるため、湖岸線に到達する方法は無数にある。公共交通機関を使う場合、常磐線や鹿島線、大洗鹿島線などがその起点となる[注 6]

東日本旅客鉄道(JR東日本)
鹿島臨海鉄道

流域自治体

太字は沿岸に接する自治体)

茨城県

霞ヶ浦・西浦
霞ヶ浦・北浦

千葉県

栃木県

脚注

注釈

  1. ^ 国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所「霞ヶ浦の現状と課題」の補足説明(p.2)では、河川法で指定された河川名は「常陸利根川」とし、北利根川、外浪逆浦及び常陸川は括弧で表示して旧来の河川名としている[4]
  2. ^ 「行方市環境計画」では広義の霞ヶ浦について、西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)の3つの湖と、北利根川、鰐川、常陸川の3つの河川を総称した水域のことであるとしている[5]
  3. ^ 日本の湖沼の面積順の一覧」を参照。秋田県にある八郎潟干拓されて水域の大半が鵜失われ、それまでの第3位から第2位となった。
  4. ^ 「入り」という呼称は、入り江・湾状の地形に対して用いられる。ここに挙げたもののほかにも小さな湾に対して「〜入り」という名称がついている。
  5. ^ 湖沼に独立した「海区」が設定されている例は、霞ヶ浦と琵琶湖のみである。
  6. ^ かつては鹿島鉄道線桃浦駅 - 八木蒔駅 - 浜駅間で、西浦では最も湖岸に近い所を走っていた。天気がよければ、車窓から霞ヶ浦と筑波山までを望むこともできていた。しかし、鹿島鉄道線が2007年4月1日に廃線になったため、その場所に行くには、石岡駅からバスを利用することになる。

出典

  1. ^ a b c d e 利根川水系霞ヶ浦河川整備計画【大臣管理区間】の概要 国土交通省関東地方整備局 2025年2月9日閲覧
  2. ^ a b 霞ヶ浦流域図 茨城県 2025年2月9日閲覧
  3. ^ a b c d 藤原 宣夫、西廣 淳、中村 圭吾、宮脇 成生「霞ヶ浦湖岸植生帯の変遷とその地点間変動要因」『国土技術政策総合研究所資料』第136号、国土技術政策総合研究所。 
  4. ^ a b c d e f g 資料6 霞ヶ浦の現状と課題 国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所 2025年2月9日閲覧
  5. ^ a b c 行方市環境計画 第2章 行方市の環境のいま 行方市 2025年2月9日閲覧
  6. ^ a b 陸水域の富栄養化に関する総合研究(IV)霞ヶ浦流域の地形、気象水紋特性およびその湖水環境に及ぼす影響」『国立公害研究所報告』第20号、国立公害研究所。 
  7. ^ a b c d 霞ヶ浦流域 茨城県庁(2023年5月24日閲覧)
  8. ^ 湖沼水質保全特別措置法第三条第一項及び第二項の規定に基づく指定湖沼及び指定地域 環境省 2025年2月9日閲覧
  9. ^ a b c d 霞ケ浦 外来魚捕獲しエビなど保護 湖の「厄介者」飼料や肥料に/茨城県事業化へ実証実験東京新聞』夕刊2023年5月24日(社会面)同日閲覧
  10. ^ 海跡湖の地史-3 霞ヶ浦」『アーバンクボタ No.32』、クボタ、56-63頁。 
  11. ^ a b 早川唯弘 著、茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年、459頁。「砂州」 
  12. ^ a b 茨城県. “いばらきの川紹介_川の名前の由来(第3回)”. 茨城県. 2019年9月5日閲覧。
  13. ^ 茨城県. “はみだし013:霞ヶ浦の湖水に潜む西浦と北浦の別名称。その由来とは?”. 茨城県. 2019年9月5日閲覧。
  14. ^ 「5年半ぶりコイ養殖再開 霞ヶ浦・北浦」『茨城新聞』2009年4月29日
  15. ^ 【その1】活けジメ”. ヤマハ発動機株式会社. 2022年8月21日閲覧。
  16. ^ 【ご当地 食の旅】食用鯉(茨城・霞ケ浦)凍結切り身で万能食材に『日本経済新聞』朝刊2021年8月14日別刷りNIKKEIプラス1(9面)
  17. ^ 茨城県霞ケ浦北浦海区漁業調整規則”. 茨城県. 2015年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月28日閲覧。
  18. ^ 霞ヶ浦アオコ情報 -茨城県霞ケ浦環境科学センター
  19. ^ 湖のほとりを紡ぐ花火の話 《見上げてごらん!》13”. NEWSつくば. 2023年5月31日閲覧。
  20. ^ 『常陸国風土記』の信太郡に「乗浜の里の東に、浮嶋の村あり。四面絶海にして、山と野交錯れり。戸は一十五烟、田は七八余なり。居める百姓、塩を火きて業と為す。而して九つの社ありて、言と行を謹諱めり。」とある。
  21. ^ 「北浦も増水」『日本経済新聞』昭和25年8月8日3面
  22. ^ a b c d e Bus Stop Ibaraki~いばらき路線バス案内所”. 2019年3月28日閲覧。

関連項目

外部リンク


霞ヶ浦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 06:54 UTC 版)

水泳場」の記事における「霞ヶ浦」の解説

茨城県域および千葉県域。かつては多く水泳場存在したが、水質悪化行方市天王湖水浴場以外は全て閉鎖されている。

※この「霞ヶ浦」の解説は、「水泳場」の解説の一部です。
「霞ヶ浦」を含む「水泳場」の記事については、「水泳場」の概要を参照ください。

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