共産主義 歴史

共産主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 15:24 UTC 版)

歴史

共産主義の源流とされる思想の歴史は古く、プラトンの国家論[40][41]マズダク教の平等主義運動[42][43]キリスト教共産主義などの宗教における財産の共有、空想的社会主義と呼ばれる潮流における財産の共有、フランス革命でのジャコバン派、一部のアナキズムによる無政府共産主義などがある。19世紀後半にカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスが共産主義思想を体系化し、唯物史観を基本に生産手段の社会的共有と私有財産制の制限による共産主義革命を掲げた「マルクス主義(科学的社会主義)」が共産主義思想の有力な潮流となった[44]


十月革命の成功によるソビエト連邦の成立により、ウラジーミル・レーニンによる革命的な党の組織論などをマルクス主義に総合した「レーニン主義」が影響力を高め、後に「マルクス・レーニン主義」として定式化された。更にレフ・トロツキーによるマルクス主義の概念である「トロツキズム」、毛沢東による当時の中国の状況に適合させたマルクス主義の解釈である「毛沢東主義」など、マルクス主義は革命の起こった国の指導者の考えや国情により多数の思想や理論、運動、体制となり世界へ広まっていった[45]

ソビエト連邦の崩壊以降は「正統派マルクス主義」の影響力は世界的に大きく低下したが、マルクス主義または非マルクス主義の、各種の共産主義の思想や運動が存在し続けている。

空想的社会主義

19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモンシャルル・フーリエロバート・オウエンといった思想家達が、ユートピア構想に基づく社会主義的理論と、共同体の運営実験を行った。ロッチデール先駆者協同組合ニュー・ラナークはその試みの例である。彼らの思想はカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスにも影響を与えた。エンゲルスは彼らの思想を「空想的社会主義」と特徴づけた。

共産主義者同盟

共産党宣言

1834年、パリで君主主義に反対するドイツ人亡命者の秘密結社追放者同盟ドイツ語版が結成された。1837年カール・シャッパーヴィルヘルム・ヴァイトリングらが分裂し、正義者同盟を結成した。1838年に同盟では共産主義的綱領が採択され、最初の共産主義団体となった。やがて合法活動に転じたシャッパーと武装蜂起路線をとるヴァイトリングの対立が表面化し、同盟は分裂状態に陥った。

1846年2月にマルクスとエンゲルスはブリュッセルでブリュッセル共産主義通信委員会を結成した。マルクスらとシャッパー派は連携し、正義者同盟の再編を行った。1847年6月に正義者同盟は共産主義者同盟と改称し、再スタートを切った。シャッパーはマルクスとエンゲルスに綱領的文書の作成を依頼し、シャッパーの校閲を経た上で発表された。これが『共産党宣言(共産主義者宣言)』である。

第一インターナショナル

1866年、ジュネーブで社会主義者の国際組織第一インターナショナルが初開催された。この組織の中でマルクスの理論は次第に影響力を強めていくが、ピエール・ジョゼフ・プルードンミハイル・バクーニン等の無政府主義者と対立した。1872年にはマルクス派がバクーニンを除名し、第一インターナショナルは分裂した。

同じ頃ピョートル・クロポトキンは無政府主義の延長上にある無政府共産主義を唱え、幸徳秋水を始めとする世界の思想家に影響を与えた。

社会民主主義の成長と挫折

1889年にはマルクス主義派が中心となって第二インターナショナルが設立された。中心的な役割を果たしたのはドイツ社会民主党であり、カール・カウツキーが同党の中心的理論家として活躍し、マルクス主義の権威も高まった。しかし同党では1890年代プロレタリア独裁暴力革命を否定するエドゥアルト・ベルンシュタインらによる修正マルクス主義とカウツキーらの論争(修正主義・教条主義論争)が勃発した。後に修正主義の路線は社会民主主義へ合流していった。

マルクス主義はゲオルギー・プレハーノフによってロシアにも持ち込まれ、ロシア社会民主労働党のイデオロギーとなった。ロシア社会民主労働党のウラジーミル・レーニンは、ボリシェヴィキと呼ばれる分派を形成し、革命は少数精鋭の職業革命家により構成される前衛党に指導されるべきと主張し(レーニン主義)、これにメンシェビキやカウツキー、ローザ・ルクセンブルクらが反論して激しい論争が発生した。

しかし1914年第一次世界大戦が始まると、加盟政党は国際主義に基づく戦争反対の主張を放棄してそれぞれ自国政府の戦争を支持し、第二インターナショナルは崩壊した。戦争反対を貫いたのはボリシェヴィキのほかには、カウツキー、ベルンシュタイン、ルクセンブルクらが結成したドイツ独立社会民主党をはじめとするごく少数だった。

