「祖国防衛隊」構想
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6月19日、六本木の喫茶店「ヴィクトリア」で、早稲田大学国防部の代表幹部と三島の会見が行われ、森田必勝(早大教育学部、日学同)と三島は初めて顔を合わせた。この会合で早大国防部の自衛隊体験入隊の日程と場所が決まった。 同年7月2日から1週間、早大国防部の森田必勝、阿部勉(早大法学部)、伊藤好雄(早大政経学部)、宮崎正弘(早大教育学部)、斉藤英俊(早大教育学部)、山本之聞(早大政経学部)、松村久義、持丸博ら13名が北海道の自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊を行なった。 6月から後楽園の日本空手協会道場に入門した三島は、7月から中山正敏の師事のもと空手の稽古を始めた。8月には国土防衛隊中核体となる青年を養成する具体的計画を固め、9月9日に、陸上自衛隊の重松恵三と面談した。 三島は、間接侵略の過程において基幹産業の侵蝕と破壊が企てられるであろうことを危惧し、国土防衛の重要な一環である電源防衛、企業防衛の自覚を促すため、民族資本の協力を仰ぎながら民兵組織の中核体将校となる100人を養成するため、春と夏の年2回、学生を自衛隊に体験入隊させる計画をした イギリス、スウェーデン、ノルウェー、スイス、フランス、中国の民兵制度の長所と短所を調べた上で、日本の実状に照らし合わせて比較検討した総勢1万人規模の民兵組織を三島は構想した。 ヨーロッパ諸国の軍事制度を研究した者は、むしろ戦前の日本の国軍一本化がむしろ異例であることを知つてゐます。正規軍以外の各種の軍隊の並立のうちに発達してきたヨーロッパ軍事制度の歴史に鑑み、日本の戦前の軍事制度に関する常識を、戦後の平和憲法下の特殊事情を考慮して、一ぺん徹底的に考へ直し、真に有効な現代的方途を発見してゆかなければなりません。現に戦時中も、総力戦体制と称しながら、軍の権力構造を保持するために、知識人や行政上経営上の指導者をも一兵卒として召集し、無理な一本化を急いだ弊害のみを助長させた教訓は近きにあり、むしろ、戦争末期は市民軍の養成を別途に推進すべきであつたのであります。 — 三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」 11月、三島は論争ジャーナルのメンバーと共に民兵組織「祖国防衛隊」(Japan National Guard)の試案を討議し、「祖国防衛隊」構想パンフレットを作成し始めた。12月5日、三島は航空自衛隊百里基地からF-104戦闘機に試乗した。 出来上がった「祖国防衛隊」構想パンフレットを、元上司の藤原岩市から見せられた陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝1佐が興味を示した。12月末に、藤原の仲介で山本1佐と三島と会食し、「祖国防衛隊」構想に弾みがついていった。三島は山本1佐と会ってひどく興奮し、「あの人は都市ゲリラの専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえも一緒に会おう」と持丸博に言ったという。 この頃、「祖国防衛隊」構想に全面的に賛同する論争ジャーナル組と、その「急進主義的色彩」と三島私兵的なイメージに難色を示す日学同(斉藤英俊、宮崎正弘ら)との間に亀裂が生じ始め、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉らが日学同を除籍となって、論争ジャーナル組に完全に合流した。持丸は三島と共に、雑誌『論争ジャーナル』の副編集長となった。 持丸、伊藤、阿部らは、日学同と近しい「日本文化研究会」(日文研)という会にも属していた。この会は以前、「日出会」と名乗り、「日文研」の後は「政治・思想研究会」という名称を経て、9月に新たに「尚史会」として発足させた。「尚史会」には早大政経学部を中心に、勝又武校、金森俊之、金子弘道、倉持清、小杉伸市郎、下山芳行、福田俊作、佐原文東、藤井雅紹、椎木理、仲山徳隆(東京外語大学)などがいた。
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