共産同とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 共産同の意味・解説 

きょうさん‐どう【共産同】

読み方:きょうさんどう

共産主義者同盟[二]」の略称。


共産主義者同盟

(共産同 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 11:46 UTC 版)

共産同(ブント)
戦旗荒派 / 戦旗西田派 / 烽火派 / 叛旗派 / 統一委 / 社労党 / マルクス主義同志会 /革命21 /ML派 / マル青同 / 赫旗派 / 労共党 / 革命左派 / 赤軍派 / 連合赤軍 / 日本赤軍 / ムーブメント連帯

社青同革労協)系
解放派 / 狭間派 / 木元派 / 全協

構造改革派系/ソ連系
共労党 / フロント / 日本のこえ / MDS / 統一共産同盟

中国系
毛沢東思想研究会 / 日共左派 / 日共行動派 / 日共ML派 / 緑の党

アナ革連
 アナキスト社会革命戦線 / 無政府共産主義者同盟

ノンセクト・ラジカル
東アジア反日武装戦線 / 京大パルチザン


  1. ^ イマニュエル・ウォーラステインは『反システム運動』(大村書店, 1992年)において、「世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は1848年に起っている。二度目は1968年である」と述べている。この視点ー68年を中心として世界的に発生した反システム運動ーから60年代後半の学生運動・全共闘を検証したものに、絓秀実『革命的な、あまりに革命的なー「1968年の革命」史論』(作品社2003)がある。
  2. ^ 「安保全学連」蔵田計成(三一書房.1969)が1960年代以降のニューレフトの通史として最も詳しい。戦後学生運動の70年代初頭までの通史としては山中 明『戦後学生運動史』(196青木新書1、1981再発群出版 )が最もコンパクトにまとまっている。
  3. ^ 共産主義者同盟結成大会議案(1958年12月)
  4. ^ 「わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集 三訂」(警備研究会、立花書房、2008年)p139
  5. ^ 『新版・日本の戦闘的左翼』小山弘健編 現代史研究所 1968年p7-8
  6. ^ 『戦後日本共産党史』参照。小山弘健 芳賀書店 1966こぶし書房より2008再発
  7. ^ 森田実『戦後左翼の秘密 60年安保世代からの証言』(潮文社 1980)参照 。指導的立場にいた森田によれば、1956-60年当時、全学連は全国で10万から20万人程度のデモならいつでも組織できる力をもっていたという。また共産党員数・集会への動員力・街頭カンパによる資金集め能力も群を抜いていたという。当時の学生党員数は2-3000人である。また共産党は全国の党員数の4割を東京都の党組織が占めていた。
  8. ^ 60年安保ブントに関しては、ブント書記長・島成郎の回想(島成郎 1999)、当時の理論家・姫岡玲冶(青木昌彦)の『私の履歴書 人生越境ゲーム』(日本経済新聞出版社、2008年)などがある。西部邁の『60年安保センチメンタルジャーニー』(1986年/2007年洋泉社から再刊)が当時の文化的雰囲気と人物像を伝えている。
  9. ^ 草案で終わったという。島成郎 1999参照。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 島成郎 1999.
  11. ^ これに関しては、全学連の「輝ける委員長」と呼ばれた初代全学連委員長武井昭夫(後に「活動家集団思想運動」代表)以来の戦闘的な伝統が大きいといわれる。武井の戦後学生運動最初期に関する論考は、『武井昭夫論集③(層としての学生運動)』(スペース伽耶、2005)参照。絓秀実は『革命的な、あまりに革命的なー1968年の革命試論』(作品社2003)で、「ブント結成も大きく見ればその(全学連)の延長上にあったといえる」と述べている(p20)ちなみに大学進学率は当時全体の10%程度だった。
