共産主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 15:24 UTC 版)
社会主義との違い
「社会主義」と「共産主義」は、とりわけマルクス主義に関し、同一視される場合と使い分けられる場合がある。それは以下の歴史的経緯による。
- (1) マルクス主義=共産主義
- カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』を書いた1847年には、社会主義と共産主義の違いは明瞭なものだった。エンゲルスは1890年に出版された『共産党宣言』ドイツ語版の序文で「1847年には、社会主義はブルジョア(中産階級)の運動を意味し、共産主義はプロレタリア(無産階級)の運動を意味した」[23]と説明している。マルクスもエンゲルスも共産主義者と自認していた。
- (2) マルクス主義=科学的社会主義
- 1875年にマルクス派とラッサール派の合同によってドイツ社会主義労働者党が創設された際、マルクスはラッサール派によって書かれた綱領草案を厳しく批判する手紙を関係者宛に送った。『ゴータ綱領批判』として知られるものである。その中でマルクスは共産主義の低い段階と高い段階を区別し、低い段階では労働者は労働に応じて受け取り、高い段階では欲求に応じて受け取る、とした[24]。批判対象の綱領草案には共産主義という単語は含まれていなかったにもかかわらず、マルクス自身は手紙の中で共産主義について語った。とはいえ、新しい党は社会主義政党であり、そこに参加したマルクス主義者は社会主義者ということになる。
- 1880年に出版された『空想から科学へ』において、エンゲルスは、「唯物史観と剰余価値説によって社会主義は『科学』となった」、という見解を示した。マルクスもこの小冊子を「科学的社会主義の入門」として推薦する序文を書いた。これによりマルクス主義は科学的社会主義とも呼ばれるようになった。
- (3) 社会民主主義と共産主義の対立
- ドイツ社会主義労働者党は1890年にドイツ社会民主党と改称され、マルクス主義者は社会民主主義者とも称するようになった。ドイツ社会民主党は順調に党勢を拡大し、国際的な社会主義運動(第二インターナショナル)の中でもリーダー的存在だった。
- しかし第一次世界大戦の勃発に際し、それまでの政策を捨てて自国政府を支持したため、反戦を貫いた社会民主主義者から激しく批判された。レーニンはボリシェヴィキに対して「その公式の指導者たちが、全世界で社会主義を裏切り、ブルジョアジーの側に寝がえってしまった『社会民主党』(『祖国防衛派』と動揺的な『カウツキー派』)という名称のかわりに、われわれは共産党と名のるべきである」と提案した[25]。ボリシェヴィキは1919年に党名を共産党と改称した。以後、社会民主主義と共産主義は明瞭に区別されるようになった。社会民主主義は議会制民主主義の尊重や漸進的改革の主張を意味し、共産主義は革命によるプロレタリアート独裁の主張を意味した。
- レーニンは1917年に出版された『国家と革命』でマルクスの『ゴータ綱領批判』を詳しく解説し、理論面でもマルクスの共産主義論を復権させた。以後、革命後の体制はプロレタリアート独裁期を経て社会主義へと移行し、さらに共産主義へと発展する、という考え方が定着した。マルクスの言う共産主義の低い段階は社会主義と位置づけられた。
- (4) 共産党の社会民主主義化
- 一時は圧倒的だったソ連の権威は、1956年のスターリン批判、ハンガリー動乱、1968年のプラハの春などの事件によって次第に低下した。西欧諸国の共産党はソ連共産党との違いを強調するようになった。自由や民主主義を強調するユーロコミュニズムがその一例である。共産党の政策は社会民主主義政党の政策と大差ないものになり、社会民主主義と共産主義の違いも再び曖昧になった。
- ^ 正式な表記「Советский Союз」は日本語では「ソビエト連邦」と訳されるが、「Сoюз」は「同盟」という意味を持つ。詳しくはソビエト連邦#名称を参照
- ^ 衛星国含む。
- ^ 日本では日本共産党(左派)や一部の日本の新左翼など。
- ^ ユーロコミュニズムと基本的には同様の傾向をもつが、非同盟と平和主義を正面に押し出した点が異なる。
- ^ ただ、1990年代後半以降、その急激な経済成長が祟って慢性的な電力不足に陥っている[要出典]。
- ^ 党の公式的な見解では「マルクス・レーニン主義の創造的適用」と説明される[47]。
- ^ スペイン共産党などユーロコミュニズムの流れをくむ諸政党、日本共産党など。
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