生涯と日本での活動とは? わかりやすく解説

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生涯と日本での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:54 UTC 版)

アーネスト・フェノロサ」の記事における「生涯と日本での活動」の解説

マサチューセッツ州セイラム生まれ父親Manuel Francisco Ciriaco Fenollosaスペインマラガ生まれ音楽家晩年自殺している)。兄とともにフリゲート艦船上ピアニストとして渡米しMary Silsbeeと結婚しアーネストをもうける。アーネスト・フェノロサ地元高校卒業後、ハーバード大学哲学政治経済を学ぶ。先に来日していた動物学者エドワード・シルヴェスター・モース紹介1878年明治11年当時25歳)に来日し東京大学哲学政治学理財学経済学)などを講じたフェノロサ講義受けた者には岡倉天心嘉納治五郎井上哲次郎高田早苗坪内逍遥清沢満之らがいる。 以上のようにフェノロサ専門政治学哲学であり、美術専門ではなかったが、来日前にボストン美術館付属美術学校油絵デッサン学んだことがあり、美術への関心はもっていた。来日後日本美術に深い関心寄せ助手岡倉天心とともに古寺美術品訪ね天心とともに東京美術学校設立尽力したフェノロサ美術に公式に関わるのは1882年明治15年)のことで、同年第1回内国絵画共進会審査官務めた同年には狩野芳崖作品注目し2人以後親交を結ぶことになる。芳崖の遺作であり代表作でもある『悲母観音像』(重要文化財東京藝術大学大学美術館)は、フェノロサ指導で、唐代仏画モチーフ近代様式加味して制作したのであるフェノロサ狩野派絵画心酔し狩野永悳えいとく)という当時狩野派画家師事して、「狩野永探理信」という画名名乗ることを許されている。同じ1882年には龍池会財団法人日本美術協会前身)にて「美術真説」という講演行い日本画洋画特色比較して日本画の優秀性を説いたフェノロサ当時日本の美術行政文化財保護行政にも深く関わった。1884年には文部省図画調査会委員任命され同年には岡倉天心らに同行して近畿地方古社寺宝物調査行っている。法隆寺夢殿秘仏救世観音像開扉したエピソードはこの時ののである1886年とも)。それ以前1880年1882年にも京都・奈良古社寺訪問したことが記録からわかっている。 1890年帰国しボストン美術館東洋部長として、日本美術紹介行ったその後1896年1898年1901年にも来日した1908年ロンドン大英博物館調査をしているときに心臓発作逝去英国国教会の手ハイゲート墓地埋葬されたが、フェノロサ遺志により、火葬ののち分骨されて日本送られ大津法明院改め葬られた。 生前仏教帰依している。1896年には滋賀県大津市園城寺三井寺)で受戒した。その縁で同寺子院の法明院に、同じく日本美術収集家として知られるウィリアム・スタージス・ビゲローと共に葬られている。

※この「生涯と日本での活動」の解説は、「アーネスト・フェノロサ」の解説の一部です。
「生涯と日本での活動」を含む「アーネスト・フェノロサ」の記事については、「アーネスト・フェノロサ」の概要を参照ください。

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