生涯と思想
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「フリードリヒ・フレーベル」の記事における「生涯と思想」の解説
フレーベルは、テューリンゲン州・ザールフェルト=ルドルシュタット郡のオーベルヴァイスバッハという村の敬虔派の牧師の息子として生まれた。5人の兄姉のいる末子である。しかし生後9ヵ月で母を亡くし、孤独な幼少年期を過ごす。4歳で継母を持つことになったが、新しい母の実子が生まれるにいたり、疎まれるようになる。自然と宗教的な情操教育が、唯一彼の糧となる。 10歳の時、実母の兄ホフマンが、彼の家を訪問し、実情を察知し、フレーベルをその年の暮れ、自らの元に引き取ってくれ、以後4年の間、そこで暮らす。伯父も聖職者であったが、穏やかで彼を暖かく受容し、この地の学校ではフレーベルは多くの学友に恵まれた。ここでの生活は、1796年、彼の堅信礼を持って終わる。14歳で彼は進学するだけの経済力がなかったため、ヒルシェンベルクの林務官ヴィッツの元で2年間働きながら学ぶ。 その後、1799年10月、哲学科の学生としてイェーナ大学に入る。フリードリヒ・フォン・シラーが歴史を、フリードリヒ・シェリングが哲学を教えていた当時である。だが、学費が続かず、1801年には退学。翌1802年には、父が死去する。 以後、バンベルクの山林局で書記、測量師の助手、貴族の農場での会計など職を転々とし、1805年アントン・グルーナーの紹介でフランクフルト・アム・マインの模範学校の教師になる。このとき彼は23歳であった。学校教師になった後、1805年8月イヴェルドンにペスタロッチを訪ね、彼の実践と思想に強く影響を受け、1808年から2年間ペスタロッチのもとに滞在。 1811年ゲッティンゲン大学に入学、言語、物理、化学を学び、翌年ベルリンに転じて鉱物学の勉強を続けたが、学業は学位を取得するまでは行かなかった。彼は当時、ベルリンでも教育と愛国心的な高揚の中心だったプラマン学校(de:Plamannsche Erziehungsanstalt)で教師になる。勉強は、ナポレオンに対する解放戦争の勃発で、1813年3月で中断になる。彼はリュツオドイツ義勇軍に加わり、1813年5月グロスゲッシェンの戦い(de:Schlacht bei Großgörschen)に参加した。1813-14年の従軍中に生涯の協力者ヴィルヘルム・ミッテデンドルフ(de:Wilhelm Middendorf)とハインリヒ・ランゲタール(de:Heinrich Langethal)を得る。1814年、ベルリンに戻ってきて、ワイスのもとで、博物館も付属している鉱物学研究所で働く。1816年、テューリンゲンのアルンシュタットのそばのグリースハイムに学校を開き、翌年、この学校はカイルハウに移され、「一般ドイツ教育舎」(Allgemeine Deutsche Erziehungsanstalt、これは田園教育舎(de:Landeserziehungsheim)の先駆けのようなもの)と改称される。1826年には主著『人の教育』を刊行する。 彼はまずロマン主義の立場から、子供の本質を神的なものとして捉え、この児童観に基づいて受動的、追随的な教育を主張した。園丁が植物の本性に従って、水や肥料をやり、日照や温度を配慮し、また剪定するように、教育者も子供の本質に追随的に、その無傷の展開を保護し、助成するように働きかけなければならないとされ、そこから彼のKindergarten―幼稚園(子供達の庭)という名称が生まれた。 また、彼は人間の発達の連続性を主張し、この立場から子供の共感的理解と、それに基づく教育を擁護し、早教育に反対した。神を不断の創造者として捉えた彼は、神的本質を有する子供は不断に創造すべきものと考えた。この立場から、彼は幼稚園の教育内容は、遊びや作業を中心にすべきものと考え、そのために遊具を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園に必ず設置すべきであると主張した。 1837年、世界初の幼稚園として「一般ドイツ幼稚園」が開設されると共に、幼稚園の教員養成も積極的に行った。これを皮切りに、プロイセン全土に幼稚園が拡大していった。しかし、フレーベルがルター派のプロテスタントであることを警戒したプロイセン政府は、「幼稚園は子供を無神論に導き、フレーベルは子供に社会主義を吹き込む」として禁止命令を出した。これには彼の甥のユリウス・フレーベルが1848年の革命に深く関与していたこともある。そのため、フレーベルの晩年は必ずしも良いものではなかった。 ニーダーザクセン州のマリエンタールで死去。
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生涯と思想