  12. ^ 府川充男 2006, p. 68.
  13. ^ 唐牛に関しては、その友人である西部邁の『60年安保センチメンタルジャーニー』がその人物像を伝えている。
  14. ^ 島成郎 1999参照。書記長となった島は、その同盟を、「明晰な決断と天衣無縫な行動パターン、八方やぶれな自由な集団」を理想としたという
  15. ^ 以前の条約は、アメリカの対日防衛義務を明記しないまま、アメリカに軍事基地を提供していた。したがってある視点からすれば、日本の自主性を一定程度回復するものであった。
  16. ^ これに関して西部邁は1986年になって、『60年安保センチメンタルジャーニー』でブントの視点は、「対米従属」「民族独立」という方針と、日本の中立化を求める社会党や共産党の方針と違い、戦後民主主義の理念、特に「平和」と「民主主義」そのものの前提を疑おうとしたものであったと述べる。同時代的にはブント同伴知識人第二号となった吉本隆明の「戦後世代の政治思想」(『中央公論』1960.1→『吉本隆明著作集13(政治評論集)』(勁草書房.1978)および『擬制の終焉』『吉本隆明著作集13(政治評論集)』(勁草書房.1978)参照。吉本は『中央公論』1960年4月号において、島成郎らと『トロツキストとよばれても』という対談を行っている。 
  17. ^ 森田実は1955年の砂川闘争以降、学生の大衆的運動を社会党を中心とする運動の一環として位置づけようと模索していた。森田は1959年12月中旬にブントから退く
  18. ^ 先頭の清水丈夫・葉山岳夫(現在救援連絡センター代表)は装甲車にとびうつったことで手配され、東大駒場寮に篭城する。
  19. ^ 蔵田計成「ブント主義ー倍々ゲームの陥穽」さらぎ徳二『我かく闘えり 破防法闘争32年』(情況出版2001)収録
  20. ^ 蔵田計成「ブント主義ー倍々ゲームの陥穽」pp64-65、さらぎ徳二『我かく闘えり 破防法闘争32年』(情況出版2001)
  21. ^ 荒岱介 2001, p. 43.
  22. ^ (島成郎 1999)
  23. ^ 島の死後公開されたノートで、その当時の分裂情況がわかる(『ブント書記長島成郎を読む―島成郎と60年安保の時代〈1〉』情況出版 .2002)。1961年1月22日付けの日記にはこうある。「私が考えたもう一つの実態。第一に、革命を考えた。10年間の私の共産主義者としての歴史の中で、革命というものを実感をこめて、数世代後の理想ではなく、われわれの世代が当面し、私が当面しなければならない現実的なものとした革命というものを考えた。そのとき、私は「いかなる革命を欲しているのか?」「いかなる社会をつくろうとするのか」という問いに答えることを全く知らなかった。ブント綱領も、素朴に問題を提出する労働者になんの実感もイメージも与えない、干からびたものであったのだ。私の全思想体系、ブントの全理論は、この実感の前に崩れ去った。この実感の上に批判が開始されねばならなかった。」「(・・・)もしこの過渡を意識しないで固定化したばあい、それは腐敗し堕落し妨害物以外にはなりえないであろう。だから私の立場は、一方では本質的批判ーしかも私がブントの代表であった点において自己打倒を目指したーを準備しつつ、他方プロレタリア通信派、戦旗派(後、革共同に移行)の固定化を防ぐ、混乱させる意地悪の役目を担う」
  24. ^ 一般に思われているのと異なり、1961年10月24日島は森田実らとともに、ブント再建の集会を招請したが、求心力を持つにいたらなかった。そのとき吉本隆明対馬忠行らが講演をもった。『ブント書記長島成郎を読む―島成郎と60年安保の時代〈1〉』(情況出版 .2002)参照
  25. ^ a b c d e f g h i j 小嵐p278-283
  26. ^ 神津陽 2007, p. 29.
  27. ^ 府川充男 2006, p. 68 マル戦派とそのシンパ150名・反マル戦の旧統一委員会派とそのシンパが180名程度だったという。
  28. ^ 塩見孝也 2003, p. 31参照 京都大学と同志社と大阪市大が軸であったと言う。
