生涯と家族
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ヨルダネスの『ゲティカ』によると、エウタリックとアマラスンタはアタラリックとマタスンタという二人の子をもうけた。エウタリックが早くに亡くなったため、テオドリックの後をアタラリックが継いだが、彼も若くして死去し、女王として即位したアマラスンタも間もなく反対派に敗れて幽閉、殺害された。マタスンタは新たな東ゴート王ウィティギスと結婚したが、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスによって王国を奪われ、夫婦ともにコンスタンティノープルへ送られた。子が生まれないままウィティギスが死去すると、マタスンタはユスティニアヌス1世の従弟ゲルマヌスと再婚し、夫と同名の息子ゲルマヌスを生んだ。2人目の夫ゲルマヌスが死去した後は、マタスンタは再婚せず未亡人として余生を送った。
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生涯と家族
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「フィリップ・シドニー」の記事における「生涯と家族」の解説
フィリップ・シドニーはケントのペンスハースト(英語版)に、サー・ヘンリー・シドニー(英語版)とレディ・メアリー・ダドリーの長男として生まれた。母親は初代ノーサンバーランド公ジョン・ダドリーの娘で、初代レスター伯ロバート・ダドリーの姉妹だった。 フィリップの妹のメアリー(英語版)は第2代ペンブルック伯ヘンリー・ハーバート(英語版)と結婚し、兄フィリップその他の詩人達のパトロンとして重要な人物でもあった。フィリップの散文ロマンス作品『オールド・アーケイディア』は妹メアリーに献呈されたものである。また、弟は初代レスター伯ロバート・シドニー(英語版)で、その孫である政治哲学者でライハウス陰謀事件の首謀者アルジャーノン・シドニーと名誉革命の招聘者の1人であるロムニー伯爵ヘンリー・シドニー兄弟はフィリップの大甥に当たる。 フィリップ・シドニーはシュルーズベリー・スクール、オックスフォード大学クライスト・チャーチで教育を受けた。よく旅し、よく学んだ。エリザベス1世とアランソン公(アンジュー公フランソワ)との結婚に関しては、プロテスタントの立場から反対の意見書を女王宛に建白し、女王の不興を買った。1572年、大学を出た後の数年間、ヨーロッパ本土にとどまり、ドイツ、イタリア、ポーランド、オーストリアを歴訪した。その間、多くの著名なヨーロッパの知識人および政治家と知り合った。 1575年にイングランドに帰国したシドニーは後のデヴォンシャー伯爵チャールズ・ブラント(英語版)夫人ペネロープ・ブラント(英語版)であるペネロープ・デヴァルー(デヴルー)と再会した。ペネロープの父の初代エセックス伯ウォルター・デヴァルーは娘をシドニーに嫁がせるつもりだったと言われるが、エセックス伯は1576年に亡くなった。 より深刻だったのは、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーとテニスコートの先着順を巡り、諍いを起こしたことで、その大元の原因は、おそらくオックスフォード伯が擁護したフランスとの縁組みにシドニーが反対したからだと思われる。その余波でシドニーはオックスフォード伯に決闘を挑んだが、エリザベス1世は身分を弁えるように諭してそれを禁止した。シドニーはエリザベス1世に、プロテスタント主義の立場からカトリック国フランスとの縁組みの愚かさを綴った長文の手紙を送った。そのため女王の不興を買い、宮廷出入りさし止めとなったシドニーは、妹メアリの嫁ぎ先ペンブルック伯のウィルトン屋敷に寄寓して、文筆活動に勤しみ、詩や散文・牧歌劇等を書いた。また、蟄居中にも拘らず、政治的活動も怠らず、シドニーは非常に長い文書の中で父親のアイルランド運営を擁護した。 ウィルトン屋敷におけるシドニーの芸術への転向は、詩人としてのシドニーの名を後世に残すことになった。宮廷から引退している間に、シドニーは処女作「五月祭の佳人」、散文ロマンス『オールド・アーケイディア』、英語で書かれた最初の詩論『詩の弁護』、ソネット詩集『アストロフェルとステラ』を執筆した。その少し前、シドニーはエドマンド・スペンサーと知り合って、スペンサーは処女作『羊飼いの暦』(en:The Shepheardes Calender)をシドニーに献呈した。他にも、シドニーは英語詩を古典風にすることを目指す詩人たちの集団「アレオパゴス」(en:Areopagus (poetry)。作り話の可能性もある)の一員となった。妹メアリーとは、シドニーがはじめた詩篇の韻文への翻訳を、シドニーの死後、メアリーが完成させるほど親密なものだった。 シドニーは1581年の中頃には宮廷に戻っていた。同年、ペネロープ・デヴァルーは初代ウォリック伯ロバート・リッチと結婚した。過去にウィリアム・セシルの娘アンとの結婚が進められたことがあったが、1571年に破談となり、最終的にアンは、シドニーの論敵オックスフォード伯と結婚した。 1583年、シドニーはフランシス・ウォルシンガムの10代の娘フランセス(英語版)と結婚、同年にナイト爵を授けられた。翌1584年、シドニーは異端とされた宗教家ジョルダーノ・ブルーノと知り合った。ブルーノは後に2冊の本をシドニーに献呈した。翌1585年に娘エリザベスが誕生。 シドニーは激しく好戦的なプロテスタントだった。家がそうだったのと、個人的な体験(1572年のサン・バルテルミの虐殺の時、シドニーはパリのウォルシンガムの家にいた)両方の理由からである。1570年代に、シドニーはJohann Casimir(en:Johann Casimir of Simmern)に、カトリックとスペインに対してプロテスタントの力を結集する提案を考えるてくれるよう説得した。1580年代のはじめには、失敗に終わったが、スペイン本国への攻撃を訴えた。1585年、オランダのフリシンゲン(en:Vlissingen, Netherlands)提督に就任した時、シドニーのプロテスタント闘争の熱意はいっきに解き放たれた。オランダでシドニーは総大将で伯父の初代レスター伯ロバート・ダドリーに決断を迫った。そして1586年7月、シドニーはAxel(en:Axel (Netherlands))近郊のスペイン軍の急襲を指揮し、成功した。 続いて同年のジュトフェンの戦い(en:Battle of Zutphen)ではサー・ジョン・ノリス(en:John Norreys)の軍に加わった。包囲期間中、鎧を付けていない敵の大将に対抗して、鎧を脱いでいたシドニーは腿を撃たれ、破傷風のため26日後に亡くなった。伝えられるところでは、戦場で負傷して倒れている間、やはり負傷した兵に「私以上に君に必要なものだろう」と言って、水筒を譲ったという。この話はシドニーの高貴なキャラクターを表す時の最も有名な逸話となっている。 シドニーの遺体はロンドンに戻され、1587年2月16日、セント・ポール大聖堂に国葬扱いで埋葬された。既に生前からそうであったが、さらに死後、シドニーは多くのイングランドの人々にとって、廷臣の鑑となった。博識、賢明、だが同時に寛大、勇敢、直情的。当時の政治家の中でも文人としてシドニーほど重要な人物はおらず、エドマンド・スペンサーはイギリス・ルネサンス最高のエレジーの1つ『アストロフェル』の中で、シドニーのことをイングランド男子の花と讃えた。 シドニーに関する伝記が友人で学友の初代フレク・グルヴィル(en:Fulke Greville, 1st Baron Brooke)によって著された。その中では、シドニーの高貴さ・高潔さが讃えられている。
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