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ポルトガルのコンベルソ(ユダヤ教からカトリックへの改宗)の家庭に生まれた。彼の父はカノン法に詳しいカトリックの司祭であった。ウリエルは教会でカノン法を研究し聖書を読むうちに、自分たちの起源はユダヤ教にあることに気づき、ユダヤ教への改宗を真剣に検討し始める。父の死後に自分の気持ちを家族に伝え、1617年に家族全員で改宗すると同時にポルトガルを脱出し、同じ境遇のセファルディム・ディアスポラの中心地であるアムステルダムへ亡命した。しかしすぐにウリエルはネーデルラントにおけるラビの指導力が儀式と律法にのみ費やされている現状に幻滅し始める。 1624年に『パリサイ人の伝統の検討 Exame das tradições phariseas conferidas com a Ley Escrita』という本を出版し、霊魂不滅の観念は聖書によるユダヤ教に根ざすのではなく主にラビたちによって定式化されたのでないかと論じた。ウリエルはさらに聖書とラビの残した伝統における不一致を問題にし、後者は機械的な儀式と慣行の積み重ねに過ぎず精神的・哲学的概念が欠けていると主張するに至った。この著書はキリスト教とユダヤ教を冒涜したという物議を引き起こし、公衆の面前で焚書されウリエルは高額の罰金を課され破門された。その上アムステルダムを追放されたため、ウリエルの一族はドイツのハンブルク(ここもセファルディムの中心地)へ行ったが、ドイツ語を解さないウリエルにとってここでの生活は困難だった。1633年に彼らはアムステルダムに戻り、「郷に入っては郷に従う」ことを約束しユダヤ人共同体との和解を求める。 ウリエルはまもなく以前と同じ懐疑にとらわれ、聖書の言葉は真実に神が表明したものか、それとも単にモーゼが考えて書いたものなのかという疑問を口にし、すべての宗教は人間が発明したものであるという解答を下した。宗教は儀式にではなく自然法に基づかねばならず、神にとって虚礼は不要だとウリエルは主張する。既存の宗教は暴力と争いによって特徴付けられているのに対し、自然法による宗教は平和と愛に満ちているはずだ、と。ウリエルはまたしても破門され、今度は家族と引き離されて追放された。彼は寂しさに耐えかねて再度アムステルダムに戻り、ユダヤ教徒たちに許しを請うた。シナゴーグはウリエルの異端的見解への罰として39の鞭打ちを行い、床に伏せさせて会衆全員に踏みにじられるに任せた。この屈辱が引き金となり、ウリエルは自殺した。
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生涯と思想
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「ジュゼッペ・トゥッチ」の記事における「生涯と思想」の解説
マチェラータの中産階級に生まれ、大学に進学する前に、ヘブライ語、中国語、サンスクリット語を独学で学んだ。 第一次世界大戦によって学問が中断させられながらも、1919年にローマ大学を卒業した。 卒業後は、インドに旅行し、詩人のタゴールが創設したヴィシュヴァ・バラーティ大学(英語版)(タゴール国際大学)にて、仏教、チベット語、ベンガル語を学ぶとともにイタリア語と中国語を教えた。さらに、ダッカ大学、コルカタ大学でも学ぶとともに教鞭を執り、1931年までインドに滞在したのち、イタリアに戻った。 帰国後は主にローマ大学で教鞭を執ったが、ヨーロッパやアジアの多くの研究機関で客員研究員として活躍している。1933年にはイタリア中東極東研究所(イタリア語版)(Istituto italiano per il Medio ed Estremo Oriente: IsMEO)の創設に力を尽くした。トゥッチは副所長となり、また言語コースのディレクターでもあった。 1936年には日本を初めて公式に訪問、1937年1月まで2ヶ月にわたって滞在し、東京で日伊学会の創設に立ち会っている。また、日本国内の各地を訪れ、チベットと「民族の純度」についての講演を行っている。 1947年からはイタリア中東極東研究所の所長となり、1978年までその任にあった。 1927年から1948年まで8度にわたってチベット・ラダックに入り、選びぬかれた膨大な文献と文革による破壊前の貴重な図像を入手した。それらはイタリア中東極東研究所に収蔵され、1994年と2003年にその目録が出版されている。1932年に出版した『インド・チベティカ』叢書、1949年の『チベット絵巻』などは中共による破壊以前のチベットの貴重な記録となっている。一方で、パキスタン、アフガニスタンのガズニー、イランのペルセポリスなどでも先駆的な考古学の発掘調査を行っている。イタリア国立東洋美術館(英語版)の発展にも尽くした。1978年にはネルー賞(英語版)、1979年にはバルザン賞を受賞しており、生涯で執筆した著書や論文、記事は300を超える。 1984年にローマ近郊のサン・ポーロ・デイ・カヴァリエーリで死去した。
