霞ヶ浦と八郎潟の帆曳網漁
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「打瀬網漁」の記事における「霞ヶ浦と八郎潟の帆曳網漁」の解説
淡水や汽水の湖沼での打瀬網漁としては、明治初期から昭和中期にかけて、霞ヶ浦と八郎潟で「帆曳網漁(帆引網漁)」が盛んに行われた。この「帆曳網漁」は、天保5年(1834年) に霞ヶ浦の新治(にいはり)郡佐賀村(現茨城県かすみがうら市)で生まれた漁師・折本良平が、明治13年(1880年)にシラウオ漁の省力化を目的に新しい帆装と漁法を考案して生まれた。考案された一条網の打瀬船は、使用する帆を大型の風帆1枚のみとし、霞ヶ浦では「帆曳船(ほびきぶね)」と呼ばれ風物詩として親しまれた。明治35年(1902年)の秋田県への移住者漁師・坂本金吉(歌手・坂本九の父方の祖父)によって八郎潟に伝わり、八郎潟ではこの船を「打瀬船」(オモキ造りの平底の潟船(かたぶね)を使用した。)と呼んだ。 この帆装と漁法の特徴は、真っ白で大型の1枚帆が船の全長を大きく超えるほど横広であったこと、帆柱(マスト)と帆桁は孟宗竹製であったこと、表層引き・中層引きができたこと、帆の上部にある帆桁から伸ばした3本の「つり縄」を海中の袋網に結び付け、帆全体と船体を風上側に傾けることで船の姿勢を安定させ、速力を上げて引き網ができたことである。 当初は上層引きのシラウオ漁を目的に創始され、やがて中層引きによるワカサギ漁用にも改良された。帆の構造が逆風帆走に不向きで、動力化する以前は風上へ進むための艪漕ぎに大きな労力を要した。1960年代以降、動力船によるトロール漁に置き換わって衰退し、霞ヶ浦では1971年に観光船の形で復活している。保存会の活動も活発で、文化遺産(無形民族文化財)の登録も行われている。
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