突然の自殺
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同年1953年(昭和28年)の12月は、16日頃までは静岡県田方郡上狩野村(現・伊豆市)の嵯峨沢温泉で、ミュッセの翻訳『マリアンヌの気紛れ』を仕上げて清書し、9日には宿から妻の治子に手紙を出した。 こんな贅沢な宿屋にいると毎日苦労している治坊のことを考えて心苦しい。でも、若林の家ではどうしても落着いて仕事も手につかないので、勘弁して下さい。岩波のミュッセだけはどうしても今月中に渡してしまわねばならないので。来年は必ず小さな家をみつけて引越すから、もうすこし我慢して下さい。来年は必ずいいことがあるように努力します。身体の調子はいいです。十六日の夜には帰ります。風邪をひかないように頑張って下さい。 — 加藤道夫「加藤治子への書簡」(昭和28年12月9日付) しかし帰京した後の12月22日の夜、加藤は自宅書斎で、本棚の上段のパイプに寝巻の紐を括り付け、少し腰が床から浮いたような状態で縊死自殺した。同居していた姪の幸子によると、就寝前に加藤の部屋の前を通った時に、扉の下からオレンジ色の光が洩れていて静かだったという。その夜更け、帰宅した妻の治子が加藤の死を発見した。ベッドの枕元には食パンと歯磨き粉があった。 妻の治子と芥川宛ての遺書には、「僕は幼にして罪を犯され、その記憶が、いまに忌しく、地獄の苦しみ…」という言葉も書かれてあり、遠因には、幼時期に誰かから悪戯(わいせつ行為)をされた体験があったことがうかがわれた。加藤が自殺した日、中村真一郎、原田義人、矢内原伊作らが忘年会を催していたが、加藤は欠席して来なかった。 翌日の12月23日、訃報を聞いて三島由紀夫は加藤邸に駆けつけた。治子夫人によると、三島が心底から加藤の死を悼んでいるのが分ったという。他にも、大阪にいた芥川比呂志以外の、岸田国士や矢代静一、中村真一郎、木下順二、観世栄夫、北見治一、神山繁、仲谷昇、小池朝雄らが駆けつけ、この日に仮通夜があった。翌日12月24日に本通夜が行われ、告別式の12月25日は雪であった。
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