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生涯と思想
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「パウル・ド・ラガルド」の記事における「生涯と思想」の解説
ベルリン大学、ハレ大学、ロンドン大学、パリ大学で神学と東洋語学を習得した。 1853年、ラガルドは自らを「急進的保守主義者」と呼び、合理主義や近代主義の侵入によってドイツ精神が腐食しているなどとして、プロイセンのユンカー支配、官僚制、資本主義化を批判しドイツ人によるドイツ信仰を主張した。 1854年、「大ドイツ中欧帝国」として統一ドイツを主張。 1869年にゲッティンゲン大学教授となった。 『ドイツ書』(1878)では「ドイツ性は血の中にではなく、気質の中にある」として、内面的・霊的態度によるドイツ国民の霊的再生と、ドイツ民族の活性化によるドイツ統一を目指した。 ラガルドは、パウロによってキリスト教はヘブライの律法のなかに閉じ込められ、ルター派は「腐った遺物」であり、カトリックは「あらゆる国家とあらゆる民族の敵」であると伝統的キリスト教を批判した。ラガルドは「神の王国とは民族にある」として、原始キリストの霊性にもとづくゲルマン的キリスト教を主張した。 ラガルドは初期ヘブライ人を称賛したが、ユダヤ人は律法と教義によって化石化され、近代のユダヤ人は真の宗教を欠落させ、物質主義的な欲望によって陰謀をめぐらすような悪に転落したと批判し、ユダヤ教の破壊を主張した。また、ユダヤ人がドイツ人になりたいのなら、なぜ霊的価値のないユダヤ教を棄てないのかと述べ、人間はバチルス菌や旋毛虫と談判するのではなく根絶するのだとし、ユダヤ人をマダガスカル島への追放を主張した。このラガルドの提案は、ナチスのマダガスカル計画に影響を与えた。ただし、ラガルドは宗教的な見地からの反ユダヤであり、人種的な見地からではなかったとモッセはいう。ラガルドはユダヤ人以外にも、スラブ人は滅ぶべきだし、トゥラン人種であるハンガリー人は滅ぶだろうとした。
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生涯と思想
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「リチャード・フッカー」の記事における「生涯と思想」の解説
デヴォン州のエクセターで誕生し、オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジで教育を受け、そこのフェロー(奨学金給費生)となった。1584年に結婚して大学での地位を辞任し、バッキンガムシャー州でドレートン・ボーシャン(Drayton Beauchamp)の校長になった。1585年にはロンドンでテンプル教会の牧師に任命されて、すぐに清教徒指導者ウォルター・トラバーズと衝突したが、それにもかかわらず2人は個人的には友人関係を続けていた。1592年、フッカーはウィルトシャー州ボスコーム教区にあるソールズベリー大聖堂と教区牧師の間では規範となった。1595年にはケント州ビショップスボーン教区の牧師になった。 フッカーの最も有名な仕事は『教会政治論』(The Law of Ecclesiastical Polity)である。その4巻までは1594年に、第5巻は1597年に公刊された。この著ではカトリックと清教徒の中道(Via Media)に賛意が表されている。フッカーは、理性と経験が伝統と同じくらい聖書を解釈する時に重要であり、聖書は特定の歴史・文脈の中で、具体的な状況への応答として書かれたことを認めた。「言葉はそれが発せられた場に従って、解釈されるべきである」(4巻.11章.7節)。この膨大な著書の主要テーマは、「政治組織としての教会の管理」である。当時カルヴァンによる「ジュネーブ改革教会」は、牧師と教会の地位を信者のところまで引き下げることを主張していたので、教会を組織するもっともよい方法を明らかにしようとしたのである。ここで賭けられていたのは、教会首長としての国王の地位であった。教義が権威によって定められず、「すべての信者が聖職者である」というルターの論の延長として選挙による政府ということが考えられるのならば、教会の首長として国王を戴いているのは耐えられないことであった。反対に国王が神によって定められた教会の長であると論ずるのであれば、教義を思い通りに解釈している地方教区の存在は許されない。 フッカーはトマス・アクィナスに学んでいたが、そのスコラ思想を自由主義的なやり方に適応させた。