早大YMCAへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:06 UTC 版)
日本YMCA同盟は早稲田大学基督教青年会にこの建物の使用を打診し、バプテスト教会の宣教師H・B・ベニンホフは友愛学舎の入舎者から運営を志願する者を募った。ベニンホフは1907年に来日して、早稲田の学生を相手に聖書や英会話を教えていた。友愛学舎は大隈重信の依頼でベニンホフが1908年(明治41年)に始めた寄宿舎である。ベニンホフの呼びかけに対し、1914年(大正3年)から友愛学舎に住んでいた小出正吾が応じ、同じクラスの沖中恒幸とともに戸塚の建物に移り住んで、寄宿舎として運営することになった。 1916年(大正5年)9月、寄宿舎の開舎式が行われた。新寄宿舎は『コリントの信徒への手紙一』13:13から取り、「信愛学舎」と名付けられた。最初の舎監は東北学院出身の角田桂嶽が務めた。開舎式では友愛学舎から鐘が贈られ、食堂の入口に取り付けられた。建物は木造4階建てで、「緑の家」と呼ばれた。 開舎直後の建物は手入れされておらず、1919年(大正8年)に寄宿生が花を売って資金を稼ぎ、まずペンキを塗り直した。さらなる資金稼ぎとして大隈重信から庭園を借りて園遊会を催し、10000人を集めた。 1923年(大正12年)の関東大震災では大きな被害がなかった。当時信愛学舎に住んでいた三好十郎は、震災翌年の信愛記念祭で自作の上演を行った。この年三好はYMCAの雑誌『開拓者』にも作品を発表している。
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