開発と特徴
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「F-84 (戦闘機)」の記事における「開発と特徴」の解説
F-84の設計はXP-84として1944年から始まった。初飛行は1946年2月28日。まず実用試験機YP-84Aが15機製造された後、幾度の改設計を加えたF-84Bが空軍に採用され、226機が発注された。1947年からの部隊配備開始と並行してリパブリック社では生産が行われ、約1年間で発注機数を納入している。 ジェット時代初期の機体らしく、エアインテークが機首に配置され、主翼はオーソドックスな直線翼を採用した。しかし、細く洗練された胴体によりF-86とほぼ同等の速度性能を示した。とはいえ高高度での機動性はF-86に劣っており、またエンジン推力が不足気味で「地面を離れようとしないあばずれ」と言われるほど離陸滑走距離が長かった。それでもP-47の後継らしく機体の強靭さには定評があった。またジェット機としては早い段階で空中給油能力が付加され、1950年9月22日にはターボジェット単座戦闘機として初めて空中給油により北大西洋の無着陸横断に成功している。 最初の量産型であるF-84Bは、整備性にまつわるトラブルや主翼の強度不足が判明したため、1952年に早々と退役し、F-84Cへ生産が移行した。その後も改良が続けられ、最終型となったF-84GはF-84Fの開発遅延を補うために約3,000機が生産された。この型は、単座戦闘機として初めて核爆弾を搭載可能な戦闘爆撃機でもあった。サンダージェットはNATO加盟国を中心とした同盟国にも多数が供与され、1950年代前半の航空兵力の一翼を担った。また、1953年に結成されたサンダーバーズの初代使用機として1955年まで使用された。
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開発と特徴
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ルクスの開発は1964年から開始された。当時、西ドイツ陸軍は偵察に用いる装甲車として、第二次世界大戦で使用されたSd Kfz 231やSd Kfz 234の様な装甲車を求め、各社に要求書を出した。これに答えた各社は、共同で研究を開始したが、ダイムラー・ベンツだけは独自に開発を進め、最終的にダイムラー・ベンツの開発した車両が採用された。 この車両は八輪駆動で、八輪全てで操舵が行える上、独立懸架を採用し全輪に油圧ショックアブソーバーを装備する事により、路上・路外を問わず安定した走行が可能となっている。更に、素早く後退する事を考慮し操縦席が前方だけではなく後方向きにも設けられ、後方側の操縦席には無線手が座り、緊急時には方向転換せず後ろを向いたまま後退する事ができる。走行時に周囲へ発する騒音が抑えられ、特に野外での静粛性に優れている。その他にも、車体後部にスクリューを2基装備し、水上でも浮航してある程度の活動が行える様になっており、高い機動力を持つ装甲車となっている。 車体は、当時の西ドイツの仮想敵国であったワルシャワ条約機構軍が広く使用していたBTR-60やBRDM-2などが装備する14.5mm KPVT重機関銃に耐えられる様に避弾経始が考慮され、車体全体に傾斜が付けられており、車体前面は20mm砲弾の直撃にも耐えられる装甲厚となっている。 武装は、MK.20 Rh202 20mm機関砲を装備し、対地は勿論、対空射撃も可能となっている。また、車体全体にNBC防護能力が付与されている。 こうして開発されたルクスは、1968年から試験が行われ、装甲偵察車2型(Sp.Pz.2)として採用の後、1975年から配備が開始された。以後、1978年の生産終了まで408両が生産された。
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開発と特徴
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「デ・ハビランド バンパイア」の記事における「開発と特徴」の解説
バンパイアの開発は、イギリス空軍(RAF)が仕様E.6/41を1941年に出した事から開始された。ジェット黎明期の当時は、それまでのレシプロエンジンとは全く異なるジェットエンジンを搭載するための機体形式がまだ定まっていなかったので様々な形式が考案され、本機もジェットの排気をスムーズに後方へ流し、かつ機体重量の軽減を図るため、双ブーム形式で後部にジェットエンジンを装備した短い胴体と尾翼をつなげることにした。後にシービクセンまで受け継がれた双ブームジェット戦闘機の始まりである。さらにモスキートで培った経験を生かし、木製合板をコクピット周辺を構成する素材として使用した。 原型機は1943年9月20日に初飛行した。これはグロスター ミーティアの初飛行から遅れること約半年であり、本機はイギリスで2番目のジェット戦闘機となった。テストの結果は良好でイギリス空軍は1944年5月に140機の生産・配備を決定した。続いて1945年には160機が追加発注されたが、第二次世界大戦中で既存の機体の大量生産が優先されたため、量産型が部隊配備されたのは1946年からとなってしまった。 当初の装備エンジンは推力1,225kgのゴブリンIだったが、途中から推力1,410kgのゴブリンII、そして推力1,520kgのゴブリン3に換装された。また与圧キャビン化や水滴風防の採用などの改良も生産開始から早い段階で行われた。本機のエンジンは単発であり、速度性能では双発のミーティアよりも劣っていた。ただしミーティアのエンジン配置は双発レシプロ戦闘機と同様の古めかしいスタイルであり、運動性では双ブーム形式の本機の方が上回っていた。
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開発と特徴
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「F-84 (戦闘機)」の記事における「開発と特徴」の解説
リパブリック社の設計陣は、XP-84の初飛行後から後退翼機の検討を進め、1947年3月にはアメリカ陸軍航空隊へXP-84の後退翼版を提案したが戦後の軍縮の最中であり、この提案を受け入れられる環境にはなかった。1949年に入り、陸軍から独立したアメリカ空軍へ再度提案し、YF-96として試作機1機の開発が認められた。試作機は167日間で完成し、飛行試験が行われたが搭載エンジンのXJ35の推力不足が原因で思うような速度性能が出せず、空軍も採用には消極的だった。 しかし、1950年の朝鮮戦争勃発で戦闘爆撃機が大量に必要になったことから、エンジンを強化した試作機YF-84F 2機の開発を認めた。YF-84Fは燃料搭載量増加のため胴体をサンダージェットと比し太くした上で、エンジンを強力なJ65(アームストロング・シドレー サファイアのライセンス生産型)に換装し、1950年6月3日の初飛行で大幅な性能向上を示したため直ちに採用された。しかしエンジンの不具合により配備は1954年までずれ込み、朝鮮戦争には間に合わなかった。 後退翼の採用とエンジンの強化により速度性能が向上したが、太い胴体と大型化した空気取り入れ口によって空気抵抗が増加し、F-86を僅かに上回る程度しか向上しなかった。また重量増加により機動性は逆に低下してしまっていた。しかしサンダージェットから受け継いだ搭載量と航続性能はさらに高まっており、総合的な性能は向上したと言える。 偵察機型RF-84Fはサンダーフラッシュ(Thunderflash)の愛称で呼ばれ、空気取り入れ口が主翼付け根に移され、再設計された機首に合計6台のカメラが設置されたことで外見が大きく変化している。 サンダーストリークは偵察機型も合わせ3,426機が生産された。この内、約1,600機がサンダージェットを運用していた同盟国に後継機として供与された。また、サンダーバーズの2代目使用機として1955年から1956年の1年間だけ使用された。配備された頃には既にセンチュリーシリーズに代表される超音速ジェット戦闘機が登場し始めており、性能面で特に優れている所がないと判断されたため、基本的に対地攻撃機・戦闘爆撃機として使用された。1960年代に入ると早くも第一線を退いている。なお、サンダーフラッシュはギリシャにおいて1991年まで運用されていた。
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開発と特徴
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「MiG-15 (航空機)」の記事における「開発と特徴」の解説
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国やソビエト連邦は占領したドイツ国内から大量の先進的航空技術やデータ、そして開発技術者を入手し、それらの技術やデータを活用した航空機の開発を進めた。中でもソ連は、戦時中にドイツが研究していた後退翼のデータを入手したことにより、それまで独自に開発していたジェット戦闘機よりも高性能な機体を開発できるようになった。 設計者のミコヤンは遠心圧縮式ターボジェットエンジンであるロールス・ロイス ニーン2のサンプルをイギリスのロールスロイスから入手した。(この時、ミコヤンがイギリスのロールスロイス社に招かれた時、ビリヤードの勝負に勝った褒美として購入許可を得た上、タービンブレードに使用されている合金は製作時に発生する切削くずを靴底に吸着させるやり方で入手し、合金の組成を分析して解明した後に製造した。)このエンジンを無許可でコピーして独自改良型RD-45Fとし、機体はアメリカやイギリスの戦闘機に対抗するため徹底的に軽量化された。大量生産を容易にするため、翼端失速の対策として、主翼に前縁スラットなどの複雑な機構を用いず境界層分離板(ダイバータ)で代用するなど、艤装品なども必要最小限に止められ、全体的に質実剛健な設計となっている。MiG-15は量産性が良く、軽量な機体による軽快な運動性を持ち、機首に非常に強力な37 mm機関砲(N-37)と23 mm機関砲(初期生産型はNS-23、NR-23)を搭載する優れた機体となった。またソ連機の特徴で、降着装置は荒れた滑走路でも問題なく離着陸出来る非常に頑丈な作りになっている。 開発は急ピッチで進められ、1947年には初飛行に成功し優れた性能を示したため、すぐに大量生産が開始された。一方で、開発を急ぎすぎたために様々な欠陥を抱え込むことにもなった。その一つに、高高度飛行や高速飛行中に突然、スピンに陥るという重大なものがあったが、これに対しては速度計とエアブレーキが連動してマッハ0.92を超えないようにして対処した。しかし、当時のソ連にはアメリカなどに比べて優れたジェット戦闘機が無かった上、欠点を補って余りある性能を保持していたため、15,000機以上が生産され、ソ連の衛星国や友好国(東側諸国)にも大量に供与された。欠陥は多数開発された改良型で徐々に解決されていき、改良型のVK-1エンジンを搭載し最も多く生産されたMiG-15bis (МиГ-15бис) は、当時の大抵の西側戦闘機を凌駕する性能を発揮した。
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開発と特徴
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「スーパーマリン シミター」の記事における「開発と特徴」の解説
開発は第二次世界大戦終了直後、1945年にイギリス海軍の要求で開始された。当時のジェット機は試行錯誤の段階に在り、シミターも機体を軽量化するため降着装置を装備せず胴体着陸を行う事も計画案に盛り込まれたが、計画を煮詰める際にこの要求は却下された。やがて、ドイツから後退翼の研究データが持ち出されるとシミターにも後退翼が採用されエリアルールを採用した機体は独特のくびれを持っていた。シミターは戦闘機、攻撃機、戦術偵察機として使用できる様に設計された多用途艦上機であった。その後、1951年に初飛行し、1958年にはホーカー シーホークと交代する形で部隊配備が開始された。
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開発と特徴
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「デ・ハビランド ベノム」の記事における「開発と特徴」の解説
ベノムはデ・ハビランド社の前作、バンパイアの性能向上型として開発された機体で、当初はバンパイア FB.8と呼ばれていた。しかし、機体各部を再設計、改良し変更点が多くなったため、開発途中からベノムと改名された。バンパイアの双ブーム形式の胴体を継承しつつ、性能向上のためエンジンをデ・ハビランド ゴブリンからより強力なデ・ハビランド ゴーストに換装し、純然たる直線翼であった主翼は前縁になだらかな後退角(角度は17度)がかかったものになった。また翼端には増槽を搭載し、航続距離の延長を図った。 試作機は1949年9月2日に初飛行しバンパイアに比し100 km/h以上の速度向上を示したためイギリス空軍に採用され、1952年から部隊配備が開始された。運動性と上昇性能に優れ、機体強度も高かったため、バンパイアに代わる戦闘爆撃機として使用された。あくまでも本格的な後退翼機が就役するまでの繋ぎとしての性格の機体だったが、直線翼ジェット戦闘機としては性能が極めて優秀で、特に高高度での運動性はF-86 セイバーなどの後退翼機を上回っていた。ただし初期型には機体に構造的な問題があり、射出座席や空調設備も装備されていなかったため、後のモデルではこれらの欠点が解消され油圧作動式のエルロンも導入された。 1950年、フランスによってアメリカのF-84 サンダージェットと併せてNATO標準戦闘機とする案が提唱され、イギリスの主導の下イギリス、フランス、イタリアの各国で2000機以上を生産する計画が建てられた。しかし、第2次世界大戦終結後間もないイギリスにはそれだけの生産計画を主導する工業力がなく、計画は実行の目処が立たなかったために実現せずに終わった。 NATO標準戦闘機計画は頓挫したものの、イギリス空軍以外にも、バンパイアを使用していた各国に後継機として採用され、各型計1,100機以上が生産された。