  29. ^ 短い期間に幾多の解体と分裂を経験している。荒岱介 2005古賀暹・望月彰インタビュー、神津陽 2007巻末年表などを参照。『ブント書記長島成郎を読む―島成郎と60年安保の時代〈1〉』福地茂樹の論文参照(情況出版 .2002)
  30. ^ 廣松渉が門松暁鐘のペンネームで書いた『現代資本主義論への一視覚』を理論的基盤としている。1967年『情況』を発刊した古賀暹が進めた。なお『情況』は機関紙ではなく、党派とは独立したジャーナリズムとして発刊されている。
  31. ^ 革命の通達派が前身。
  32. ^ 議長松本礼二、書記長服部信司、労対さらぎ徳二、学対古賀暹。マル戦派が実務を担った。
  33. ^ 荒岱介 2001, p. 45.
  34. ^ 60年のブント解体後、全学連主流派は、棚ぼた的に革マルが主導権を握る(創設以来の全学連旗は革マル系全学連のもとにある。)。一方それに反対するものが統一を模索し、1966年12月三派全学連を立ち上げた。なお60年全学連反主流は民青系全学連として独立した。60年安保以降3つに全学連は分派したといえる。68年7月三派全学連は中核派が離脱、反帝全学連と名称を変える。この反帝全学連委員長となったのが、藤本敏夫である。
  35. ^ 塩見孝也 2003, p. 51。さらぎ徳二によれば1600人。委員長は斉藤克彦。またこのころから、一般にイメージされる「われわれはー(…)」などの、全学連・全共闘特有のアジテーションの定型化・大衆化が起こったという。60年安保あるいはそれ以前には、演説者の口調は、それぞれの個性にまかされ、現在一般にイメージされるものとは違っていたという。荒岱介 2005の古賀暹のインタビュー参照
  36. ^ まつぼっくりの会の定款”. 内閣府. p. 10. 2020年10月26日閲覧。
  37. ^ 中上健次も参加している。『中上健次発言集成5』p138-9参照。なお内部事情は、神津陽 2007, p. 193、荒岱介 2001, pp. 61–65に詳しい。
  38. ^ もともとは内々の乱闘のとき使用されていた。
  39. ^ このころから警察から「過激派」という名称をつけられることとなる。
  40. ^ 機動隊がここではじめてジュラルミン盾を持つ。(荒岱介 2001, p. 67)
  41. ^ 府川充男 2006, p. 37.
  42. ^ 荒岱介 2001, p. 78.
  43. ^ 府川充男 2006, p. 51.
  44. ^ a b 府川充男 2006, p. 38.
  45. ^ 荒岱介荒岱介 2001, p. 82において、「三派全学連もまた、残念ながら全共闘運動の問題提起にこたえられなかったと私は思う。大衆運動を本質的に言って利用主義的にしか考えていない革共同両派。だがだからといって、その運動をブントが集約できたわけでもない。結局学生大衆は「ノンセクト・ラディカル」という、新しい学生運動の形態を選択する方向に向かっていったのだ」と述べている。
  46. ^ 日大全共闘だけで一万人近くいたという
  47. ^ 三派が分裂したあとの、反帝全学連委員長だった藤本敏夫はここで検挙され、その後獄中で加藤登紀子と結婚する。
  48. ^ 2005年、「本郷学生隊長」として安田講堂に立てこもった当事者の書物が出版された。島泰三『 安田講堂 1968‐1969』(中央公論新書 2005)
  49. ^ 小阪修平『思想としての全共闘世代』(ちくま新書 2006)
  50. ^ 『革命的な、あまりに革命的な-「1968年の革命」史論』p161参照、国文社
  51. ^ 『〈逃走〉するものの〈知〉』、雑誌『中央公論』1984年9月号
  52. ^ 神津陽 2007, p. 23.
  53. ^ 荒岱介が当時の社学同委員長だった。(荒岱介 2001, pp. 88–103)
  54. ^ 神津陽 2007, pp. 178–181、荒岱介 2001, pp. 48–52、荒岱介 2005, pp. 124–129古賀暹インタビュー
  55. ^ 神津陽 2007, pp. 212–218 塩見考也の独断だったと言う
