逸話、エピソード
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「アレクサンドロス3世」の記事における「逸話、エピソード」の解説
ブケパロス 王子時代にブケパロスという馬がペラの王宮に連れてこられた。気性が荒々しく誰も乗りこなすことができなかったが、アレクサンドロスはブケパロスが自分の影に怯えているのに気付き、馬の向きを変えて見事に乗りこなした。それを見た父のピリッポス2世は満足と恐れを同時に抱き、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言ったという。 決して負けない人 アレクサンドロスはアジアへの遠征に先立って神託を求めて神託所に行った。そのとき神託所は休業日だったが、アレクサンドロスは強引に神託を求め続けた。うんざりした巫女が「あなたは決して負けない人だ」とこぼすと、彼は満足して立ち去った。 ディオゲネス コリントスにシノペのディオゲネスという賢者がおり、いつも裸で樽に暮らし、質素な生活を送っていた。本人はその哲学思想もあって、犬のような生活を送りながらも人生に至極満足していた。コリントスに滞在していたアレクサンドロス大王の下にはたくさんの人が集まっていた。博識なアレクサンドロス大王は、その中に賢者であるディオゲネスが居ることを望んだが彼だけが大王の前に現れなかった。アレクサンドロス大王は自らディオゲネスに会いに行くことにした。クラネイオンに行くと、そこにはひなたぼっこを楽しんでいたディオゲネスの姿があった。「余が大王であるアレクサンドロスである。」と名乗ると、「わしが犬である、ディオゲネスである。」と応えた。アレクサンドロスは彼に「何なりと望みのものを申してみよ!」と問うたが、答えは「どうか、私を日陰におかないでいただきたい。」というものだった。それの様を見たアレクサンドロスは「お前は余が恐ろしくないのか?」と問うとディオゲネスは「いったいお前は何者だ?善人か?悪人か?」と問う。アレクサンドロスは「むろん、善人である!」と返すと、「それなら、誰が善人を恐れようか?」と返した。帰路にてアレクサンドロスは「もし私がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と語ったという。 確かに、晩年のディオゲネスはコリントスで生活をしていた。シノペからアテナイへ移ったあと、奴隷として売り飛ばされコリントスのクセニアデスに買われた為である。この時期で、アレキサンドロスとディオゲネスが会う機会は、東方遠征前に立ち寄ったこの時期しかありえない。よって、実際に会う機会が存在したことは事実である。 アレキサンドロスとディオゲネスのエピソードはディオゲネス・ラエルティオス著の『哲学者列伝』収録のものとプルタルコスが伝えるものが残っている。しかし、ディオゲネスとアレキサンドロス双方の思想らしからぬエピソード。デフォルメされた性格。および、当時のマケドニア批判の風潮。他のマケドニア人とディオゲネスの逸話における多くの矛盾から、マケドニア批判の一例として後世に創作されたものではないかという声もある。 もし創作であった場合、ディオゲネスの提唱した「世界市民(コスモポリテース)」とアレキサンドロスのその後の遠征や統治の類似性から着想を得たものではないかと考えられる。 アキレウスへの情熱 アレクサンドロスはイリアスの英雄アキレウスに心酔していた。東方遠征で小アジアに渡った際には、本隊を離れてわざわざトロイへと赴き、アキレウスの墓に花冠を捧げた。更に、そこにあるアテーナー神殿に自らの武具一式を奉納し、代わりにトロイ戦争時から伝わる武具を貰い受けたという。トロイで受け取った聖なる盾をアレクサンドロスは常に持ち歩き、戦闘の際にはそれを盾持ちにもたせて自分の前方を進ませた。 ヘーラクレースへの挑戦 アレクサンドロスは、自らがギリシア神話最大の英雄ヘーラクレースの子孫だと信じて疑わなかった。インド北部に侵攻した際には、ヘーラクレースですら落とせなかったとされる難攻不落のアオルノスという岩山を陥落させた。しかし、これはアレクサンドロス大王のご機嫌を取るための浮説であり、現地にそういう伝承は存在しなかったとされる。 毒殺を恐れない アレクサンドロスが病臥していたとき、侍医のフィリッポスが敵(ダレイオス3世)に買収されて王の毒殺を企てているという報せが届いた。