教会組織は政治団体のように、神にとって「関心のない事物things indifferent」である。小さな教義上の問題は、魂の破滅・救済に関わることではなく、信者の道徳・宗教的生活の便宜や枠組みに過ぎない。君主国と共和国はそれぞれ良いものと悪いものがあるのであり、そこで重要なのはその国が人々の忠誠を保持することなのだ。教会の権威とは聖書と初期教会の活動に始まったが、人々に従われるためには習慣的な服従というよりは忠誠と理性にその基盤をおかねばならず、権威が悪用されるときには正しい理性と聖霊に矯正されるであろう。司教の権限は絶対ではなく、その職権・職能は撤回されうる。フッカーは高教会派のいくつかの極端な主張は避けた。 フッカーの説教『義認論』(A Learned discourse of Justification)では、プロテスタント教義の信仰義認説を弁護したが、この説を理解せず受け入れない人でも救われうると論じた。これはカトリックも含めて、キリスト教徒は分割されるべきではなく団結すべきであるという彼の信念の表れと見なすことができる。理性と寛容の強調は、ジョン・ロックの哲学より先に国教会の教義に影響した。ロックはまた、フッカーの権威を用いて人間の自然状態における平等を論証した。
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「ニコス・プーランツァス」の記事における「生涯と思想」の解説
アテネ大学法学部で学生生活を過ごした後、兵役を経て、弁護士の資格を手に入れる。しかしそのすぐ後、ドイツのミュンヘンへ留学し、その後数ヶ月のうちにパリに移る。パリ第一大学の教務助手に就任していた間に執筆した博士論文の題目は「事物と法の本性――事実と価値の弁証法についての試論」。その後、ヴァンセンヌのパリ第八大学の社会学講師へ。 当時のギリシャの学生には一般的なことであったようだが、彼は自国の政治動向よりフランスの動向や思想に通暁していた。渡仏後は、サルトル、ボーヴォワール、メルロ=ポンティや『レ・タン・モデルヌ』メンバー、後にはアルチュセールやその学派の研究者と交流を持つ。また、ギリシャ・ドイツ時代には法哲学を修め、フランス時代にはグラムシをはじめとするイタリア・マルクス主義にも思考の手がかりを求めている。 構造主義の影響のもと、1968年に『政治権力と社会階級』(邦訳『資本主義国家の構造』I・II)を世に送り出し、その勢いを得て、1970年からは、「ミリバンド-プーランツァス論争」として知られている論争を、『ニューレフト・レヴュー』誌上にてラルフ・ミリバンドとの間で展開する。国家の相対的自律という問題について、ミリバンドの「国家-道具」説にたいして、プーランツァスは「国家-関係」説という立場をとっていた、と一般には言われている。 また、ドイツ法哲学とイタリア・マルクス主義の考察によって育まれた彼の学問的問題意識は、ファシズム研究という形となって表れている。 1978年には『国家・権力・社会主義』を出版。その後も精力的な活動を続けていたが、翌年、突然の自殺を遂げた。 プーランツァスが再興した国家論はその後、ボブ・ジェソップやイェンス・バーテルソンへと受け継がれ、政治学では現在でも研究が行われている。
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生涯と思想
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「アルフレッド・フイエ」の記事における「生涯と思想」の解説
フランス西部ロワール地方の小都市ラ・プエーズに生まれる。いくつかのコレージュで哲学を講じた後、1864年からドゥエ、モンペリエ、ボルドーのリセで哲学教師を務める。1867年および1868年にはプラトンとソクラテスの研究によって道徳科学アカデミーから表彰された。1872年に高等師範学校の助教授に選出され、また彼の2冊の著書Platonis Hippias Minor sine Socratica contra liberum arbitrium argumentaと『自由と決定論』La Liberté et le déterminismeによって哲学博士の学位も得る。 その後3年間研究と教育に邁進するが、健康を崩し、また視力を失いつつあったため、教授職の退任を余儀なくされる。その最中にもプラトンとソクラテスについての著作や哲学史の著作(1875年)を残している。しかし退職後、彼の哲学思想はさらなる発展を遂げ、観念論的形而上学と自然主義的機械論的な科学観とを調停しようとする思弁的折衷主義を唱えるようになった。 