  56. ^ 廣松渉が門松暁鐘のペンネームで書いた『現代資本主義論への一視覚』を理論的基盤としている。資本主義の破綻がおこらないという前提での運動を提示していた。古賀暹が除名される。その後67年に廣松渉から100万円の援助を受け、雑誌『情況』を創刊する。明治大学から出ていた三派全学連委員長斉藤克彦も解任。
  57. ^ 詳細は不明。関西ブント、特に塩見孝也と綱領論争が行われたらしい。マル戦派側の回想としては荒岱介 2005望月彰インタビュー参照。望月彰はさらぎ徳二がキャップを務める統一派に暴行を加えられ、岩田弘宅前に放り出される。実行したものには塩見考也もいた。
  58. ^ 佐野茂樹(一次ブント全学連副委員長)議長・高原浩之学対部長・旭凡太郎労対部長・塩見孝也大衆運動部長
  59. ^ 塩見は「過渡期世界論ー世界同時革命」を当時書き上げ、中大社学同機関紙「解放」に掲載した。(神津陽 2007, p. 214,226)
  60. ^ 吉本隆明の影響が強く、自立派と呼ばれた
  61. ^ 渥美文夫書記長 高原浩之学対部長
  62. ^ 2009年になって、塩見は「前段階蜂起」について足立正生市田良彦をインタビューワーとして、振り返っている。[1]
  63. ^ 翌日の共同通信配信の記事にはこうある。「〈沖縄デーの28日、沖縄返還を要求する集会やデモが沖縄現地をはじめ本土の東京や新潟札幌など各地でくりひろげられた。東京・代々木公園では夕方から沖縄連など三者共催による初の統一集会が平穏のうちに行われた。しかし反日共系学生4000人は“首都総反乱”を叫んで都内各所で実力行動に出て、佐藤首相の私邸を襲ったほか、東京駅や新宿駅の線路上に座り込むなどし、国鉄は一時ストップするという事態まであった。こうした学生の動きに対し警視庁は1万人を超す機動隊をくり出し、排除にあたったが、学生側と各所で衝突、警官、学生側に多数の負傷者を出した」
  64. ^ 荒岱介 2001, pp. 113–115.
  65. ^ 塩見孝也 2003によれば拡大中央委員会となっているが、誤認。>府川充男『覚書=「歴史的対象」としての第二次ブントと赤軍派』p151参照、雑誌『情況』2008年5月号
  66. ^ 吉本隆明の影響を受けていた。中央大学の三上治神津陽がリーダー格
  67. ^ 古賀暹によれば、雑誌「情況」は、党派とは独立したジャーナリズムであり「機関紙」ではないという。荒岱介 2005古賀暹インタビュー参照。
  68. ^ 荒によれば、赤軍派的な「漫画的」(荒)武装を目指すのではなく、厳格なレーニン主義的党を目指すことを主張していた。
  69. ^ この過程で「情況派」廣松渉も70年5月襲われ、一ヶ月ほど寝込む。廣松渉『哲学者廣松渉の告白的回想録』(河出書房新社2006)pp196-197
  70. ^ 小嵐p80
  71. ^ 議長塩見考也 軍事委員長田宮高麿八木副委員長、高原浩之組織部長
  72. ^ 社学同中央の指導機能自体が停止しているのだから各大学からなんとなく集まってきただけのものだった。(府川充男 2006, p. 38)
  73. ^ 遺言状を書いていたという。「お前いけ!行って死ね!」といわれて集まった人間が大半だったという。(塩見孝也 2003, p. 99)
  74. ^ 関西500人。(塩見孝也 2003, p. 101)
  75. ^ 全国的に見てノンセクト学生は黒色、すなわちアナキストのシンボルカラーのヘルメットを被るのが一般的であり、「赤ヘルノンセクト」の存在する大学は、60年安保後の「関西派」「独立派」の拠点校であったものが多い。


「共産主義者同盟」の続きの解説一覧


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「共産同」の関連用語

共産同のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



共産同のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの共産主義者同盟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS