共産主義との関係 - 分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 14:40 UTC 版)
「ルネ・シャール」の記事における「共産主義との関係 - 分裂」の解説
アラゴン、エリュアール、ブルトン、バンジャマン・ペレ、ピエール・ユニック(フランス語版)はすでに1927年に共産党に入党していたが、「第二宣言」で表明されたように、シュルレアリスムと共産主義との関係は複雑であった。とはいえ、少なくともこの頃には、シュルレアリストは、シャールも含めて、共産党が組織した活動に参加している。たとえば、シャールは1931年10月発行の『革命に奉仕するシュルレアリスム』第2号に「好き放題の豚ども」と題する詩を発表して、植民地主義者やいわゆる「死の商人」を激しく非難している。1931年5月から11月までポルト・ドレ(フランス語版)宮で植民地博覧会(フランス語版)が開催されたとき、共産党はこれに抗議して「植民地の真実」と題する「反帝国主義博覧会」を開催した。これと連動してアラゴンら共産党員5人を中心とするシュルレアリストが「植民地博覧会へ行ってはならない」と訴える小冊子を配布した。この運動にはシャールのほか、クルヴェル、イヴ・タンギーらも参加した。また、1930年にハルキウで開催された国際革命作家同盟 (UIER) の大会を機に、1932年3月にUIERのフランス支部「革命作家芸術家協会 (AEAR)」が設立し、これには反植民地主義の運動に参加したシュルレアリストのほか、マックス・エルンスト、ロベール・デスノス、さらにシュルレアリスト以外でもロバート・キャパ、アンリ・バルビュス、アンドレ・ジッド、ロマン・ロラン、ジャン・ゲーノ、ジャン・ジオノ、アンドレ・マルロー、ポール・ニザンら多くの知識人が参加した。こうした活動は、同年8月にバルビュスとロマン・ロランが呼びかけ、アムステルダムで開催された反帝国主義戦争国際会議、およびこの会議に参加した知識人がパリのサル・プレイエルを拠点とする反ファシズム労働者運動に合流して結成した反戦・反ファシズムのアムステルダム=プレイエル運動(フランス語版)へとつながっていった。ここでも中心的な役割を果たしたのは共産党であったが、一方で、シャール、ブルトン、エリュアール、クルヴェル、ペレは、「反戦のための動員は平和ではない」とするパンフレットを配布し、ナチズムの脅威を前にしてもなお(1933年にヒトラー内閣成立)、非戦を貫こうとする平和主義者を批判した。 このときすでにシュルレアリストの間でも分裂が生じていた。アラゴンがハルキウ会議を機に社会主義リアリズムに転じ、ソ連滞在中に書いた長詩「赤色戦線(フランス語版)」が掲載された国際革命作家同盟の機関誌『世界革命文学』のフランス語版がパリで押収され、翌1932年1月16日に「無政府主義の宣伝のために」、「軍隊に不服従を促し、殺人を教唆した」として告発された事件(アラゴン事件)で、シュルレアリストらはこれに抗議する署名運動を行ったが、アラゴンの転向に対しては1932年にブルトンが『詩の貧困』 を発表してこれを批判。シャール、クルヴェル、エリュアール、ペレ、エルンスト、ダリ、タンギー、トリスタン・ツァラもまた、『とんだ道化だ(アラゴン事件の終焉)』を発表してこの事件に決着を付けようとした。
※この「共産主義との関係 - 分裂」の解説は、「ルネ・シャール」の解説の一部です。
「共産主義との関係 - 分裂」を含む「ルネ・シャール」の記事については、「ルネ・シャール」の概要を参照ください。
- 共産主義との関係 - 分裂のページへのリンク