ロシア革命の成功と世界革命支援

ボリシェヴィキは1917年10月にロシアで武装蜂起を成功させ(十月革命)、権力を獲得した。1918年には党名をロシア共産党に変更し、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱した。土地の社会化や労働者統制などの政策を実施した。

一方ドイツ帝国では、1918年11月12日に皇帝ヴィルヘルム2世が退位すると、独立社会民主党のカール・リープクネヒトによって社会主義共和国の成立が企てられたが、戦争中から和平に転じた社会民主党が機先を制し、社会民主党主導の政府が成立した。同年12月、独立社会民主党から分裂したルクセンブルクとリープクネヒトによってドイツ共産党が成立し、ドイツ革命を目指したが翌年1月に鎮圧された(スパルタクス団蜂起)。

ロシア共産党は1919年コミンテルンを設立して世界各地の革命を支援した。この結果生まれたのがハンガリー・ソビエト共和国等であったが、大半が短期間のうちに消滅した(参照)。しかしコミンテルンの革命支援・共産党に対する指令の動きはその後も継続された。コミンテルン書記のカール・ラデックは、革命を起こすために各国の右派との連帯を目指すナショナル・ボルシェヴィズム路線を提唱し、ルール占領に反対するストライキなどで右派政党との協調路線をとらせた。

ペルーではホセ・カルロス・マリアテギが1928年にペルー社会党を結成したが、彼が『ペルーの現実解釈のための七試論』(1928年)で示した独自の理論は1929年にコミンテルンから否定され、1930年にコミンテルン支部としてペルー共産党が結成された。彼は生前は評価されなかったが、死後ラテンアメリカ先住民の復権を唱えたインディヘニスモラテンアメリカのマルクス主義者に大きな影響を与え、チェ・ゲバラセンデロ・ルミノソトゥパク・アマル革命運動などの後のラテンアメリカ左翼運動に影響を残している。

スターリン主義とトロツキー主義

内戦終結後の1922年ソビエト連邦[注 1]が成立した。1924年、ソ連でレーニンに代わって指導者となったスターリンは、マルクス、エンゲルスからレーニンへと受け継がれた世界革命の思想をソ連の現実に合わせる形で修正した(スターリニズム)。

マルクスやレーニンにとっては、共産主義革命とは世界革命であった。後進国の革命は先進国の革命と結びつくことによってのみ共産主義へ到達できるものとされていた。しかしスターリンは、1924年に発表された「十月革命とロシア共産主義者の戦術」の中で、ソ連一国だけでも社会主義を実現することが可能だとする一国社会主義論を主張した。そして、1936年スターリン憲法制定時に、ソ連において社会主義は実現されたと宣言した。コミンテルンの指導部もスターリンの影響下に落ち、社会民主主義を「ファシズムの双生児」と定義した社会ファシズム論が主張されるようになった。

スターリンは農業集団化を強引に進め、農民の抵抗が激しくなると、スターリンは1930年に、「共産主義が実現するにつれて国家権力は死滅へと向かう」というマルクス以来の国家死滅論を事実上否定し、「共産主義へ向かえば向かうほどブルジョワジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない」とした。

しかしコミンテルン支部である各国共産党による革命路線と社会民主主義勢力への攻撃は、各国での共産主義革命にはつながらず、結果的にはイタリアでのファシズムやドイツでのナチスの政権獲得を許したため、1935年にコミンテルンは左派の連帯をとる人民戦線戦術へと転換し、スペイン内戦で人民戦線政府を支援した。しかし1936年から1938年には大粛清がはじまり、共産党幹部を含めた数百万の人々が犠牲になった。コミンテルンの活動家も例外ではなく、ハンガリー革命の指導者クン・ベーラを始めとする多くの活動家が処刑された。

第二次世界大戦にあたっては、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』以来の国際主義を放棄し、ロシア人の愛国心に訴えかけて戦争を遂行した。ナチス・ドイツに勝利した後の1945年5月、赤軍指揮官を集めた祝宴の中でスターリンは、「私は、なによりもまずロシア民族の健康のために乾杯する。それは、ロシアの民族が、ソヴィエト連邦を構成するすべての民族のなかで、もっともすぐれた民族であるからである」と演説した。また連合国の警戒心を解くため、1943年にコミンテルンを解散した。

レフ・トロツキーと彼の支持者は、スターリンの一国社会主義論を強く批判し、ボリシェヴィキ内部で党内闘争を続けた末に敗れた。1929年にトロツキーはソビエト連邦から追放された。トロツキー派は変質したコミンテルンに変わる新しい国際組織として1938年第四インターナショナルを創設した。

