三島由紀夫との関係
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1940年(昭和15年)暮、『輔仁会雑誌』に載った三島由紀夫の短篇『彩絵硝子』(だみえガラス)について感想を手紙で書き送ったことから、三島との交友が始まる。三島の筆名「由紀夫」は、文彦の作品「幼い詩人」の登場人物の悠紀子から取ったという説もある。1942年(昭和17年)7月1日、徳川義恭および三島と共に同人誌「赤絵」を創刊。1943年(昭和18年)に「赤絵」第2号を発行する。 「三島は貴族に憧れていた」というような思いこみが広がっているが、それが根拠のないことであるということはドナルド・キーンも証言し、杉山欣也(『三島由紀夫の誕生』翰林書房、2008年2月)が論証した。文彦が、貴族ではない自分にむしろ「草莽の臣」としての誇りを持っていたことは、十津川武士としては当然のことであり、小説「初霜」にも書かれている。三島が敬意を抱くのは、単なる血統ではなく、やはり人物について深く理解した上で判断した場合であると思われる。 晩年の三島が上梓に向けて力を注いだ『東文彦作品集』は、三島自決の4か月後、1971年(昭和46年)初頭に講談社から出版された。この作品集には、三島が1970年(昭和45年)10月25日付で、長い序文を寄せている。2007年(平成19年)4月に講談社文芸文庫で再刊された(現在は絶版)。 三島の『豊饒の海』第一巻・『春の雪』では、主人公・松枝清顕が「夢日記」を書いている。そのモデルとなったのが、1937年(昭和12年)3月、学習院文芸部『輔仁会雑誌』に掲載された東文彦の『夢』という作文ではないかと言われている。 さらに、『豊饒の海』第二巻・『奔馬』で、重要なモチーフとなる「神風連の乱」は、東文彦の外祖父・石光眞清が出身地の関係もあって、『豊饒の海』の構想には、東文彦との関わりが深く結びついていると考えられる。文彦が三島に及ぼした影響は大きく、『仮面の告白』の園子の母は、文彦の母がモデル、「獅子」の「アイゲウス少佐」は文彦がモデルとなっている。「やがて御楯と」、「大障碍」も文彦像が投影されて書かれたと思われる。
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