三島由紀夫との出会い
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1967年(昭和42年)2月7日に創刊された『日本学生新聞』に三島由紀夫の寄稿文「本当の青年の声を」が掲載され、「明晰な言葉で明澄な日本語で自分の手にしつかりつかんだ思想だけを語つてほしい」と激励した。 3月の春休みに帰省した際、伊勢神宮に参拝した必勝は、そこに掲げられた日の丸を見て、〈あの素晴らしい白地に赤の日の丸、幾何学的にも、世界一美しい旗を、心ある一部の人をのぞいて、多くの日本人はなぜ無関心でいるのでしょう? もっと、美しいものは美しい、良いものは良いと、何故、人々は素直に受け入れないだろう〉と疑問を抱いた。 同年4月、必勝は斉藤英俊と、防衛問題を研究する「早大国防部」を結成した。日学同の運動にますます挺身し、左翼が正門前に立てた看板を叩き壊したりした空手部の必勝は、武闘に備えて日学同本部に置かれていたベンチプレスで身体を鍛えていた。 この頃、三島が民兵の防衛隊構想を練っていることが日学同に伝わり、必勝は、「世界的に著名な作家が私兵軍団を作るなんてヘミングウェイみたいだね」と言ったという。三島とまだ面識のない必勝は、〈あのキザな三島さんが、それをやるというのは何かチグハグな感じだ〉とも思った。 日学同の運動のため、ビラ作りやビラまき、演説、オルグに明け暮れる毎日を送る必勝は、先輩から教えられた「俺の恋人、誰かと思ふ 神のつくりた日本国」という徳富蘇峰の歌を気に入り、愛吟するようになった。 同年6月19日、六本木の喫茶店「ヴィクトリア」で行われた三島と早大国防部代表との会見で、必勝は初めて三島と顔を会わせた。自衛隊体験入隊を希望していた早大国防部は、その日程と駐屯地先を三島と懇談して決めた。すでに論争ジャーナル組も体験入隊を希望し、三島、日学同、論争ジャーナル組の三者関係が徐々に出来上がった。 その3日後、必勝は専修大学のストで左翼と話し合った時のことを、〈小さなことで言い合い、全くくだらない〉と唾棄し、〈日本人とは何か、いったいいかなるときでも、最上の死に方が出来るのが、日本人なのか〉と記した。 7月2日から1週間、必勝ら早大国防部13名が自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊し、戦車にも試乗した。必勝は、〈それにしても自衛官の中で、大型免許をとるためだとか、転職が有利だとか言っている連中のサラリーマン化現象は何とかならないのか〉と綴り、自衛隊員が〈憲法について多くを語りたがらない〉こと、〈(もし万一、共産党内閣が合法的に成立して自衛隊が共産党政府に従属させられるという)国家の危殆にすら、クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった〉ことを挙げた。 10月、反日共系全学連が起こした羽田事件で、中核派の京都大学生の死者が1人出た。必勝はこの日、〈全学連暴れる。一人頭蓋骨骨折で死ぬ。当然のこと、責任ある行為をしようと思えば、死ぬことも悔いずと日頃から思っている俺にとって、彼(山崎博昭)の行為も美しいものだと思ったが、残念ながら彼の死は、彼等の運転する車にひかれたのだから話にならない〉と記した。 11月1日の『日本学生新聞』に掲載された必勝の署名の「日本の核政策をめぐって」という論文では、〈日本以外のどの国をみても「国防」に対する態度が真剣なのである。史上初の敗戦で日本人の感傷は少女趣味に堕していはしまいか。(中略)中立・非同盟政策をとる国々のほとんどが「武装中立」というのが世界の現状である。「非武装中立という考え方は、戦争放棄の平和憲法をもつ日本の生んだ「特殊で珍妙な構想」といえよう〉と日本の核武装論を展開した。 11月3日、必勝は矢野潤、斉藤英俊、宮崎正弘ほか4人と共に明治神宮に参拝し、日学同の同盟旗の入魂式を行ない、11月11日に千駄ヶ谷の野口英世記念館で日学同結成一周年大会を開催した。大会には500人近い学生が参加した。 一方、同年12月、三島は陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝と知り合い、「祖国防衛隊」構想に弾みがついていった。しかしこの頃、この構想に全面的に賛同する論争ジャーナル組と、その「急進主義的色彩」に難色を示す日学同(斉藤英俊、宮崎正弘)との間に亀裂が生じ出し、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉らが日学同を除籍となって、論争ジャーナル組に完全に合流した。 その時点では、必勝はまだ日学同に留まり、翌1968年(昭和43年)1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争の現地に行った矢野や宮崎と深夜まで人生論を交わすこともあった。 織田信長が、家来たちの反対を押し切って桶狭間の戦いへ出かけるときの孤独――男として人生最大のクライマックスであったろう。俺の人生にも信長のような、緊張し、凝縮された生の瞬間が訪れるだろうか?吉田松陰が決死の覚悟で米国船へ密航したときの心境、……明治維新の志士たちの心意気が日本を侵略から救ったのだ!(中略)土方は幕府方だが、男として、たえず権力に反発し、最後まで新政府に叛旗をひるがえした挑戦の態度がいい。 — 森田必勝「昭和43年2月某日」 この頃、日学同の本部が立ち退きのため、新宿区戸塚町1丁目194番地に移転となり、マンション「早稲田ハウス」3階に引っ越した。必勝はこの「早稲田ハウス」や、持丸博の下宿に寝泊まりし、自分の下宿を持たない日々を送っていた。 1968年(昭和43年)3月1日から1か月、持丸博を学生長とする論争ジャーナル組が、三島と陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地へ自衛隊体験入隊することになった。直前のハプニングで5人が参加できなくなり、持丸は日学同の矢野潤に代員の応援を求めた。この期間に三島との絆を強めるのと同時に日学同との誤解も解きたい持丸のその要請に応じて、必勝が1週間遅れで入隊した。 必勝は、春休み帰省中に鈴鹿スキー場で右足を骨折して治療中だったが、駐屯地到着翌日の真夜中3時の非常呼集訓練(御殿場駅まで坂道を往復6キロ走)に、足を引きずりながら懸命に頑張った。そんな必勝の姿に三島は感心し注目した。 三島先生は、ぼくが遅れていった日に骨折した足をみて、そのファイトに感心された。それにお互い短髪だし、すぐ意気投合(オーバーかな?)した。一番印象的なのは下旬の三十五キロ行軍だ。指揮動作、教官動作などの日頃の訓練の集大成ともいうべきもので、朝七時から、夕方五時ごろまで富士のすそ野を回った。一ヵ月も生活を共にした隊員と別れるとき、バスが出てしばらくは皆、黙って泣いていた。あれこそ男の涙というものだ。 — 森田必勝「昭和43年4月6日」 体験入隊終了後、主任教官や隊員たちと〈男の涙〉を分かち合い、感動した必勝ら学生一行は、貸し切りバスで大田区南馬込の三島邸に向い、慰労会で中華料理とビールの夕食に招かれた。 必勝はその時の礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と速達で書き送った。それに対し三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひとことには参った」と必勝に告げたという。
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