三島由紀夫との交流
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三島由紀夫と林の出会いは、1947年(昭和22年)6月27日「新夕刊」編集部であった。当初より三島は、林に好感を持ち、親交を続けた。林への書簡で、自身の文学論や高見順ら左翼的文壇人への憤慨などを吐露する。三島は同じ東京帝国大学法学部出身でもあった林を、常に尊敬し1963年(昭和38年)に『林房雄論』を書く。三島は、1966年(昭和41年)に対談『対話・日本人論』が実現したときには感激したという。1969年(昭和44年)に、対談『現代における右翼と左翼』を行っている。 だが『対話・日本人論』の時点で、天皇観を巡り、意見の相違がやや現れた。林が、「天皇にも人として過ちはある。(中略)天皇に逆賊と言われたら甘んじて刑死すべきです。恨んではいけない。」と、主張したのに対して三島は、「僕は天皇無謬説なんです。(中略)僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんです。(中略)天皇は現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいということです。」と語った。最終的には林も三島のその考え方に同意し、「革新のシンボルになります。これからも必ずなります」と賛同している。 三島は、自決寸前の1970年(昭和45年)9月には、徳岡孝夫に、「林さんはもうダメだ。右翼と左翼の両方からカネを貰っちゃった」と言い、失望の色を隠さなかったという。ただし、これについて徳岡孝夫は、回想記『五衰の人-三島由紀夫私記』において、三島は「楯の会」の活動で思い詰めていたが故に、林側の事情と行動を誤解したのではないかと推測している。 林は、1971年(昭和46年)1月24日に築地本願寺で行なわれた三島の本葬・告別式に際し、弔辞で、「満開の時を待つことなく自ら散った桜の花」、「日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております」と述べてその死を悼んだ。「憂国忌」の道筋をつけた。 晩年は、何冊か関連著作(三島事件の「追悼本」)の執筆・編纂・出版にあたり、月刊誌『浪曼』(1972年11月号-1975年2月号)発行にも参与、民族派の論客としても活動し続けた。闘病生活を送りつつ、皇統論や西郷隆盛語録などを執筆した。
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