信愛学舎とは? わかりやすく解説

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信愛学舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:06 UTC 版)

座標: 北緯35度42分31.7秒 東経139度42分55.2秒 / 北緯35.708806度 東経139.715333度 / 35.708806; 139.715333 信愛学舎(しんあいがくしゃ)は、公益財団法人早稲田大学YMCAが運営する学生自治寮である。早稲田大学に限らず、都内の大学に通う大学生が住んでいる。10の学生YMCA学生寮のうちの一つであり、山手学舎友愛学舎などは兄弟寮である[1]


  1. ^ 孫文蔣介石がいた、とされることもあるが[4]、孫文は早稲田鶴巻町、蔣介石は大久保村大字東大久保に住んでいたとされ[5]、李大釗の居所とは異なる。
  2. ^ 建物が使用されなくなった理由として、開設時の入舎者であった小出正吾辛亥革命(1911年-1912年)で学生が全員帰国したためとしている[7]。これは李大釗の留学時期とつじつまが合わず、冨田昇は「明らかに氏の記憶違い」として、小出の証言を否定している[8]丸山松幸は冨田を引いて会館の経緯を説明する際、1916年に中国人留学生が一斉帰国、と言い換えている[9]。小出とは逆に「辛亥革命の時に日本にいた中国人が何人か暮していました」と回想する信愛学舎住人の証言もある[10]。中国人が住み荒らすために経営が成り立たなかった、と全く異なる理由を挙げる証言もある[11]
  3. ^ 小出は開舎式以前から角田が寄宿舎に住み込んでいたかのように書き、信愛学舎という名称も角田の提案である「ような気がする」と述べている。一方『早稲田大学基督教青年会百年側面史』の年表は角田の着任を開舎翌年の1917年(大正6年)としている[14]。初代舎監は帆足理一郎であるとする文献もあり[15]、1917年4月の入舎者も帆足を舎監に迎える以前は「少人数で塾みたいなもの」だったとしている[16]
  4. ^ 小出正吾は3階建てで、その上にさらに屋根裏部屋があったとしている[7]。また開舎11周年記念行事を伝える記事でも「三階建」とされている[17]。中国人学生が住んでいた時代の記述として、木造2階建ての西洋館だった、とする文献もある[18][2]
  5. ^ 小出によれば、運営資金はベニンホフが同盟に出してもらっていたという[7]
  1. ^ 早稲田大学YMCA公式サイト 2019年12月4日
  2. ^ a b 日本YMCA同盟資料室編『日本YMCA運動史資料集』第三集、日本YMCA同盟、1984年、111-112ページ。
  3. ^ a b 橋本誠「早大YMCA寮「信愛学舎」自由と奉仕の1世紀 「全会一致」がルール/被災地支援の伝統」『東京新聞』2017年10月30日付朝刊22面。
  4. ^ a b 岩波 1986, p. 2.
  5. ^ 王永祥・高橋強(編著)『周恩来と日本 苦悩から飛翔への青春』周恩来・鄧穎超研究会訳、白帝社、2002年、199-200ページ。ISBN 4-89174-614-9
  6. ^ 「新宿区戸塚1-520所在298.2坪の土地についてのメモ(植松メモ) 昭38.7.5」『早稲田大学基督教青年会百年側面史』増補再版、岩波哲男編、早大キリスト教青年会側面史刊行会、2007年、201ページ。
  7. ^ a b c d e f g 小出正吾「友愛から信愛へ――信愛学舎開設事情――」『追想 向谷容堂―恩師ベニンホフ先生を偲びつつ―』布施濤雄・小倉和三郎編、向谷容堂先生記念文集刊行発起人会、1969年、138-141ページ。
  8. ^ 冨田昇「李大釗 日本留学時代の事跡と背景――留学生として――」『集刊東洋学』第42号、中国文史哲研究会、55ページ。
  9. ^ 丸山松幸「李大釗伝記資料覚書(一)」『人文科学科紀要』第71輯、東京大学出版会、1980年、44ページ。
  10. ^ 松本 1981, p. 158.
  11. ^ 岩波 1986, p. 15.
  12. ^ 松本 1981, p. 152.
  13. ^ 中西裕「116 早稲田奉仕園」『エピソード早稲田大学125話』奥島孝康・木村時夫監修、エピソード早稲田大学編集委員会編、早稲田大学出版部、1990年、227-228ページ。ISBN 4-657-90321-7
  14. ^ 岩波 1986, p. 333.
  15. ^ a b 奈良常五郎『日本YMCA史』日本YMCA同盟、1959年、178ページ。
  16. ^ 岩波 1986, p. 3.
  17. ^ a b 「信愛學舎第十一周年紀年祭」『開拓者』第22巻第11号、1927年11月、37ページ。
  18. ^ 『下戸塚―我が町の詩―』下戸塚研究会、1976年、89ページ。
  19. ^ 岩波 1986, pp. 5–6.
  20. ^ 岩波 1986, pp. 6–8, 334.
  21. ^ 岩波 1986, p. 17.
  22. ^ 西村博子「一九二三年の演劇青年たち」『実存への旅立ち――三好十郎のドラマトゥルギー――』而立書房、1989年、260ページ。ISBN 4-88059-130-0
  23. ^ 三好まり「若き日の父の作品にめぐりあいて」『早稲田大学坪内博士記念演劇博物館』第47号、1982年4月、9ページ。
  24. ^ 岩波 1986, p. 255.
  25. ^ 岩波 1986, p. 260.
  26. ^ 岩波 1986, pp. 267–269.
  27. ^ 岩波 1986, pp. 269–273.
  28. ^ 岩波 1986, p. 288.
  29. ^ 岩波 1986, p. 294.
  30. ^ 岩波 1986, pp. 295–297.
  31. ^ 岩波 1986, pp. 298–301.
  32. ^ 岩波 1986, p. 301.


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