社会主義国家陣営の成立

冷戦時の共産主義圏。赤はソビエト連邦及び親ソ派の共産党政権[注 2]。黄色は中華人民共和国及び親中派の共産党政権(アルバニア民主カンプチアのみ)。黒は中ソいずれにも属さない共産党政権(ユーゴスラビア北朝鮮ソマリアのみ)。

1945年の独ソ戦におけるソビエト連邦の勝利は、ソ連の影響下に置かれた社会主義国を多数生み出した。1947年、ソ連を含む東欧諸国の共産党はコミンフォルムを結成し、東側諸国を形成していくことになる。西側諸国との対立は深まり、冷戦が開始された。西側諸国の一部では共産主義者の追放(赤狩り)なども発生した。

1948年にはユーゴスラビア共産党非同盟運動を提唱してコミンフォルムを脱退、ソ連・東欧諸国とは一線を画した。同時に独自の自主管理社会主義を打ち出し、ソ連型とは異なる分権的な経済システムの構築を始めた。1949年には中国共産党国共内戦に勝利し、中華人民共和国を成立させた。1950年には朝鮮戦争が勃発し、冷戦期に多く見られる西側と東側の支援を受けた地域紛争の初例となった。

共産主義運動の多様化

スターリンが死んだ3年後の1956年、ソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフスターリン批判を行ってスターリンの権威を失墜させ、世界中の共産党に大きな衝撃を与えた。ソ連はスターリン体制の改革に動きだし、各国の共産党も追随した。

一方、中華人民共和国とアルバニアはスターリン死後のソ連の変質を、「修正主義」「社会帝国主義」と見なして激しく攻撃し、自らを反修正主義英語版として正当性を主張した。一方のソ連も毛沢東の人民弾圧を非難して、両国は厳しく対立することになった(中ソ対立)。ソ連の指導から離れた中国共産党は毛沢東の指導下で毛沢東思想を形成していくことになる。中ソ対立は世界中のコミンテルン直系の共産党に分断をもたらし、新左翼の間にも信奉者を生んだ。国家の政権を握った例では、アルバニア労働党クメール・ルージュが中華人民共和国側についた[注 3]

毛沢東の指導下の中国共産党は、事実上、国際的な共産主義潮流の分断を再びもたらした。毛沢東死後の中国では鄧小平が実践する鄧小平理論の下で社会主義市場経済が導入されたが、中華人民共和国が資本主義を導入して反修正主義的な毛沢東主義が顧みられなくなった1980年代以降も、ペルーインドネパールなどで毛沢東主義を掲げる共産党によって武装闘争が繰り広げられた。

また同年、ハンガリー動乱においてソ連率いるワルシャワ条約機構軍が民衆の蜂起を弾圧したことは、各国でソ連に対する失望を産むことになった。欧米や日本では新左翼(ニューレフト)と呼ばれる潮流が発生し、トロツキズムも影響力を拡大した。

1959年キューバ革命が成功すると、ラテンアメリカ、アフリカ、中東におけるソ連派と西側派の抗争が高まった。これらは「代理戦争」とも呼ばれる。ベトナム戦争コンゴ動乱アンゴラ内戦オガデン戦争などきわめて長期間に及ぶ大規模な紛争も発生した。ラテンアメリカでは、マリアテギやチェ・ゲバラ毛沢東思想等の多様な影響を受けた左派がゲリラを形成した。

1968年にはチェコスロバキアの改革の動き「プラハの春」が始まったが、再びワルシャワ条約機構軍によって鎮圧された。この事件はさらにソ連への失望を産むことになり、西欧の共産党はソ連型社会主義とは一線を画した、いわゆる「ユーロコミュニズム」と呼ばれる、市場経済や、個人の自由や民主主義を前提とした共産主義を目指して行く。その中心はイタリア共産党であったが、日本共産党も「自由と民主主義の宣言」によって、市民的自由や政権交代を含む多党制の擁護を明確にし、日本型社会主義のビジョンを提起する[注 4]

1977年頃、アルバニアのエンヴェル・ホッジャはアメリカと接近した中国とも訣別し、アルバニア派と呼ばれる独自のスターリン主義派(ホッジャ主義)を形成した。この潮流は、自分自身をスターリンの遺産の厳格な防衛者と定め、他の全ての共産主義集団を修正主義と激しく批判した。エンヴェル・ホッジャアメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華人民共和国を批判し、1968年にワルシャワ条約機構チェコスロバキアに軍事侵攻したプラハの春を非難した。ホッジャは1978年の中国との決裂後、アルバニアは世界で唯一のマルクス・レーニン主義国家となると宣言した。同様にソ連と距離を置く独自路線を行っていたユーゴスラビアのチトー主義や、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク、北朝鮮の金日成も批判したアルバニアは孤立を深めることになる。一方でこのアルバニアのイデオロギーは、 コロンビア人民解放軍ブラジル共産党など主にラテンアメリカで毛沢東主義の大きなシェアを獲得し、国際的な賛同者を産んだ[46]。この傾向は後にホッジャ主義と呼ばれた。アルバニアで共産主義者の政権が倒れた後、親アルバニア政党は国際会議のマルキストレーニスト諸派諸組織の国際会議英語版に参加した。

