三島由紀夫との関わり
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学習院高等科時代の教え子であった三島由紀夫は、松尾について次のように述懐している。 「 松尾先生には学習院で、国文法や万葉集などを教わった。実に散文的な講義で、やわらかい少年の感受性に訴えるものは一つもなく、少年の頭で考えると、全然不文学的な講義に思えた。その上、先生は点が辛く、皮肉屋でイジワルだった。そうかと云って、先生は人気がないというのではなかった。お茶坊主的教師に却って人気がなく、一部偏クツな学生は、ますます松尾先生の肩を持った。どういうわけか、先生の渾名をポンタと云った。この芸者みたいな渾名と、先生の学究的風格とは、全然合わないようでいて、どこか先生のとぼけた一面をあらわしているところが面白い。先生の逐条主義的な講義は、あとになってみると、いわゆる文学的感受性に訴える情緒的講義よりも、はるかに実になっているのがふしぎである。先生のは、古典を自分で読む力を鍛える講義だった。従ってスパルタ的で無味乾燥であるが、西欧の大学のラテン語やギリシア語の講義だって、入門の段階ではもっと無味乾燥であろうから、その段階で日本の古典が嫌いになる奴は嫌いになればいいのである。 」 —三島由紀夫「松尾先生のこと」(松尾聰『全釈源氏物語』付録2 1959年より) 松尾は、三島事件後の回想で三島を教えがいのある生徒だったと回想している(『随筆語典あいうえおなど』より)。 同じ教え子であった三谷信宛ての三島書簡集『級友三島由紀夫』(笠間書院、1986年)を刊行した際に序文を寄せたが、夫人の平岡瑤子に出版許可を拒絶されて、直ちに絶版となった。なお、両者没後の1999年冬に、中公文庫で再刊された(三谷も翌年7月に没した)。現行版は『決定版 三島由紀夫全集 第38巻 書簡集』(新潮社)に所収。 1944年(昭和19年)に発表された短編「朝倉」は、松尾による散佚物語「朝倉」についての研究論文を基に三島が執筆した小説である。
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