この他スイスでは、2つの型がライセンス生産された。後継となるホーカー ハンターの就役が遅れたこともあり、イギリス空軍は1962年まで本機を使用した。この時点でもまだ戦闘爆撃機として十分通用する性能を有していたため、海外では以降も使用され、スイスでは独自の改修を施されて1983年まで現役にあった。 ベノムには、バンパイア同様夜間戦闘機型があった。夜間戦闘機型は機首にレーダーを装備し、コクピットは並列複座になっていた。原型機は1950年8月に初飛行した。最初の夜間戦闘機型であるNF.2は1953年から部隊配備が開始されたが、トラブルが多く本格的な配備は1955年になり少数生産で終わった。続いてレーダーを高性能のものに換装し機体各部を改良したNF.3が1955年から配備されたが、1957年にはグロスター ジャベリンと交替して退役した。
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開発と特徴
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AMX-10RCは、当時フランス軍が装備していたパナールEBR装甲車とAMX-13軽戦車を代替することを目的として1970年から開発が開始され、1978年から生産・配備が開始された。 主砲に当時の装甲車としては破格の威力を持たせるため、CN-105-F2 48口径105mmライフル砲を採用し、偵察のみに留まらず対戦車任務までも考慮した設計となっていた。装輪車両としては反動が大きすぎるためマズルブレーキも装備された。砲弾は38発が搭載されており、内12発が砲塔内に置かれる。 車体全体を構成している素材にアルミ合金を使用し軽量化を図り、フロートなどの追加装備無しでウォータージェット推進により水上航行も可能である。 装軌式のAMX-10P歩兵戦闘車と基本コンポーネントを共用した設計のため、操行方式にはスキッドステア方式を採用しており、曲がりたい方向の車輪が減速、反対側が増速することにより走行操作を行う。このため、ステアリングのためのスペースを要せず車体をコンパクトに抑えている反面、タイヤの消耗が激しいという欠点がある。 高性能な武装と火器管制装置を備えた反面、この手の車両としては複雑すぎ、結果一部の主力戦車以上に高価格となったため、輸出は振るわなかった。フランス陸軍も調達予定台数を削減し、より小型のERC 90装甲車と併用している。 装輪式自走対戦車砲の比較[要出典]16式機動戦闘車11式装輪突撃車AMX-10RCM1128 MGSチェンタウロルーイカット画像 全長8.45 m 8.00 m 6.24 m 6.95 m 7.40 m 8.20 m 全幅2.98 m 3.00 m 2.95 m 2.72 m 3.05 m 2.90m 全高2.87 m 2.10 m 2.60 m 2.64 m 2.73 m 2.80 m 重量約26 t 26 t 17 t 18.77 t 26 t 28.8 t 最高速度100 km/h 85 km/h 100 km/h 108 km/h 120 km/h 乗員数4名 3名 4名 主武装52口径105mmライフル砲 105mmライフル砲 48口径105mmライフル砲 51口径105mmライフル砲 52口径105mmライフル砲 62口径76mmライフル砲 副武装12.7mm重機関銃M2×17.62mm機関銃×1 12.7mm重機関銃×17.62mm機関銃×1 12.7mm重機関銃M2×17.62mm機関銃×1 12.7mm重機関銃M2×17.62mm機関銃×1 7.62mm機関銃×2 7.62mm機関銃×2
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開発と特徴
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フランスの戦車に関する技術は第二次世界大戦での早期の占領により途絶してしまい、戦後のフランス軍は戦時中にアメリカ合衆国から供給されたM4シャーマンや再生産を行ったドイツのパンターなどを運用しつつ、旧来の自国の技術に基づいたARL-44やより先進的なAMX-50を開発していた。しかし、性能不足や開発の遅れに加え政治的・財政的な要因もあり1954年以降はアメリカから供給されたM47パットンを主力として装備していた。それでもフランスは新型主力戦車を独自開発する道を模索しており、折り良く隣国の西ドイツも新型主力戦車の開発構想を立てていたため共同開発する事となった。この戦車は標準戦車と呼称され、1957年に両国間に協定が結ばれた。 協定では標準戦車に対する要求仕様が定められ、両国が別々に開発した戦車を試験し、性能が良好な車両を両国が採用することとなっていた。