早大童話会の創立と初期とは? わかりやすく解説

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早大童話会の創立と初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:06 UTC 版)

早大童話会」の記事における「早大童話会の創立と初期」の解説

1925年創立創立理由は、関東大震災被災者震災小屋(今で言う仮設住宅)に住む児童慰問行った早大生が「児童文化サークル学内に無い」と考えたため。当時童話界の三羽烏」と呼ばれた小川未明坪田譲治浜田広介三人顧問となった当初微妙に違う名の団体だったが、翌年児童劇部・童謡部・童話部が各分割され正式に早大童話会となる。 当時部室は、学生会館地下室である19号室。寺村輝夫はここで英会話サークルの場所を聞いた事が、古田足日砂田弘斜め向かい部室があった現代文学研究会入っていたことが、童話会に入るきっかけだった。 会誌1935年から『童苑』を発行1938年より刊行形態仕切りなおして号数一号から振りなおす。翌年から新聞形式1-2ヶ月一回発行の『童話界』も加わった戦争中学徒動員号を出した後、物資不足で発行中断1949年に『童話界』が再開したが、翌年再開した『童苑』に統合され発展的解消。同誌には合評会を経て幹事会で選ばれた優秀作しか掲載されず、後にプロデビューする人物でも、大学時代一度載せてもらえなかった者がいた。合評自体2011年現在行われている。 寺村千葉幹夫によると、当時書いた作品先輩たちの前で朗読させられ平凡だと「ハイ、次!」(もういいから次の人)と言われ次の人に交替させられるばかりで、批評をもらえても「ここが悪い」「あそこが悪い」と、重箱の隅まで罵倒合戦だったという。 戦争中から少なくとも1950年代頃までは、大隈講堂早稲田子ども会毎年開き日本舞踊落語招待上演されていた。 1950年頃は毎週新作書いてくると執筆枚数申告して累計し、年間でもっと執筆枚数の多い会員に、当時まだ貴重品だった原稿用紙プレゼントされた。山中恒在籍中常にトップ執筆枚数誇り、その次が鳥越信だったと、山中古田証言している。 輩出者 以下の輩出者・参加者一覧について複数団体関与する人物は、一番上位置する団体のみに記述する今西祐行児童文学作家大石真児童文学作家岡沢秀虎ロシア文学者岡本良雄児童文学作家川崎大治児童文学作家北村順治児童文学研究者翻訳家神宮輝夫児童文学研究家、翻訳家鈴木隆 (作家)児童文学作家砂田弘児童文学作家児童文学研究者伝記作家翻訳家高橋健児童文学研究者翻訳家竹崎有斐児童文学作家寺村輝夫児童文学作家鳥越信児童文学研究家) 永井萌二(児童文学作家古田足日児童文学作家児童文学研究者伝記作家前川康男児童文学作家伝記作家翻訳家水藤春夫児童文学作家児童文学研究者山中恒児童文学作家児童文学研究家、放送作家脚本家作詞家

※この「早大童話会の創立と初期」の解説は、「早大童話会」の解説の一部です。
「早大童話会の創立と初期」を含む「早大童話会」の記事については、「早大童話会」の概要を参照ください。

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