三島牛乳の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/13 01:25 UTC 版)
伊豆半島の乳業は、明治3年に修善寺の植田七郎が始めたとされる。明治21年に、仁田大八郎、丹那の川口秋平らが農馬の繁殖を目的とした伊豆産馬会社を設立し、搾乳業を開始。明治29年に会社を解散し、岩崎勝治郎らが設立した函陽社がこれを引継ぐも、需要が安定せず、明治34年に廃業。 大正6年に、三島市の東海加工品大場工場と森永製菓錦田工場がドライミルクの製造を始めたので、徐々に需要が安定してくるが、大正9年の(第一次世界大戦後の)戦後恐慌と大正12年の関東大震災で、大打撃を受ける。 そこで、仁田大八郎は乳価の値崩れ阻止のために、かねてから考えていた「伊豆畜産販売購買利用組合」を大正15年6月に設立し、組合長に選出された。大正15年12月15日には新たな販路である東京に牛乳を出荷した。尚、各地から集められた牛乳を大場の工場で殺菌冷却した後、大場駅から貨物で赤坂の工場まで運び瓶詰して、「三島牛乳」として販売していた。 ところが、組合は設立当初期待していた値崩れ阻止への効果はあったが、やはり需要が安定しなかったため、組合員の脱退が後を絶たなかった。そのために供給不足に陥り、米国企業のカーネーションミルクに身売り案が浮上、東洋製罐の高碕達之助に説得されて東洋製乳と定期契約を結んだ。しかし、三島の森永製菓の方が買取が高かったので、やはり組合員の脱退が相次ぎ、組合の生産量が激減。東洋製乳との債務不履行を起こし昭和14年に森永製菓に組合を身売りして、「伊豆畜産販売購買利用組合」と「三島牛乳」は消滅した。
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