『観念力の進化論』(L'Évolutionnisme des idées-forces, 1890年)、『観念力の心理学』(La Psychologie des idées-forces, 1893年)、『観念力の道徳学』(La Morale des idées-forces, 1907年)など一連の著作で、観念力(idées-force, 力観念の訳もあり、またそのままイデーフォルスとカタカナ書きすることも多い)の理論を彫琢した。これは観念は意識に対して従属的なのではなく、意識が作用因となって、観念が適切な運動のうちでみずからを実現する傾向を有しているとするものである。この理論はまず倫理学や社会学の方面で構想され、さらに物理学および心理学の分野にも展開された。自由の二律背反についての考察がとりわけ重要である。 フイエの妻オーギュスティヌ・テュイルリはG・ブリュノの筆名で数々の児童書を執筆した人物で、また詩人・哲学者ジャン=マリー・ギュイヨーの母としても知られる(フイエとは再婚)。 1912年1月16日、リヨンにて死去した。
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生涯と思想
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マルキオンは小アジアの黒海沿岸のポントス付近の都市シノペの出身であるとされ、職業は船主であったという。司教であった父と対立して出奔、小アジア各地を経てローマに至った。ローマの教会に私財を寄付して受け入れられたがやがて対立、その思想が正統なものでないと判断され、144年の教会会議で破門された。このためマルキオンはローマで独自の教会を設立するに至った。彼の創設した教会はマルキオン派とよばれ、初めローマで盛んになり、後に各地へ分散して長く存続することになった。 マルキオンは異端とされたために教会による焚書が行われ、著書は現存していない。しかしマルキオンの思想は彼を反駁した神学者たちの資料から逆に推測することが可能である。マルキオンに反駁した神学者としては、ユスティノス、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、オリゲネスなどがあげられる。マルキオンの思想を知るために特に重要なのはテルトゥリアヌスの著作『マルキオン反駁』である。 反駁者たちの文章から推測されるマルキオンの思想は次のようなものである。まず、イエスはユダヤ教の待ち望んだメシアではなく、まことの神によって派遣されたものである。ユダヤ教の期待するメシア像は政治的リーダーで異邦人を打ち破るという要素が組み込まれていたことがマルキオンには誤りと思えたのだ。また、神が人間のように苦しむはずがないとして、イエスの人間性を否定した。このようにイエスの人間性を単にそのように見えただけだとする考え方を仮現説(ドケティスム)という。 同時に彼は旧約の神(世界を創造した神・律法神)は、怒りの神、嫉妬する神、不完全な神であり、旧約の神がつくった世界は苦しみにみちた世界であると考えた。一方、イエスの示した神は、旧約の神とは異なるまことの神、いつくしみの神であると唱えている。 このことから、マルキオンはキリスト教徒にとって旧約聖書は必要ないと考え、自分たちのグループのために本当に必要な文書のみを選択しようとした。これがキリスト教の歴史における最初の正典編纂作業である。マルキオンは福音書の中でルカによる福音書のみを選択し、新約聖書の諸文書の中から特にパウロの手紙を重視している。マルキオン正典は以下のような文書を含んでいた。ちなみにどちらもオリジナルをそのまま採用したのではなく、マルキオンが手を加えて改変したものであった。 ルカによる福音書 パウロの手紙(テモテへの二つの手紙とテトスへの手紙を除く。但し、これらをマルキオンが知らなかった可能性がある) このようなマルキオンによる正典の編集への反動として、2世紀以降キリスト教内でも新約聖書の正典編纂の動きが推し進められることになった。 また、マルキオンにはグノーシス主義的な傾きが見られる。マルキオンの思想に見られるように物質の世界を悪とし、それとは別の霊的世界を想定する二元論は、グノーシス主義の特徴を示しており、マルキオン自身がグノーシス主義に含めて考えられることが多い。ただし、キリスト教グノーシス主義諸派の特徴として、創世記の独自な解釈や、啓示に導かれて様々な福音書等を創作する点が挙げられるが、マルキオンは逆であり正典を極端に限定して捉えている。また、認識(グノーシス)ではなく信仰を重視している。このため、グノーシス主義とは区別して考えるべきとする研究者もいる。 マルキオンに関する著作としては、神学者アドルフ・フォン・ハルナックが1921年(第2版1924年)に出版した『マルキオン:異邦の神の福音』(Marcion: das Evangelium vom fremden Gott)が今日でも基本文献である。
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