早大監督時代
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2004年秋季リーグ戦から母校早大の助監督に就任、前任の野村徹の指導を受け2005年、早大野球部第17代監督に就任。就任早々東京六大学春のリーグ戦で優勝を果たしたが、大学選手権ではベスト8止まり。2006年秋季に2度目の優勝(明治神宮野球大会大学の部準優勝)、2007年春季には完全優勝で連覇を飾り、第56回全日本大学野球選手権大会で33年ぶりの優勝を遂げ、部・そして大学の悲願である日本一を達成した。同年秋季にはチーム3度目(4連覇含む)となる3連覇で部40回目の優勝を果たし、大学創立125周年記念式典を行ったばかりの節目の年に花を添えた。続く第38回明治神宮野球大会では東京六大学勢初の“四冠”は逃したものの準優勝を収めた。2008年までの4年8シーズンでリーグ優勝5回、全国大会優勝1回を記録。 また、2005年には武内晋一(ヤクルト)、越智大祐(巨人)の2選手、2006年も宮本賢、山本一徳(ともに日本ハム)をプロ野球へ送り出すなど、選手育成の手腕を見せている。2007年は斎藤佑樹らが入学・入部し、さっそく年明けから斎藤の北京五輪代表選出を巡り、星野仙一同五輪監督との確執がマスコミを賑わした。「ケンカ應武」ともあだ名され無骨ぶりを発揮している。また斎藤に対して1年の頃から不規則なローテで登板させた事によって斎藤を潰した疑いもかけられている。 采配では投手陣を中心とした「守りの野球」を標榜している。攻撃面では選手層の豊富さが目立つものの、好機を着実に生かす試合運びのうまさを感じさせる。 2007年春季リーグ開幕戦に新入生の斎藤を先発起用するなど、選手起用には学年や実績へこだわりすぎない柔軟さや意外性を見せる一方で、ミスを犯した選手は容赦なくスタメンから外すなどの厳しさも持ち合わせている(しかし、挽回のチャンスはまんべんなく与えている)。捕手出身者として高校時代にプロも注目していた細山田武史の育成にも力を入れた。 2007年秋季リーグの早慶1回戦では、球審の判定を批判した上、報道陣の選手への取材も拒否した。これについては各大学野球部OBから批判が続出したが、謝罪文を提出したことで決着した。 2010年の第41回明治神宮野球大会大学の部で優勝を最後に監督を退任。後任には岡村猛が就任した。
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早大監督時代
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1950年度シーズンより早大監督に就任。以後5シーズン監督を務め、1950年、1952年、1953年の各年度において東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦に勝利し、『全国制覇』をもたらした。また、この第1期監督時代に優勝時に「荒ぶる」を歌唱する伝統が始まった。1962年には関東大学対抗戦Bブロック(二部に相当するブロック)に転落した早大の監督に再度就任。そして主将には、後に監督として早大にラグビー日本一をもたらすことになる木本建治が就いた。「大西・木本」体制で挑んだ同年度シーズン、夏合宿で選手らと開発した「カンペイ」のサインプレーを駆使して1シーズンでAブロック(一部に相当するブロック)復帰を決めたばかりか、同年度Aブロック覇者の明治に17-8で勝利するという「番狂わせ」を演じた。ちなみに、関東大学対抗戦のA・Bブロック制は1962年度シーズン限りで廃止となった。以後3シーズン監督を務め、1964年度シーズンに行われた第1回全国大学ラグビーフットボール選手権大会で準優勝した試合を最後に退任。
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