三島由紀夫との出会いとは? わかりやすく解説

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三島由紀夫との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 02:31 UTC 版)

森田必勝」の記事における「三島由紀夫との出会い」の解説

1967年昭和42年2月7日創刊された『日本学生新聞』に三島由紀夫寄稿文本当青年の声を」が掲載され、「明晰な言葉明澄日本語自分の手にしつかりつかんだ思想だけを語つてほしい」と激励した3月春休み帰省した際、伊勢神宮参拝した必勝は、そこに掲げられ日の丸見て、〈あの素晴らし白地赤の日の丸、幾何学的にも、世界一美しい旗を、心ある一部の人をのぞいて多く日本人はなぜ無関心でいるのでしょう? もっと、美しいものは美しい、良いものは良いと、何故、人々素直に受け入れないだろう〉と疑問抱いた同年4月必勝斉藤英俊と、防衛問題研究する早大国防部」を結成した日学同運動にますます挺身し左翼正門前に立てた看板叩き壊したりした空手部の必勝は、武闘備えて日学同本部置かれていたベンチプレス身体鍛えていた。 この頃三島民兵防衛隊構想練っていることが日学同伝わり必勝は、「世界的に著名な作家私兵軍団作るなんてヘミングウェイみたいだね」と言ったという。三島とまだ面識のない必勝は、〈あのキザな三島さんが、それをやるというのは何かチグハグ感じだ〉とも思った日学同運動のため、ビラ作りビラまき演説オルグ明け暮れる毎日を送る必勝は、先輩から教えられた「俺の恋人誰か思ふ 神のつくりた日本国」という徳富蘇峰の歌を気に入り愛吟するようになった同年6月19日六本木喫茶店ヴィクトリア」で行われた三島早大国防部代表との会見で、必勝初め三島と顔を会わせた自衛隊体験入隊希望していた早大国防部は、その日程と駐屯地先を三島懇談し決めた。すでに論争ジャーナル組も体験入隊希望し三島日学同論争ジャーナル組の三者関係が徐々に出来上がったその3日後、必勝専修大学スト左翼話し合った時のことを、〈小さなことで言い合い、全くくだらない〉と唾棄し、〈日本人とは何か、いったいいかなるときでも、最上の死に方出来るのが、日本人なのか〉と記した7月2日から1週間必勝早大国防部13名が自衛隊北恵庭駐屯地体験入隊し戦車にも試乗した必勝は、〈それにしても自衛官の中で、大型免許をとるためだとか、転職有利だとか言っている連中サラリーマン化現象は何とかならないのか〉と綴り自衛隊員が〈憲法について多く語りたがらない〉こと、〈(もし万一共産党内閣合法的に成立して自衛隊共産党政府従属させられるという)国家危殆にすら、クーデター起こす意志明らかにした隊員居ないのは残念だった〉ことを挙げた10月反日共系全学連起こした羽田事件で、中核派京都大学生の死者1人出た必勝はこの日、〈全学連暴れる。一人頭蓋骨骨折で死ぬ。当然のこと責任ある行為をしようと思えば、死ぬことも悔いず日頃から思っている俺にとって、彼(山崎博昭)の行為美しいものだと思ったが、残念ながら彼の死は、彼等運転する車にひかれたのだから話にならない〉と記した11月1日の『日本学生新聞』に掲載され必勝署名の「日本政策めぐって」という論文では、〈日本以外のどの国をみても「国防」に対す態度が真剣なのである史上初の敗戦日本人感傷少女趣味堕してはしまいか。(中略中立非同盟政策をとる国々のほとんどが「武装中立」というのが世界の現状である。「非武装中立という考え方は、戦争放棄平和憲法をもつ日本生んだ「特殊で珍妙な構想」といえよう〉と日本の核武装論展開した11月3日必勝矢野潤、斉藤英俊宮崎正弘ほか4人と共に明治神宮参拝し日学同同盟旗の入魂式を行ない11月11日千駄ヶ谷野口英世記念館日学同結成一周年大会開催した大会には500人近学生参加した一方同年12月三島陸上自衛隊調査学校情報教育課長山本舜勝知り合い「祖国防衛隊」構想弾みがついていった。しかしこの頃、この構想全面的に賛同する論争ジャーナル組と、その「急進主義色彩」に難色を示す日学同斉藤英俊宮崎正弘)との間に亀裂生じ出し持丸博伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉らが日学同除籍となって論争ジャーナル組に完全に合流したその時点では、必勝はまだ日学同留まり、翌1968年昭和43年1月佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争現地行った矢野宮崎深夜まで人生論を交わすこともあった。 織田信長が、家来たちの反対押し切って桶狭間の戦い出かけるときの孤独――男として人生最大クライマックスであったろう。俺の人生にも信長のような緊張し凝縮された生の瞬間訪れだろうか吉田松陰決死覚悟米国船へ密航したときの心境、……明治維新志士たちの心意気日本侵略から救ったのだ!(中略土方幕府方だが、男として、たえず権力反発し最後まで新政府叛旗ひるがえした挑戦態度がいい。 — 森田必勝昭和43年2月某日この頃日学同本部立ち退きのため、新宿区戸塚町1丁目194番地移転となり、マンション早稲田ハウス3階引っ越した必勝はこの「早稲田ハウス」や、持丸博下宿寝泊まりし自分下宿持たない日々送っていた。 1968年昭和43年3月1日から1か月持丸博学生長とする論争ジャーナル組が、三島陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地自衛隊体験入隊することになった直前ハプニングで5人が参加できなくなり持丸日学同矢野潤に代員応援求めたこの期間に三島との絆を強めるのと同時に日学同との誤解解きたい持丸のその要請に応じて必勝1週間遅れで入隊した必勝は、春休み帰省中に鈴鹿スキー場右足骨折して治療中だったが、駐屯地到着翌日真夜中3時非常呼集訓練御殿場駅まで坂道往復6キロ走)に、足を引きずりながら懸命に頑張った。そんな必勝の姿に三島感心し注目した三島先生は、ぼくが遅れていった日に骨折した足をみて、そのファイトに感心された。それにお互い短髪だし、すぐ意気投合オーバーかな?)した。一番印象的なのは下旬三十キロ行軍だ。指揮動作教官動作などの日頃訓練集大成ともいうべきもので、朝七時から、夕方五時ごろまで富士のすそ野を回った一ヵ月も生活を共にした隊員別れるとき、バス出てしばらくは皆、黙って泣いていた。あれこそ男の涙というものだ。 — 森田必勝昭和43年4月6日体験入隊終了後主任教官隊員たちと〈男の涙〉を分かち合い感動した必勝学生一行は、貸し切りバス大田区南馬込三島邸に向い慰労会中華料理ビール夕食招かれた。 必勝その時礼状に、「先生のためには、いつでも自分命を捨てます」と速達書き送った。それに対し三島は、「どんな美辞麗句ならべた礼状よりも、あのひとことには参った」と必勝告げたという。

※この「三島由紀夫との出会い」の解説は、「森田必勝」の解説の一部です。
「三島由紀夫との出会い」を含む「森田必勝」の記事については、「森田必勝」の概要を参照ください。

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