王はその手紙を読んだが、平然として薬を飲み干し、フィリッポスに手紙を見せた。フィリッポスは「今後も、医者としての私の指示に従うようにしてください。そうすれば助かります。」と言ったといわれる。その後、王は激しい高熱に苦しんだが、やがて回復した。 貴婦人への礼遇 ダレイオス3世の母と妃がイッソスの戦いの後で捕えられたが、アレクサンドロスは彼女らに非常に敬意を払って接した。のちにそれを伝え聞いたダレイオス3世はアレクサンドロスの度量を賞賛し、もし自分が不幸にして王国を失うとしたら、アレクサンドロスこそが新たな王となるように神に祈ったという。 「勝利を盗まない」 ガウガメラの戦いの前夜に宿将パルメニオンが夜襲を進言したが、アレクサンドロスは「私は勝利を盗まない」と言って退けた。ペルシア軍は劣勢のマケドニア軍が確実に夜襲を仕掛けてくるものと予想して一晩中厳重に警戒していたが、アレクサンドロスは翌朝遅くまで悠々と寝続けた。ペルシア軍は無駄に体力を消耗し、マケドニア軍は気力充実して戦闘に臨むことができた。 クレイトスの殺害 アレクサンドロスはペルシア王国を征服した後、東方文化を積極的に導入し、マケドニアの古参将兵の反発を招いた。ある夜の酒宴でアレクサンドロスは武将クレイトスと東方政策をめぐって激しく口論し、衝動的にクレイトスを刺し殺してしまう。まもなく酔いが醒めた王は深く嘆いたという。 砂漠の水 インド遠征からの帰路、アレクサンドロスの本隊は不毛なゲドロシア(英語版)の砂漠を行軍してペルシア本国へ向かった。兵士たちが飢えと渇きに苦しんで倒れていく中、1人の兵士が王のために1杯の水を見つけてきた。しかしアレクサンドロスは「私は皆と共に渇きに苦しむ方を選ぶ」といって水を捨てた。 部下への感情 アイリアノスは『ギリシア奇談集』において「アレクサンドロスは軍人らしいという理由でペルディッカスを、軍の統率において優れているという理由でリュシマコスを、勇敢だという理由でセレウコスを憎んでいた。アンティゴノスの気前のよさ、アッタロスの品行、プトレマイオスの幸運さは彼の癪に障るものであった」(アイリアノス, XII, 16.なお、引用は より)と述べており、アレクサンドロスの優秀な部下に対する思いは複雑なものであったともされる。逆にアレクサンドロスがヘファイスティオンを寵愛していたのは、彼がとりたてて将軍として抜きん出たところのない人物だったからだともいう。 性的嗜好 男色家であったという説もある。 思慮深さ 早まって過ちを犯さないよう、何かする時には30秒考えてから実行に移したという。
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逸話、エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 21:30 UTC 版)
アッリアノスは『ギリシア奇談集』において「マケドニア人ペルディッカスは、アレクサンドロスに仕えた将軍であるが、非常に豪胆で、ある時には牝のライオンが巣にしている洞窟に単身で入っていった。彼はライオンに気が付かなかったのだが、ライオンは仔を連れて出ていった。ペルディッカスはこの事の為に皆の者から、その豪胆さを讃嘆されたようである。」と記述している。
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逸話・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 09:25 UTC 版)
若い時(20代)ネオン塔製作会社に勤務していたので、いまだに丸太足場に登るのが、好きである。 人に知られた温泉通で、温泉雑誌等にも寄稿していた。日本国中のみならず、ドイツ、フランス、ハンガリー等の温泉も探訪している。 若松孝二監督の映画『エンドレス・ワルツ』(1995年作品)に出演した。 1980年末、日本経済新聞社の嘱託記者として上場企業、さまざまな業種、約10数社のトップにインタビューし、各社の企業活動や、明日への展望等を一覧する書籍の記事を、約2年にわたり執筆した。
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逸話・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:29 UTC 版)
「KENSO (プロレスラー)」の記事における「逸話・エピソード」の解説
