三島由紀夫と蕗谷虹児
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 06:41 UTC 版)
「岬にての物語」の記事における「三島由紀夫と蕗谷虹児」の解説
『岬にての物語』は、三島の死の2年前の1968年(昭和43年)に、豪華限定版として再刊行されたが、その際の装幀として、出版社の川島勝は初山滋の「抽象的な色感あふれる絵」を頭の中に描いていたが、三島は、装幀を蕗谷虹児にしたいと要望した。高畠華宵や加藤まさを風な少女像も魅力だが、蕗谷虹児の「様式美」の方が『岬にての物語』にふさわしいというのが三島の意見だったという。 三島の名指しの依頼に蕗谷虹児は喜び、その蕗谷邸訪問の時にもらった色紙から、初めて蕗谷虹児が『花嫁人形』を作詞したと知った川島勝は、三島がそれを知っていて、あえてこの画家を選んだのだろうかと思い、三島がこの装幀に蕗谷虹児の少女像を選んだことに、「妹(美津子)の死と失恋(三谷信の妹・邦子)と三島自身の青春への訣別が色濃く反映されていた」としている 。 三島は蕗谷虹児について、その作品を〈幼ないころから親しんで来たもの〉とし、限定版『岬にての物語』の装幀画を以下のように語っている。 殊に口絵の百合の花束の少女像は、今や老境にをられるこの画家が、心の中深く秘めた美の幻を具現してあますところがない。その少女のもつはかない美しさ、憂愁、時代遅れの気品、うつろひやすい清純、そしてどこかに漂ふかすかな「この世への拒絶」、「人間への拒絶」ほど、「岬にての物語」の女性像としてふさはしいものはないばかりでなく、おそらく蕗谷氏の遠い少年の日の原体験に基づいてゐるにちがひないこの美のわがままな映像が、あたかも一人の画家が生涯忘れることのなかつた清らかさの記念として、私に深い感動を与へたのである。 — 三島由紀夫「蕗谷虹児氏の少女像」
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