突然の病と引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 08:04 UTC 版)
「ポスト山下」の1人に数えられ、プライベートでも結婚して1歳の娘を授かり公私ともに順風満帆だった1989年、30歳の藤原は右の前腕に違和感を感じ始めた。次第に熱を帯び始め腫れも肥大化してこぶし大となり、当時所属していた新日鐵広畑の近くにある姫路市の病院で検査。「通常は結果が出るまで1-2週間掛かるという事だったが、病院を出た途端に医者が追いかけてきたため、嫌な予感がした」と藤原。医者から告げられた結果は無情にも前腕軟部組織の悪性腫瘍(ガン)であった。翌90年の正月明けに東京の病院へ転院して入院。手術に先立ち3か月間腫瘍を叩いてこれを小さくする治療を行うと同時に、手術では右腕を切断する可能性もあったため、この間に利き手と反対の左手で文字を書いたり箸を持ったりする訓練を行った。3月7日の手術当日、結果的に腕の切断は免れたものの、足の腓骨移植や鼠蹊部からの皮膚移植など13時間にも及ぶ大手術であった。数週間後に仮退院を許されたが、以後も月1回の抗がん剤治療を余儀なくされて下痢や味覚の変化、時には40度近い高熱にも悩まされた。それでも家族を守るため極力休まず会社には通勤したが、藤原の満身創痍の体は、競争激しい柔道界において第一線で活躍する選手として耐えれるものではなかった。結局この病がきっかけとなり、同年に現役を引退。 藤原の代名詞とも言える左の払腰は自身に対して1日に最低500本の打ち込みを課した努力の成果であり、また日本期待の大型選手と言われるまでになった身長192cm・体重115-120Kgの体格は、当時山下泰裕や松井勲、斉藤仁など他の重量級トップ選手と比較するとやや細いという指摘を受け、相撲の稽古やウエイトトレーニングを通じて筋肉増量に腐心した結果の賜物であった。全日本大会後の観戦記で大沢慶己(のち講道館10段)を以って「資質は強化選手の中でも抜群」と言わしめた一方、1976年春の関東大会団体戦でポイントを取れず明大中野高校が敗退した際の勝負際の弱さ、インターハイ決勝の敗退等しばしばプレッシャーに潰された、言わば悲運の選手であったとも言える。
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