2002年2月1日 北海道立総合体育センターで猪木が新日本の現状を問うた俗に言う猪木問答のさい、鈴木は「僕には自分の明るい未来が見えません!」と答え、観客の失笑を買った。猪木からも「見つけろ、てめえで!」とあしらわれ、それ以来、迷セリフとしてしばしばネタにされる。ただしその場に居た蝶野からは「ナイスコメント」と評価されたという。 WWEへの参戦は、新日本入団直後のカナダ修行でWWEを観て以来の憧れだったからだと語る。なお、WJプロレスへの移籍はアメリカに行かせてもらう約束をしてくれたからだったが、給料未払いをきっかけに夫婦で渡米することになる。 リングネームの件では鈴木も日本の背景を説明しながら、「ヒロヒト」でショーを行ったら誰かに刺されるのでは、とビンスに語ったところ「世界にニュースになるな。お前はもっとスターになる。お金も使わなくていい」と答えたという。しかし最終的には鈴木夫妻の主張を取り入れた。なお、プロモ放送の次の日には日本の政府関係筋からもストップがかかったという。 雑誌「TIME」で「世界で活躍する日本人」の中で唯一のプロレスラーとして掲載されたことがある(鈴木の上に掲載されていた日本人は葛飾北斎)。 浩子ともども、浩子の実家に彼女の両親と同居していたため、リングでファンから「マスオさん」コールがおこることもしばしばあった。 鈴木の師である坂口は新日本の会長を退く際「心残りは北尾光司、小川直也、鈴木健想を育てきれなかったこと」と新聞社のインタビューで発言している。 尊敬している外国人レスラーはミック・フォーリーとコメントしている。 入場時や勝利時には、両手を大きく横に広げてアピールする。このポーズはエル・アギラ・インペリアルと呼ばれ、メキシコの象徴とも言える鷲の大きく広がった翼を身体で表現したものである。4つのコーナー全てに上がってこのアピールを行うため、入退場に時間が掛かることが多い。 「ビチっと」が口癖(「きっちりと」「しっかりと」といった意味)。会見や試合後に連呼することもあり、自身を中心とするユニットの名前も「TEAM ビチッと!」であった。 近年は「空気が読めない」「絡みづらい」「仲の良いレスラーがいない」というキャラクターを確立しており、タッグマッチでも仲間割れすることが度々ある。その反面プライベートでは若手の征矢学とは仲が良い様でツイッター上でやたらと征矢をいじり倒している。 スピードパートナーズ買収後の全日分裂騒動において、近藤修司らのトークイベントにて選手側の行動を白石にリークしていたことが暴露され、結果的に武藤らの離脱を決定付けることとなった。これについて武藤は退団後に週刊プロレスのインタビューの中で「KENSOは可哀想なヤツなんだよ」と半ば皮肉るコメントをしている。同時期に連載していた週プロのコラムと浩子が連載していた東スポのコラムが共に打ちきられている。 2013年8月31日にZERO1主催で行われた「横浜大花火2013」の特別試合「ノーロープ有刺鉄線メガトン電流爆破&史上初!人間爆弾&東京初!有刺鉄線電流爆破バット・ダブルヘルデスマッチ」で人間爆弾に指名された白石伸生オーナー(当時)のガードマンとして登場。試合中に白石オーナーがリングに上がろうとしたため、必死に食い止めKENSO自らがリングインした。しかし、グレート・おおニタに毒霧を浴びせられたうえ、電流爆破を食らってしまった。試合はその後、リングに上がった白石オーナーがおおニタとともに有刺鉄線電流爆破ボードに突っ込み、おおニタが白石からピンフォールを奪う形で終了した。
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逸話・エピソード
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ラグビーの用事は、基本的に土日祝日・有給休暇しか使わなかった。1994年の早大監督時代も、毎週水曜日だけは定時に退社してグランドに駆けつけ、後は土日祝日を利用していた。後に早大監督を務めた清宮克幸は、この「サラリーマン監督」の考えには否定的で、フルタイムでないと監督を引き受けないと明言している。また清宮の後任の中竹竜二もフルタイム監督であり、近年の大学ラグビーの監督は専任が主流となりつつある。日本ラグビー協会の強化委員長に就任していた際も、前述のように大阪転勤が決まったため、ラグビー関係の役職から全て退く意向を示して辞任している。 ロンドン駐在時代に、NHKニュースのコメンテーターとして出演し、ラグビーのテレビ解説者としてもNHKに頻繁に登場していた。 銀行内で初代コーポレートアドバイザリー本部長として指揮を取った際、会議で宿沢の部下である部長職の人間が「この業界は新聞報道によりますと…」と述べたところ、宿沢の怒りに火がつき、「“新聞報道によりますと”とは何事だ。銀行員がもっと業界事情に精通して、新聞に情報を流さなくては。そのくらいの気概を持て」と指導した、との逸話が残る。 座右の銘は「努力は運を支配する」「勝つ事のみ善である」。 講演会などで「戦略は大胆に、戦術は緻密に」「リーダーは選ぶものではなく、育てるもの」と自身の信条をよく述べていた。
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逸話・エピソード
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2018年秋頃、ワールドトリガー公式Twitterアカウント (@W_Trigger_off) - Twitterからの「連載再開決定した際に、アニメワートリの永富プロデューサーに盛り上げ協力を打診したところ、大車輪の活躍で新規イラストからイベント開催まであっという間に整えていただきました。永富Pはその頼みに100%応えた…この場を借りて深く感謝を!」というツイートに対しアニメ「ワールドトリガー」公式Twitterアカウント (@Anime_W_Trigger) - Twitterで、「ワールドトリガー公式からありがたいお言葉(泣)原作編集担当の齊藤さんから漫画再開の話を聞いたときは本当に嬉しかったです。半分になってもやり遂げる覚悟でした(笑)12/7金曜と8土曜のワールドトリガー復活ナイト@新宿バルト9でこのあたりのお話もぜひ!プレリザーブは10/30火曜からです!永富」と返した。これらは原作にあるレプリカについての空閑遊真と三雲修の会話を引用したもので、このやりとりを見ていたファンからは「さりげなく原作ネタを入れるのが好き」「永富Pが半分になったらしいぞ」「Sさん永富Pそしてキャストと皆様ありがとうございます!!!!!!!!」など多くの反響が寄せられた。 「ゲゲゲの鬼太郎」の原作者・水木しげるが2015年11月30日に死去してからは、翌2016年以降東京都調布市が水木の命日を「ゲゲゲ忌」と名付けて功績を称えるイベントなどを毎年開催し、2018年からはアニメ「鬼太郎」第6期のプロデューサーでもある永富もトークショーイベントで毎年MCを務めている。
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逸話・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 02:21 UTC 版)
ロイヤル・バレエ学校留学時は15歳で、通常はホワイト・ロッジ(15歳までのロウアー・スクール)で学ぶ年齢だが、技術が秀でているということで、アッパー・クラスのしかも17歳クラスへ転入。入学後はやんちゃな一面を発揮し、退学勧告が実家に送られるほど素行の悪さが目立った存在でもあったが、能力の高さから留学2年目にはスカラーシップを受けている。 1988年5月、レニングラード(現サンクトペテルブルク)で行われたワガノワ・バレエ学校創立250年祭で、ロイヤル・バレエ学校代表の1人として出演者に選抜され、マクミラン振付の『四季』を踊り、日本人として初めてマリインスキー劇場に立った。この時の出演者には後にロイヤル・バレエ団『ラ・バヤデール』で共演するアルティナイ・アスィルムラートワ、ファルフ・ルジマートフらがいた。 学生時代は、ABTなどに入れればと漠然と思っていたというが、ローザンヌ国際バレエ・コンクール出場の1週間前に、おそらくコンクールに出ると他のバレエ団よりスカウトされると危ぶんだ芸術監督アンソニー・ダウエルより入団のオファーがあった(当時16歳)。当時ロイヤルに東洋人入団のケースはなく、バレエ界の常識としては異例の申し出であるが、即決はせず数日後に返事をした。 1989年に出場し、最高位のゴールドメダルを受賞したローザンヌ国際バレエ・コンクール、実はこのとき熊川は体調は万全でなかったというが、他の追随を許さない圧巻の演技に、ヨーロッパ予選時ならびに1月28日に行われた東京本選準決勝では観客席から禁止されていた拍手が沸き起こった。