三島由紀夫との交流とは? わかりやすく解説

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三島由紀夫との交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 16:11 UTC 版)

林房雄」の記事における「三島由紀夫との交流」の解説

三島由紀夫出会いは、1947年昭和22年6月27日新夕刊編集部であった当初より三島は、好感持ち親交続けたへの書簡で、自身文学論高見順左翼的文壇人への憤慨などを吐露する三島は同じ東京帝国大学法学部出身でもあったを、常に尊敬し1963年昭和38年)に『林房雄論』を書く。三島は、1966年昭和41年)に対談対話日本人論』が実現したときには感激したという。1969年昭和44年)に、対談現代における右翼左翼』を行っている。 だが『対話日本人論』の時点で、天皇観巡り意見の相違がやや現れた。が、「天皇にも人として過ちはある。(中略天皇逆賊と言われたら甘んじて刑死すべきです。恨んではいけない。」と、主張したに対して三島は、「僕は天皇無謬なんです。(中略)僕はどうしても天皇というのを、現状肯定シンボルにするのはいやなんです。(中略天皇現状肯定シンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新シンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ皇室イメージが強すぎるから、先鋭な革新象徴として天皇制というものを僕は言いたいということです。」と語った最終的に三島のその考え方同意し、「革新シンボルなりますこれからも必ずなります」と賛同している。 三島は、自決寸前1970年昭和45年9月には、徳岡孝夫に、「林さんはもうダメだ右翼左翼両方からカネを貰っちゃったと言い失望の色を隠さなかったという。ただし、これについて徳岡孝夫は、回想記五衰の人-三島由紀夫私記』において、三島は「楯の会」の活動思い詰めていたが故に側の事情行動誤解したではないか推測している。 は、1971年昭和46年1月24日築地本願寺行なわれ三島本葬告別式際し弔辞で、「満開時を待つことなく自ら散った桜の花」、「日本地すべりそのものくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております」と述べてその死を悼んだ。「憂国忌」の道筋をつけた。 晩年は、何冊か関連著作三島事件の「追悼本」)の執筆編纂出版にあたり月刊誌『浪曼』(1972年11月号-1975年2月号)発行にも参与民族派論客として活動し続けた闘病生活送りつつ、皇統論や西郷隆盛語録などを執筆した

※この「三島由紀夫との交流」の解説は、「林房雄」の解説の一部です。
「三島由紀夫との交流」を含む「林房雄」の記事については、「林房雄」の概要を参照ください。

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