早大入学へ
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1966年(昭和41年)3月、必勝は早稲田大学教育学部国語国文学科の受験に合格した。兄・治が入学費用や生活費を出してくれ、上京した必勝は渋谷区西原町3丁目36の下宿住まいを始めた。代々木にはシナリオ専門学校に入学した同郷の友人・塩竹政之がいた。 大学内は全共闘が暴れていたため、5月に延期となった入学式に、必勝は羽織袴に高下駄という応援団長のような姿で出席し、入学記念のアンケートに好きな言葉として、〈我事に於て悔いず〉と答えた。 空手部に入部した森田は、年長者だったこともあり、クラス委員に選出された。この頃、学内で暴れ続ける左翼に対する憎しみが増し、〈授業を受けたい学生がたくさん居るのに、共闘会議は何の権利があってバリケードを築けるのだろう? ヤツラの方法が僭越に思えてならない。力ずくでもバリケードを除く勇気ある学生はいないのか? 早稲田精神は死んだのか!〉と憤懣を記した。 5月に必勝は、革マル(反日共系)、民青(日共系)ら左翼が壟断するクラス委員総会の席で、民族派右翼青年の斉藤英俊と出会った。喫茶店「ジュリアン」(大学院生・矢野潤が経営)で2歳年上の斉藤からいろいろ話を聞いた必勝は、〈いい先輩と知り合えて、今日は一日中爽快だ〉と記した。 きのうクラス委員会で、早稲田精神丸出しの勇敢な先輩と知り合った。総会で、革マルの一方的な議事進行と、独善的な議事内容に怒って革マルのヤツらに単身、喰ってかかっていた。(中略) 左翼に対決して学園正常化のために奮闘しているグループがあることを初めて知る。それでこそワセダ精神だ! — 森田必勝「昭和41年5月某日」 同年11月、必勝はキャンパスで再会した斉藤に誘われ、左翼に牛耳られた早稲田の正常化を目指す民族派学生組織「日本学生同盟」(日学同)の結成(11月14日)に参加することになった。この同盟参加に、〈俺の血が騒ぎ出した〉必勝は、「本部」と呼ばれる日学同事務所のある新宿区早稲田町36番地の二階建ての家に引っ越すことになった。 日学同には宮崎正弘、持丸博、阿部勉、伊藤好雄も参加し、全国39大学72サークルも集結していた。この頃、彼らは機関紙『日本学生新聞』の創刊に向けて準備していた。必勝も夕方に毎日新聞発送のアルバイトをして生活費を稼ぎながら、『古事記』『日本書紀』を読み、建国記念日の由来を学んでいた。 日文研(日本文化研究会)でも早稲田祭で「紀元節考」の展示をやったが、ぼくらも少しは民族の正気回復のために役立ったのだろう。(中略)しばし「古事記」や「日本書紀」の由来や日本人の祖先について討論。先輩達の博識におどろいた。考えてみれば、ぼくらの高校の歴史教科書は、民族のロマンなんかぜんぜん教えてくれなかった。日教組が悪いことにして先輩達に質問集中。 — 森田必勝「昭和42年1月某日」 一方、1967年(昭和42年)1月5日、豊島区にある育誠社という出版社から民族派月刊誌『論争ジャーナル』(編集長は中辻和彦、副編集長は万代潔)が発刊された。中辻と万代は3日に1度の割で作家・三島由紀夫を訪問していた。 同じ平泉澄門人の中辻と付き合いのある持丸博も同じ頃に三島を訪問し、2月に創刊する『日本学生新聞』に寄稿を依頼した。三島は同年4月12日から5月27日まで単身で自衛隊体験入隊し、民兵組織「祖国防衛隊」構想を固めていた(詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。
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