受賞後のインタビューでは「ゴールドメダルは“とれる”とは思っていなかったけど、“とろう”と思っていた」と語っている。この時の参加者にはアダム・クーパー、イーサン・スティーフィル、ダリア・クリメントヴァ、岩田守弘などその後主要なバレエ団のトップを務める者が大勢いた。また熊川が受賞したゴールド・メダル(最優秀特別賞)は2018年現在46年目を迎えるコンクールで13名しか該当者がでていない。 入団直後の1989年6月、ヨーロピアン・ヤングダンサーズ・オブ・ザ・イヤー(ユーロビジョン・ヤング・ダンサーズ)に英国代表として出場し、クラシック部門金賞を受賞したが、この時の審査員長はローラン・プティ、審査員にはジョン・ノイマイヤー、エカテリーナ・マクシーモワ、ウラジーミル・ワシーリエフなどそうそうたるメンバー。この時の女性の金賞(コンテンポラリー部門として)はパリ・オペラ座バレエ団エトワールのアニエス・ルテステュ。本コンクールはヨーロッパおよび北アフリカの主要メディアが加盟する欧州放送連合が主催しており89年は17か国から代表が参加、コンクールの様子はヨーロッパ全土で放映され、熊川の名が世界に認知される大きなきっかけとなった。 ロイヤル・バレエ団でのデビューは1989年6月。ブリストル公演の数日前に突然代役で出演してくれと言われ、2日間だけで振付を覚えて初舞台に挑んだ。 その2週間後には『ロミオとジュリエット』のマンダリン・ダンスのソロに抜擢。カンパニー・デビューからわずか2週間でソロを踊るのはロイヤル・バレエ団でも例外的なことだったといえる。 1989年9月、ロイヤル・バレエ団史上最年少の17歳でソリストに昇進した際、当時の芸術監督ダウエルからは、当初「コリフェ(ファースト・アーティストの当時の名称)への昇進」と告げられたという。そこで「どうせソロを踊るのだからソリストにしてください」と異例の直談判をし、その場でソリストへの昇進が決定した。 1992年8月3日、ロイヤル・バレエ団の「ラ・バヤデール」のソロル役は当初、エロール・ピックフォードが踊る予定だった。ピックフォードの怪我のため、本番4日前に突然熊川に出演がオファーされ、アンダースタディにも配されていなかったにもかかわらず4日間で全幕を準備した。客席にはお忍びでエリザベス2世女王とマーガレット王女が臨席するという特別な状況のなか、ヴィヴィアナ・デュランテを相手に完璧な舞台を見せた。 プリンシパル昇進は1993年5月のバリシニコフ版『ドン・キホーテ』を踊った翌日。ダウエルより「今日からプリンシパルだ(次シーズンからではなく)」と告げられた。入団から4年2か月、21歳と2か月という異例の早さでの昇進。 ロイヤル・バレエ団からの電撃退団はバレエ界を震撼させ、英国でも「ロイヤル・バレエ団の大きな損失」として主要各紙で報道された。しかしこれは決して突発的な決断でなく、これからのキャリア、改修や変革期にあったロイヤル・バレエ団の環境など総合的なことを熟考して覚悟を決めたことだという。事実、「いずれ日本に帰りたい。まだ十分若いうちに」(1990年)、「日本のバレエ界を大きくするため、何とかしたいと思っている」(1992年)と、ロイヤル・バレエ団入団直後の10代の頃よりそのビジョンを多くの取材で語っていた。 「テディ」というニックネームはロイヤル・バレエ学校に留学してすぐについた。イギリス人には「テツヤ」という発音が難しく、「Tで始まる名前だからTeddyがいいのでは?それに熊は英語でベアだから、テディ・ベアにも通じる」と友人が発案した。一時期は新聞でも“テディ・クマカワ”と記載されることがあるほど英国では浸透している。 ・その他、車でバッキンガム宮殿に突っ込んだこともある。
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逸話・エピソード
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米国マッキントッシュ・ラボの製品を長年愛用しており、芳醇で耽美な柔らかいサウンドを好んでいた。
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逸話・エピソード
