霞ヶ浦と八郎潟の帆曳網漁とは? わかりやすく解説

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霞ヶ浦と八郎潟の帆曳網漁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 23:39 UTC 版)

打瀬網漁」の記事における「霞ヶ浦と八郎潟の帆曳網漁」の解説

淡水汽水湖沼での打瀬網漁としては、明治初期から昭和中期にかけて、霞ヶ浦八郎潟で「帆曳網漁(帆引網漁)」が盛んに行われた。この「帆曳網漁」は、天保5年(1834年) に霞ヶ浦新治にいはり)郡佐賀村(現茨城県かすみがうら市)で生まれた漁師折本良平が、明治13年(1880年)にシラウオ漁の省力化目的新し帆装漁法考案し生まれた考案され一条網の打瀬船は、使用する帆を大型風帆1枚のみとし、霞ヶ浦では「帆曳船(ほびきぶね)」と呼ばれ風物詩として親しまれた。明治35年(1902年)の秋田県への移住者漁師坂本金吉(歌手坂本九父方祖父)によって八郎潟伝わり八郎潟ではこの船を「打瀬船」(オモキ造り平底の潟船(かたぶね)を使用した。)と呼んだ。 この帆装漁法特徴は、真っ白で大型1枚帆が船の全長大きく超えるほど横広であったこと、帆柱マスト)と帆桁孟宗竹であったこと、表層引き・中層引きができたこと、帆の上部にある帆桁から伸ばした3本の「つり縄」を海中袋網結び付け、帆全体船体風上側に傾けることで船の姿勢安定させ、速力上げて引き網ができたことである。 当初上層引きのシラウオ漁を目的創始され、やがて中層引きによるワカサギ漁用にも改良された。帆の構造逆風帆走不向きで、動力化する以前風上へ進むための艪漕ぎ大きな労力要した1960年代以降動力船によるトロール漁に置き換わって衰退し霞ヶ浦では1971年観光船の形で復活している。保存会活動も活発で、文化遺産無形民族文化財)の登録も行われている。

※この「霞ヶ浦と八郎潟の帆曳網漁」の解説は、「打瀬網漁」の解説の一部です。
「霞ヶ浦と八郎潟の帆曳網漁」を含む「打瀬網漁」の記事については、「打瀬網漁」の概要を参照ください。

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