この標準戦車には、当時出現し始めた対戦車ミサイルや歩兵用携帯対戦車兵器への対抗策として機動力が求められ、装甲防御力はそれほど求められていなかった。 フランスでは1959年から試作車の製作が始まり、翌1960年には試作車が完成し、試験が開始された。フランスが開発した標準戦車の試作車両は車高を押さえるためにイスパノ・スイザ製対向12気筒多燃料液冷ディーゼルエンジンが採用され、目標を素早く発見し先手を打つために視察装置も重視し、車長用の展望塔は腰高に設計された。 主砲は105mm砲であったが、西ドイツの標準戦車が採用した当時、西側諸国の標準戦車砲となりつつあったイギリス製L7A1 105mm砲ではなく独自開発のCN-105-F1 105mm砲を搭載した。56口径(約6メートル)という長大な砲身を持つこの砲は当初、G弾という特殊なHEAT(対戦車榴弾)専用であり、ベアリングにより弾頭の周囲だけ回転させることで弾道を安定させつつ成型炸薬弾の性能をフルに発揮できるという触れ込みであり、より大型の120mm砲を搭載した重戦車であるAMX-50に火力面で匹敵するものであった。しかし、L7用のHEAT弾と比較してコストが高いうえに構造上実質的な弾頭の直径が小さくなるために威力も劣る(HEATの威力は弾頭直径に比例)という本末転倒な結果となり、結局後にAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)も開発され積載された。砲塔内にはエアコンプレッサーとブロアーを搭載しており、発砲後の排煙と装薬残滓の排出はこれによる高圧送風で行い、主砲排煙器は装備されていない。 副武装として主砲に並置する形で12.7mm重機関銃(改良型のB2は20mm機関砲)を装備する。この機関銃は諸外国の一般的な戦車の同軸機関銃と異なり、主砲の上下動と同調させる他に、独立して俯仰角を取ることができる(-8~+20、独立して動作させた場合は+40まで)。これは、対空射撃に使用する事を念頭に置いたためである。また、車長用展望塔には7.62mm機関銃を装備している。 1962年から標準戦車の西ドイツ・フランス両国にイタリアを加えた三カ国による共同試験が始まり、イタリアはこの試験結果から導入する戦車を決定するとしていた。同時期にドイツ国内に於いても西ドイツ製標準戦車(後のレオパルト1)の試験が開始されており、車体総重量ではフランス製標準戦車の方が軽かったにも関わらず、西ドイツ製標準戦車の方が僅かに加速性や速度で勝っていた。この試験後、フランス製標準戦車はAMX-30と命名され、試験結果に満足したフランス陸軍は1963年に正式採用を決定し、西ドイツでも自国製標準戦車、レオパルトの採用を決定したため標準戦車構想は頓挫してしまった。 この後、財政難などによりAMX-30の量産は1965年までずれ込んだが、以降は順調に量産が進み、1974年まで量産が続行された。NATO標準戦車の座はレオパルトに奪われたが、スペインでAMX-30EM2としてライセンス生産され、ギリシャ、キプロス、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタール、ベネズエラなどに輸出された。現在も改良を重ねられながら使用が続けられ、後継車であるルクレールと共に配備されている。
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開発と特徴
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1947年1月に航空省が発行した仕様書E.38/46のためにシドニー・カムはホーカー P.1052を設計し、これはホーカー シーホークの翼を後退翼に修正した機体であった。1948年に初飛行を行ったが、政府や軍に採用されなかった。しかし、シドニー・カムはP.1052の開発を生かして昼間ジェット要撃機を求める仕様書F.3/48の要求を満たす新たな戦闘機P.1067の開発に取りかかった。最初に機首にエアインテークを配置した試作機が製造された。これは速度の向上に繋がったが、エアインテークを主翼の根元に配した従来の双ブーム式と比較した際にレーダーの搭載や兵装搭載力に劣った。結局エアインテークを左右主翼付け根前縁に移動し、機首にレドームを設け、風洞試験で懸念されたダッチロール対策として尾翼の配置と形状を変更し、まとまった機体形状にはP.1067/5の名称がつけられた。。この機体にはロールス・ロイス製のジェットエンジン、ニーンよりも一回り小さくて出力の大きいエイヴォンを搭載した。 1951年7月20日にエイヴォン Mk.107 エンジンを搭載して初飛行した。補給省は初飛行に先立つ1950年3月にハンターと命名して、生産を決定した。部隊配備は1954年7月からイギリス空軍で開始された。政府側からバックアップとして他社のエンジンを搭載するよう要請を受けたため、1952年11月30日にはサファイアを搭載した試作機が初飛行したが、ホーカー社はエイヴォンにこだわり、サファイアを搭載した量産モデルは2種しか製造されなかった。 ハンターは機動性が良く、ADEN 30 mm機関砲を4門搭載し火力も強力であった。初期型ではトラブルも続出したが、改良されたエイヴォンを搭載したF.4型以降は元来の堅実かつ頑丈な設計も相まって非常に信頼性に富んだ機体となった。また機体にモジュラー構造を取り入れていたことから、古い型でもアップグレードや練習機型への改造が容易に行えた。 アビオニクスに関しては、機首に対空射撃照準用の測距レーダーが搭載されているのみであり、夜間や荒天時の空戦には不向きであった。このためイギリス空軍は、夜間ないし荒天時の迎撃を担当する全天候戦闘機としてグロスター ジャベリンを導入している。 練習機型においては座席の並列複座配置が採用されたが、この実現のためにコックピットの外形が大きく左右に膨らむこととなり、試作段階ではコックピット後部で激しいバフェッティング(気流の剥離)が起こり問題となった。この問題は困難で時間を要し、当時研究が進んでいたエリアルールに基いてコックピット後方から主翼部分にかけての胴体を整形することにより、ようやくの解決を見た。
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開発と特徴
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「イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ」の記事における「開発と特徴」の解説
イギリス空軍は第二次世界大戦中の1943年からデ・ハビランド モスキートのようなジェット高速爆撃機を求めていた。キャンベラの開発は1945年にイギリス航空省から出された要求仕様B.3/45に始まる。要求内容はアブロ ランカスターの航続力とデハビランド モスキートの爆弾搭載量及び軽快性を兼ね備え、ジェット戦闘機と同等かそれ以上の速度と高高度性能を求めた厳しいものであった。 イングリッシュ・エレクトリック社は第二次世界大戦でハンドレページ ハンプデンやハンドレページ ハリファックスの製造を行っており、戦後もデ・ハビランド バンパイアを製造して技術を高めてきていた。1944年にはウェストランド・エアクラフトのウィリアム・テディ・ペッターを社に招き、仕様B.3/45の開発に向けて動き出した。そして、1945年9月に航空省に計画を提出し、翌年1月には航空省から試作機製造の契約を結ぶところまでこぎ着けた。 高高度性能を満たすため、エンジンはロールス・ロイスで開発中のターボジェットエンジン、エイヴォンを選定した。簡素で当時としては一般的な設計は、グロスター ミーティアに似ていたが、ミーティアの拡大版というわけではなかった。試作機のA.1は、1949年4月29日に完成した。構想段階では後退翼の採用も検討されたが、角ばった楕円翼のような低アスペクト比直線翼が選ばれた。両翼それぞれの中央に埋め込む形でエンジン・ナセルを配し、エンジンはエイヴォン RA.2を搭載した。同年5月13日に初飛行し、軽快な運動性と優れた性能を示した。エイヴォンの製造中止を警戒してロールス・ロイス ニーンを搭載した試作機も製造された。 なお、レーダー照準システムの搭載を前提として開発されていたことから、試作機の搭乗員はパイロットと航法士の2名だったが、このレーダー照準システムは結局実用化されなかったため、量産機では爆撃手が追加で搭乗することとなり、機首に目視爆撃用のキャノピーが追加された。 1949年9月にファーンボロー国際航空ショーでお披露目され、名称は最初の海外顧客でイギリス連邦の構成国オーストラリアの首都キャンベラにちなんだ。キャンベラがイギリス空軍に引き渡される以前からアメリカとオーストラリアが興味を示していた。 キャンベラは当時のほとんどの戦闘機より優れた性能を有しており、特にその高速性と高高度運用能力から迎撃できる戦闘機がほとんどいなかった。後にイギリス空軍に配備されたホーカー ハンターやブリティッシュファントムでさえ、高高度域でも高い運動性を発揮するキャンベラは手強い訓練相手であった。そのためいくつかの記録を樹立しており、1955年と1957年にはロケットモーターを取り付けた改造機が高度世界記録を樹立している。
※この「開発と特徴」の解説は、「イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ」の解説の一部です。
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