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3月学運発起人として、2014年のひまわり学生運動も側面支援していた。 時代力量洪慈庸とは洪仲丘事件で立法委員として真相究明に協力して以来良好な関係を築いており、林の市長選・洪の立法委員選挙で互いに選挙協力したほか。元自由時報記者で林の広報担当を経て台中市新聞局長を務めていた卓冠廷(中国語版)が洪と結婚することとなり、式典にも参列した。 2015年、教科書改訂反対運動では中高生を擁護しつつも冷静な行動を呼びかけていたが、8月3日の市議会の答弁で生徒たちを「屁孩(Pìhái、腕白な子供の意)」と表現しようとして原稿と異なる「屁眼(Pìyǎn、肛門の意味)」と言い間違えてしまい、取材陣が騒然となった。 zh:反高中課綱微調運動参照 同年のプロ野球台湾シリーズで地元球団の中信兄弟と桃園市が拠点のLamigoモンキーズが対戦することとなり、同じ民進党系の桃園市長鄭文燦と「負けた方のチームの市長が勝った方のユニフォームを着る」賭けを行った。1勝3敗からLamigoが逆転制覇したため翌2016年3月19日のLamigo開幕戦でピンク色のLamigoユニフォームを着用した姿を披露。 2016年4月25日、台湾最大のインターネット掲示板PTT(批踢踢)で「最も酷い市章」として黄色地に赤字だけの台中市のものが選ばれ、林はFacebookで事実確認とどうすればよいかについて意見を募った。市新聞局によると、当該市章は2003年に市民のオンライン投票で決められたもので、現在もそのまま使われているものだったことがわかり、公募された最終候補3作品から再度オンライン投票で決めることになったという。PTTは日本での2ちゃんねるに相当するアングラ色が高い掲示板で、通常はそこでの論争に政治家が直接絡むことは極めて少ない。
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逸話・エピソード
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本番組開始当時は、放送する鉄道や列車の選択に故宮脇俊三氏が参加していた。 最初のシリーズ「英国」に続くシリーズ「仏国」のロケは1987年6月初旬から開始する予定で、当時のスタッフは「英国」の時と同様に日本からディレクター、カメラマンだけが現地に趣き、コーディネーターとカメラ機材、車両は取材先で調達することが決まっていた。ところが、取材直前になってカメラの調達が不可能となり代替品で対応したが、これが散々な代物であり苦労したことから、以降はビデオエンジニアを日本から同行させる現在の取材スタイルになった。 1988年10月19日(水)は、関西圏と一部の地域においてネット中継していたプロ野球「ロッテオリオンズ対近鉄バファローズ」ダブルヘッダー戦(10.19)を21時から急遽全国ネット中継に切り替えて放送したことにより、テレビ朝日と一部のネット局では本番組が休止となった。 2001年9月12日(水)は、前日に起きたアメリカ同時多発テロ事件(9.11)に関連してニュースステーション特別番組“もはやこれは戦争か”を、通常より54分早い21時から放送したことに伴い、本番組の放送開始時刻も本来の21時48分から54分繰り上げて20時54分となった。定期番組として本番組が20時台に放送されることは放送開始以来初めてのことであり、これは最も早い放送開始時刻の記録となっている。 2012年5月29日~6月3日の期間は、富士通は「2014 FIFAワールドカップ」アジア地区最終予選の宣伝PR番組への提供に移動し、本番組を提供せずにスポットCMで放送された。 2014年7月28日~8月1日の期間は、テレビ朝日・六本木ヒルズ合同イベント「テレビ朝日・六本木ヒルズ 夏祭り SUMMER STATION」のPR番組のため、放送時間が26時20分~26時25分(翌日の2時20分~2時25分)に移動(2日のみ26時22分~26時27分)した。スポンサーの富士通はPR番組を提供した。 2016年4月1、4、7、8日の各日は、「報道ステーション」のメインキャスター交代による一時番組休止に伴う代替番組として「ANNニュース&スポーツ」(4回とも)および「検索ちゃんネタ祭り」(4月1日)、ドラマしくじり先生(4月4日)、ゴン中山&ザキヤマのキリトルTV(4月7日)、ロンドンハーツ&アメトーク(4月8に)を放送したことにより放送開始時刻の変更が4回あった。 2017年9月19日は「ミュージックステーションウルトラFES」第3部が急遽30分拡大放送されたことに伴い、本番組が30分繰り下げて放送された。 