突然の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:50 UTC 版)
「トマス・クロムウェル」の記事における「突然の没落」の解説
ヘンリー8世はキャサリンとの婚姻の無効化後アンと再婚するが、第2王女エリザベスを儲けた後、侍女のジェーン・シーモアに心移りしてしまう。アン王妃はやがて反逆罪を着せられてロンドン塔で処刑され、ヘンリー8世はジェーンと3度目の結婚に臨んだ。どこまでもヘンリー8世に忠実なクロムウェルは、初めアンの戴冠式とエリザベスの洗礼の準備を取り仕切ったが、王によるアンの処刑およびジェーンとの婚姻をクランマー共々全面的に支持していた。一方でアンと引き離されたエリザベスの養育係マーガレット・ブライアン(英語版)からエリザベスの待遇改善を訴える手紙を1536年7月に送られた際、要求に応じて待遇改善したとされている。 トマス・エリオット(英語版)やトマス・ワイアットとも交流があり、エリオットの父と知り合いだった縁で親しくなり、エリオットからしばしば職務(神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世付きの大使)に金がかかる苦情の手紙を書き送られ、彼が1538年と1539年に荘園を買い取った時に便宜を図ったとされている。またワイアットは1536年5月にアンとの密通容疑で投獄されたが、6月に釈放されたこともワイアットの父ヘンリー・ワイアットと事件について手紙を交わし合ったクロムウェルの関与が推測されている。 クロムウェルの宗教改革と国制改革はカトリック派の保守派の反発を引き起こし、1538年9月にクロムウェルがヘンリー8世の許可を得た上で全ての教会に英語訳聖書を備える命令を出すと、ノーフォーク公トマス・ハワードとウィンチェスター司教(英語版)スティーブン・ガーディナーの下に結集した保守派が巻き返しを図り、翌1539年6月に改革の行き過ぎを危ぶむヘンリー8世の支持でカトリック寄りの信仰箇条を定めた議会制定法の6箇条法が制定された。クロムウェルには保守派に対抗出来る支持基盤が無く、改革の手足として活用していた大学出身の知識人とジェントリは未だ政治勢力とはなっていないため、王の支持とそれを持続させるための自らの政治手腕だけが頼りで非常に危うい立場だった。 失脚したきっかけは、1537年のジェーン王妃のエドワード王子(後のエドワード6世)出産と早すぎる産褥死の後、王の4度目の再婚相手としてドイツのプロテスタント諸侯のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘アンナ(アン・オブ・クレーヴズ)を推したことであった。これは6箇条法が可決した1539年に神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の和睦によるイングランド侵攻が危惧されたことが背景にあり、隣国との関係悪化を牽制するため、同盟国を欲したクロムウェルはプロテスタント諸侯との同盟を画策、気乗りしないヘンリー8世を説得してプロテスタント諸侯と交渉を開始、新たな王妃の候補を探索させた。8月に宮廷画家ハンス・ホルバインを欧州大陸の各国宮廷に派遣し、妃候補の肖像画を描かせたという。 やがてクロムウェルは10月にヘンリー8世とアンの結婚契約を実現、年が明けた1540年1月6日に2人は結婚した。しかし実際にイングランドへやってきたアンに謁見した王は、ホルバインによるアンの肖像画と実物とのあまりの違いに激怒したという。プロテスタント諸侯の同盟という外交的成果も2月にカール5世とフランソワ1世が対立したため無意味になり、プロテスタント諸侯とカール5世が交戦した場合、前者へ支援する可能性もヘンリー8世の意に沿わないためクロムウェルは王の不興を買い、結婚は半年しか持たなかった。クロムウェルに抑えられていた政敵たち(特にノーフォーク公・ガーディナーなど)はこれを絶好の機会と捉え、クロムウェル失脚に動いた。
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