アムステルダムへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:51 UTC 版)
「レンブラント・ファン・レイン」の記事における「アムステルダムへ」の解説
ホイヘンスは、レンブラントとリーフェンスの二人がいずれもイタリアへ行こうとしないことに驚いていた。スヴァーネンブルフのように経歴に箔をつける上で本場ローマの美術に触れることは美術家にとって不可欠な時代であったが、二人は、すでにオランダに渡っていた著名なイタリア絵画の点数はそれなりにあり、また、忙しいとも答えていた。しかし名声を得つつあるレンブラントにとってライデンは狭くなってきた。1630年4月23日に父親が亡くなる。レンブラントはこれを機会にアムステルダムへ進出する決断をした。 1631年、以前から交流があった 画商にて画家のヘンドリック・ファン・アイレンブルフ(英語版)のアムステルダムにある工房に移り、ここのアトリエで肖像画を中心とした仕事をこなし始めた。 1632年、レンブラントは大きな仕事の依頼を受けた。著名な医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授が行う解剖の講義 を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする外科医組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を得られる彼は、驚嘆されるような前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この代表作かつ出世作 となった『テュルプ博士の解剖学講義』によって、レンブラントは高い評価を得た。
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