2018年5月29日(火)(VOL.10321)は、台湾・阿里山森林鉄道の旅について紹介しているが、同路線が自然災害により2009年から一部区間運休中であったことから、運休中区間について1999年7月および1989年1月に放送した映像の一部を放送した。また同年6月11日(月)(VOL.10324)は、下淡水渓鉄橋について紹介する際に1996年6月に放送した映像の一部を放送して紹介した。 2020年2月、COVID-19感染症拡大に伴う渡航の制限などにより日本国外での取材、撮影が大きく制限を受け、新たなシリーズの制作が困難となったことから、2020年6月(VOL.10519)~2021年10月(VOL.10664)の1年5か月間(146巻)は世界の車窓からベストセレクションシリーズと銘打って過去の巻を再放送、あるいは過去の複数の巻を再編集して放送した。2021年10月からは、海外のカメラマンやコーディネーターに依頼する体制で撮影を再開している。 1988年、メキシコでロケを行った際、突然砂漠の真っ只中でレール交換のために6時間待機させられた。 1989年、アルゼンチンでロケを行った際、先導する機関車と客車との連結器が外れてしまい、客車を置いたまま機関車だけが走っていってしまったりしたことがあった。 1989年、ユーゴスラビアのベオグラード=バール鉄道(英語版)にある地上高200mの世界有数の橋“マラ・リイェカ橋梁(英語版)”を通過する列車を空撮するために、ユーゴスラビア空軍の協力でヘリコプターを飛ばしてもらったが、鉄道ダイヤ遅延により目的の列車を撮影できず、ヘリコプターの燃料切れ寸前になって別の列車がやってきてどうにか撮ることができた。 1991年、グアテマラでのロケでは、取材で乗った列車に貨物トラックが踏切で突っ込むという事故に遭い、線路は曲がり、鉄道は「今日はここまで」という状態になってしまった。すると地元の乗客はみんなあれよあれよという間に列車から降りて、警察が来るよりも早くどこからともなくバスがあちこちから来て、みんなそれぞれ分乗してあっという間にいなくなってしまい、取材陣だけがその場に取り残されてしまったことがある。 1991年、ウガンダの列車では、シートのスプリングがむき出しになっていた。その理由は、客がシートの皮の生地を剥ぎ取って売ったりしているそうで、スタッフは何か切実なものを感じたという。 1992年、パラグアイでは、薪を炊いて走る蒸気機関車が、草原の真ん中で止まってしまった。原因はブレーキの部品がとんでなくなっってしまったからだそうで、その場で即席の部品を作り、応急処置して走り出すことがあった。 1998年、ジンバブエでディーゼル機関車が故障して2時間近く立ち往生した際に、ディレクターの福本浩氏はその時間を利用して番組2本を作成した。 2007年、オーストラリアのZigZag鉄道(英語版)が日曜日に限り蒸気機関車を走らせるとあって取材にむかったところ、この日は極度の乾燥により「山火事を起こす危険がある」との鉄道会社の判断でディーゼル機関車に変更されてしまっていた。 石丸謙二郎に関するエピソード 2016年5月2日の通算10000回の放送日を目前に控えた2016年4月28日に、本番組と同様にテレビ朝日で長寿帯番組となっている『徹子の部屋』に出演した。 放送が1000回に達した頃、「毎日放送しているから1000回まではあっという間だったけど、これにあと0がもう1個つくとスゴイね。」と発言したことに対し、周囲の関係者から「そんな馬鹿な、そうしたらおじいちゃんになってるよ。」といいながらドッと笑ったという。 番組は初回からナレーションを担当しているが、過去に一度だけ、舞台が続いたときに声を潰してしまった。このため、ナレーション撮りのスケジュールをオンエア直前にのばしてもらうことにより声を回復させ、初の代役となる事態を回避することができた。収録は最初の時に1回だけ技術の音響担当とともにテストを実施、それ以降は全ておまかせで本番収録している。 石丸は本放送で登場回数が最も多いフランスやイタリアには行ったことがないという。その理由について本人曰く本番組の収録が頻繁にあり、長い旅に出られないとのこと。
※この「逸話・エピソード」の解説は、「世界の車窓から」の解説の一部です。
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