三島由紀夫との出逢い
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1941年(昭和16年)1月、阿蘇垂玉温泉の山口旅館に滞在し、小説「有心(今ものがたり)」を執筆した。同月に『預言と回想』を刊行。2月に成城高等学校で再び教鞭をとることになった蓮田は単身で上京し、4月に「鴨長明」1回目を『文藝文化』に発表した。6月、創作活動の利便を図るため、家族を連れて東京市世田谷区宇奈根824に居を定め、9月に「森鴎外」を『文藝世紀』に発表した。蓮田は、「狭い借屋住いの中で子供はうるさいから早く寝せろ」(夫人の談話)と、叱りながらも勉学に励んでいた。長男の晶一が風邪で夜中に熱を出し、妻が医者を呼んで来てほしいと頼んでも、それほどの病気でないと判断すると、夜道は物騒だからと、そのまま寸暇を惜しむように原稿書きを続けた。 同年夏、『文藝文化』同人の伊豆市修善寺温泉での編集会議で、清水文雄から学習院中等科の生徒・平岡公威の作品「花ざかりの森」を見せられ、同人らと「天才」の出現を祝った。「三島由紀夫」という筆名を付けられた当時16歳の少年の「花ざかりの森」第1回を掲載した『文藝文化』9月号の編集後記の中で蓮田は、〈この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である〉と紹介して激賞した。蓮田はその後、この作品の出版の手筈にも尽力した。 同年12月8日に、日本軍はアメリカ・イギリスとの全面戦争に突入し、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった。蓮田は『文藝文化』や『文藝世紀』以外の雑誌『新潮』『文學』『現代』『公論』『国文解釈と鑑賞』などにも執筆活動を広げていた。1942年(昭和17年)6月18日、蓮田は日比谷公会堂で開かれた日本文学報国会の発会式で、「古典の精神による皇国文学理念の確立」という記念講演を行なった。蓮田は精力的な執筆活動を見せ、その後『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事記学抄』『忠誠心とみやび』『花のひもとき』などを刊行していく。 1943年(昭和18年)4月、山本五十六が戦死し、成城高等学校の朝の集会で校長が哀悼の挨拶を述べ黙祷をしている最中、遅れて来た何人かの生徒がゾロゾロと入ってきて、静粛な雰囲気を乱した時には、他の教員や学生部長の誰も叱らないのを見かねた蓮田が、「今日は何だと思っているか」と彼らの頬をピシャっと叩いた。それを見ていた池田勉は、非常に爽やかな対処の仕方だったと回想している。
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