三島由紀夫との出逢いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 三島由紀夫との出逢いの意味・解説 

三島由紀夫との出逢い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:45 UTC 版)

蓮田善明」の記事における「三島由紀夫との出逢い」の解説

1941年昭和16年1月阿蘇垂玉温泉山口旅館滞在し小説有心(今ものがたり)」を執筆した同月に『預言回想』を刊行2月成城高等学校で再び教鞭をとることになった蓮田単身上京し4月に「鴨長明1回目を『文藝文化』に発表した6月創作活動利便を図るため、家族連れて東京市世田谷区宇奈根824に居を定め9月に「森鴎外」を『文藝世紀』に発表した蓮田は、「狭い借屋住いの中で子供はうるさいから早く寝せろ」(夫人談話)と、叱りながらも勉学励んでいた。長男の晶一が風邪夜中に熱を出し、妻が医者呼んで来てほしいと頼んでも、それほど病気でないと判断すると、夜道物騒だからと、そのまま寸暇を惜しむように原稿書き続けた同年夏、『文藝文化同人伊豆市修善寺温泉での編集会議で、清水文雄から学習院中等科生徒平岡公威作品花ざかりの森」を見せられ同人らと「天才」の出現祝った。「三島由紀夫」という筆名付けられ当時16歳少年の「花ざかりの森第1回掲載した文藝文化9月号の編集後記の中で蓮田は、〈この年少の作者は、併し悠久日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である〉と紹介して激賞した蓮田その後、この作品出版の手筈にも尽力した同年12月8日に、日本軍アメリカ・イギリスとの全面戦争突入し大東亜戦争太平洋戦争)が始まった蓮田は『文藝文化』や『文藝世紀以外の雑誌新潮』『文學』『現代』『公論』『国文解釈鑑賞』などにも執筆活動広げていた。1942年昭和17年6月18日蓮田日比谷公会堂開かれた日本文学報国会発会式で、「古典精神による皇国文学理念確立」という記念講演行なった蓮田精力的な執筆活動見せその後本居宣長』『鴨長明』『神韻文学』『古事記学抄』『忠誠心とみやび』『花のひもとき』などを刊行していく。 1943年昭和18年4月山本五十六戦死し成城高等学校の朝の集会校長哀悼挨拶述べ黙祷をしている最中遅れて来た何人かの生徒ゾロゾロ入ってきて、静粛雰囲気乱した時には、他の教員学生部長の誰も叱らないのを見かねた蓮田が、「今日何だと思っているか」と彼らの頬をピシャっと叩いた。それを見ていた池田勉は、非常に爽やかな対処仕方だったと回想している。

※この「三島由紀夫との出逢い」の解説は、「蓮田善明」の解説の一部です。
「三島由紀夫との出逢い」を含む「蓮田善明」の記事については、「蓮田善明」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三島由紀夫との出逢い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三島由紀夫との出逢い」の関連用語

三島由紀夫との出逢いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三島由紀夫との出逢いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの蓮田善明 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS