連合国軍最高司令官総司令部 概要

連合国軍最高司令官総司令部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 07:35 UTC 版)

概要

駐日アメリカ合衆国大使館米陸軍マッカーサー最高司令官(左)を訪問した昭和天皇(右)、1945年(昭和20年)9月27日撮影[注釈 3]
広島県呉市内を行進する英領インド陸軍の王立第5グルカ銃連隊(1946年)

連合国軍最高司令官総司令部は、第二次世界大戦における日本の有条件降伏である「ポツダム宣言」の執行のため日本に設置された連合国による機関である。

ハリー・S・トルーマン大統領は1945年(昭和20年)8月14日(アメリカ大西洋時間)、南西太平洋戦域英語版最高司令官兼太平洋陸軍最高司令官[注釈 4] ダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官(SCAP)に任命した。

職員はコートニー・ホイットニー弁護士資格を持つアメリカ合衆国軍人や、イギリス軍人、オーストラリア軍人、アメリカイギリスの民間人ら多数で構成され、同年10月2日に総司令部が東京都に設置された。

日本を軍事占領すべく派遣されたアメリカ軍中国軍イギリス軍ソ連軍オーストラリア軍カナダ軍フランス軍オランダ軍ニュージーランド軍インド軍フィリピン軍など連合国各国の軍隊から派遣された最大43万人を統括し、その大多数を占めたイギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍(BCOF)と、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)が連合国軍最高司令官の直下に指揮され、イギリス連邦占領軍が中国・四国地方を担当し、残る都道府県はアメリカ占領軍が担当[9]した。

日本の占領方式は、総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施した。連合国軍最高司令官総司令部の命令、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令[注釈 5]として国民へ公布・施行された。

司令部は最初に日本の軍隊大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍)を解体し、戦犯指定した人物を逮捕した。また思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放(これらは「自由の指令」と俗称される)と、政治の民主化政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体農地解放などを指示した。

同年9月、占領下の日本を管理する最高政策機関としてイギリスアメリカ合衆国カナダ英領インドオーストラリアニュージーランドフランスオランダ中華民国ソビエト連邦米領フィリピンの11カ国と、後にビルマパキスタンで構成された極東委員会(FEC)が設置され、連合国軍最高司令官総司令部は極東委員会で決定された政策を執行する機関とされた。1946年(昭和21年)2月に極東委員会が召集され、同年4月に最高司令官の諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置されるも、最大の人員と最高司令官を派遣し、戦闘部隊を派遣したアメリカ合衆国とイギリスが最も強い影響力を持ち続けた。中華民国は国共内戦が再燃し、フランスオランダは植民地支配、ソ連は東欧支配に集中しており、日本への影響力を行使できなかった。

1951年(昭和26年)4月11日アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンがマッカーサーを解任した後、米陸軍のマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将へ昇進)が最高司令官に就いた。1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約発効(日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を終了し、解体された。同時に、日本はイギリスやアメリカなどとの2か国間協定を結び、たとえば(旧)日米安全保障条約に調印して、アメリカ軍の国内駐留と治外法権などの特権、そして前年より継続して行われた朝鮮戦争への対応などのための駐留を認めた。

連合国軍最高司令官

写真 氏名 在任期間 任命権者
1 ダグラス・マッカーサー[10] 1945年8月15日[11]
- 1951年4月11日[10]
第33代アメリカ合衆国大統領
ハリー・S・トルーマン[11]
2 マシュー・リッジウェイ[10] 1951年4月12日[10]
- 1952年4月28日[10]

本部

接収された第一生命館。現DNタワー21(手前は皇居の外堀。後ろの高層部分は後に増築したもの。旧第一生命館は外観保存の上改築されたが、最高司令官執務室はそのまま保存されている。2011年撮影)

当初は現在の横浜税関に置かれたが、後に皇居東京駅に挟まれた丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。

第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を承知しており、当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部として使う優位性を説明し採用されたものである。これは、司令部として使われるのであれば丁寧に使用され将来の接収解除後は問題なく使用できるであろうことを期待した措置であり、結果としてその目論見は奏功した。なお当館地下の保険証券倉庫部分は、その重要性が理解され接収の対象外であった。

1989年から1995年にかけて、第一生命館は順次DNタワー21として再開発が行われ、建物の一部外装と6階にあったマッカーサー記念室以外は現在失われている。

機構

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)はポツダム宣言を執行するために日本の占領政策を実施した機関である。GHQ/SCAPに先立ち、主に軍事部門は横浜税関の建物を接収して設置した太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)が担当していたが、GHQ/SCAPとGHQ/AFPACは完全に分離された組織ではなく両者は同じ上部機構にあり、GHQ/SCAPが東京に本部を設置後にGHQ/AFPAC本部も東京へ移転している。

連合国軍最高司令官総司令部は連合国最高司令官(太平洋陸軍司令官兼務)を長とし、その下に参謀長が置かれ、その下に参謀部幕僚部特別参謀部または専門部とも)が置かれていた。参謀長と参謀部はGHQとAFPACの両系統に属していたが、幕僚部についてはGHQ/SCAPとGHQ/AFPACにそれぞれ副参謀長が置かれ、その下にGHQ/SCAPの幕僚部とGHQ/AFPACの幕僚部がそれぞれ独立して置かれていた。

参謀部(General Staff Section)
  1. 参謀第1部(G1 人事担当)
  2. 参謀第2部(G2 情報担当) - 管下に民間検閲支隊(CCD)が置かれ、プレスコードの実施を担当した。
  3. 参謀第3部(G3 作戦担当)
  4. 参謀第4部(G4 後方担当)

諜報保安検閲を任務とする第2部(G2)の権限が強く、占領中の不明解事件はG2配下でキヤノン機関と俗称される特務機関の関与を疑義する一部の者もいる。

幕僚部/特別参謀部/専門部(Special Staff Section)
  1. 法務局(LS)
  2. 公衆衛生福祉局(PHW)
  3. 民政局(GS:Government Section 政治行政)
  4. 民間諜報局(CIS:Civil Intelligence Section)
  5. 天然資源局(NRS:Natural Resources Section 農地改革など)
  6. 経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
  7. 民間情報教育局(CIE:Civil Information & Educational Section 教育改革など)
  8. 統計資料局(SRS)
  9. 民間通信局(CCS:Civil Communication Section)
1946年1月段階で11部局、後に14部局へ拡大している。GHQ/AFPAC側の幕僚部に、法務部(JA)、監察部(IGS)、医務部(MS)、防空部(AAS)、通信部(SS)、兵器部(OS)、広報部(PRS)など各部が置かれていた。「非軍事化・民主化」政策で主導権を発揮したGSはルーズベルト政権下でニューディール政策に携わった者が多数配属されて日本の機構改造に活動した。GSとG2は日本の運営を巡って対立し、GSは片山芦田両内閣を、G2は吉田内閣をそれぞれ支持して政権交代や昭和電工事件に影響し、逆コース以後は国務省の意向も踏まえG2が勢力を広めている。

注釈

  1. ^ GHQ(General Headquarters)は総司令部 ・総本部・総本店など軍事以外にも企業など組織の頂上機関の意である。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」という意味で使われる事が殆どであるが、日本以外ではその意味で使われる事は殆どなく、「GHQ/SCAP」と呼称するのが一般的である。
  2. ^ 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)等で使用されている。
  3. ^ 同日撮影された3枚のうち、同年9月29日に公開された1枚
  4. ^ 太平洋戦域英語版最高司令官兼太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥の担当戦域にある日本本土への上陸作戦で南西太平洋戦域最高司令官のマッカーサーが陸軍部隊を指揮するために新設されたポスト。マッカーサー自身が最高司令官の南西太平洋戦域と陸軍省直轄のアラスカ軍管区には指揮権が及ばない[7]。1947年にアメリカ軍の再編で統合軍制度となり、極東軍総司令部英語版が設置された際に廃止[8]
  5. ^ ポツダム勅令とも称され、日本国憲法施行後はポツダム政令である。
  6. ^ 共産主義勢力台頭に伴い方針を変更している。さらに、中華民国は、中国地域の統治権を失い、台湾島(現台湾)に亡命した。
  7. ^ 検閲物はGHQの文官プランゲ博士が米国メリーランド大学へ移管して後年にプランゲ文庫として公開されている。
  8. ^ 日本社会党(現在の社会民主党)が結成されたのは1947年11月。
  9. ^ プレスコードによるダブルスピークで、連合国軍将兵の犯罪を「大男」などと報じている。

出典

  1. ^ 連合国軍最高司令部指令:文部科学省”. www.mext.go.jp. 2023年9月4日閲覧。
  2. ^ 連合国軍最高司令官総司令部|アジ歴グロッサリー”. www.jacar.go.jp. 2023年9月4日閲覧。
  3. ^ "United States Initial Post-Surrender Po1icy for Japan", 1945/9/22;For example, SCAPIN-44, SCAPIN-45, SCAPIN-74, SCAPIN-110, SCAPIN-2020.
  4. ^ 降伏文書全文(英文+和訳文)”. 外務省. 2020年8月16日閲覧。
  5. ^ 米国の「初期対日方針」 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 2024年4月6日閲覧。
  6. ^ 日本政府の改正案に関するホイットニー・メモ 1946年2月6日 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 2024年4月6日閲覧。
  7. ^ Ray S. Cline, United States Army in World War II: The War Department: Washington Command Post: The Operations Division, Appendix B: U.S. Army Commanders in Major Theater Commands, December 1941-September 1945
  8. ^ Reports of General MacArthur: MacArthur in Japan: The Occupation: Military Phase, Chapter 3: Command Structure of General Headquarters, FEC
  9. ^ 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.10 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年
  10. ^ a b c d e 連合国軍最高司令官総司令部”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2017年10月12日閲覧。
  11. ^ a b マッカーサー記念館所蔵沖縄関係資料の公開”. 沖縄県公文書館. 2017年10月12日閲覧。
  12. ^ P.249, Marx's Revenge:The Resurgence of Capitalism and the Death of Statist Socialism, 著者:Meghnad Desai "The Americans had intended Japan to be an agricultural county, as a punishment for its wartime conduct."https://books.google.co.jp/books?id=RflAloLOg1YC&lpg=PA249&ots=F3nY62PzqJ&dq=The%20Americans%20had%20intended%20Japan%20to%20be%20an%20agricultural%20county%2C%20as%20a%20punishment%20for%20its%20wartime%20conduct.&hl=ja&pg=PA249#v=onepage&q=The%20Americans%20had%20intended%20Japan%20to%20be%20an%20agricultural%20county,%20as%20a%20punishment%20for%20its%20wartime%20conduct.&f=false
  13. ^ 青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男―「パケナム日記」が語る日本占領』新潮社、2011年5月1日、37-43頁。ISBN 9784103732068 
  14. ^ 矢島翠『ラ・ジャポネーズ―キク・ヤマタの一生』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1990年12月1日、245頁。ISBN 9784480024954 
  15. ^ 谷 暎子「占領下の児童書検閲 : 違反に問われた絵本をめぐって」『北星学園大学文学部北星論集』第43巻第1号、北星学園大学北海道札幌市、2005年9月、91-100頁、ISSN 0289-338XNAID 110006195163 
  16. ^ 前坂俊之日本メディア検閲下(下)』(PDF)(レポート)2003年7月http://maesaka.sakura.ne.jp/bk/files/030701_kenetsuge.pdf 
  17. ^ RELATIONS BETWEEN ALLIED FORCES AND THE POPULATION OF JAPAN (PDF)
  18. ^ 「忘れたこと忘れさせられたこと」、江藤淳、文春文庫、H4.1 p248
  19. ^ a b 水間 2013, pp. 41–42
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  23. ^ 高山正之『サダム・フセインは偉かった』
  24. ^ 高山正之『ジョージ・ブッシュが日本を救った』
  25. ^ 須山幸雄『二・二六青春群像』
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  27. ^ 街歩きに出かけよう:Vol.6 進駐軍ジャズの跡を訪ねて - TONTON club
  28. ^ 昭和15年〜昭和23年・戦時下および統制下におけるビール (5)戦後も続いた配給制度|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム|キリン
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