ソ連型社会主義の崩壊と各国の動向

ソ連や東欧の共産党政権は、1989年以降に次々と崩壊し、1991年にはソ連が解体された。

ソ連・東欧の共産主義政権崩壊の理由としては、社会主義国の経済の停滞が長く続き、西側から大きく引き離されてしまったこと、ゴルバチョフ政権が推進したグラスノスチにより共産貴族の腐敗の実態が暴露されたこと、衛星放送の普及などで国民が西側の豊かな生活を知ってしまったことなどがある。経済停滞の原因には、一党独裁・中央集権による官僚主義(ノーメンクラトゥーラ)や非効率、西側の封じ込め政策である禁輸、過度の軍需・重工業優先による民生部門(軽工業・流通・サービス・農業)の立ち後れなどがある。

中華人民共和国は、毛沢東が主導した大躍進政策文化大革命によって社会的混乱を経験した後、1970年代後半から主導権を握った華国鋒により西側諸国との国交を相次いで樹立し、次いで後継者となった鄧小平の指導で1980年代以降改革開放を進め、社会主義市場経済を標榜した。これは、資本主義と社会主義の混合経済とする見方もあり、毛沢東時代の横並び的な平等思想とは全く異なる。「鄧小平理論」として具現化されたこの考えは、ほぼ同時期に西側で行われたレーガノミクスサッチャリズム同様、一種のトリクルダウン理論だと考えられている。「発達した資本主義経済から社会主義経済へ移行する」というマルクス主義経済発展段階の学説に基づき、市場原理の導入によって経済を発展させ、それを基に社会主義社会を通して共産主義社会を目指すとしており、現在は資本主義社会から社会主義社会への過渡期であると主張している。しかし、鄧小平による改革開放路線採用以降、民工などの過酷な労働者の搾取が存在し、貧富の格差が増大するなど、その路線の問題点も指摘されている。

ベトナムは、ベトナム戦争期において、中ソ間の等距離外交に努め、両国の支援によりアメリカ合衆国と砲火を交え、これを撤退に追い込んだ。戦後は親ソ政策に舵を切り、また隣国カンボジアに侵攻して独自の原始共産主義を掲げる親中派のクメール・ルージュポル・ポト派)を駆逐したことで、中越戦争を招いた。さらに、カンボジア駐留の長期化により、国際的に孤立し、経済を悪化させた。

しかし、1986年にはドイモイ政策を掲げて市場経済を部分的に導入し、以降中国を除く他の社会主義国が急速に衰えていく中、逆に高い経済成長率を達成した[注 5]。ソ連崩壊の前後には、ベトナム共産党の党規約および憲法に「ホー・チ・ミン思想」を明記し、共産主義をベトナムの事情に合わせて解釈する独自路線を採用した[注 6]。その後は、アメリカや日本など西側諸国との関係を深め、またカンボジア問題の解決により中華人民共和国とも和解し、これらの国々と良好な状態を保っている。

北朝鮮は独自の主体思想を標榜し、ソ連・東欧の崩壊に伴う交易環境の悪化にもかかわらず体制を維持したが、経済は破綻、深刻な飢餓によって数百万の死者を出したといわれる。なお、2010年9月28日の第3回党代表者会で採択された朝鮮労働党の党規約では、「社会主義」や「マルクス・レーニン主義」は残されたものの「共産主義」の文言は削除されている。

冷戦終結後に最大の援助国ソ連を失ったキューバは、米国の経済封鎖下で深刻な経済危機に直面したが、都市部での有機農法での食料増産や省エネルギー政策で持ち直した。国民には民主化が不十分な事への不満は多いが、無料の教育や医療や、他のラテンアメリカ諸国への医療援助などで一定の支持を得ている。最近ではベネズエラなどのラテンアメリカ諸国との経済交流が進んでいる。

西側諸国では、冷戦期は社会主義に対する脅威もあり、労働法制の強化や、社会保障を充実させるなど、労働者の権利を認めざるを得なかったが、1980年代以降経済的な規制を緩め、市場原理主義を推進する新保守主義新自由主義)が台頭し、再び資本主義国の労働者が過酷な境遇に追い立てられている[要出典]。また国際通貨基金の介入により韓国、中南米諸国など中進国に導入された新自由主義は、先進国以上に深刻な貧困と社会的な分断を生み出した。これらの資本主義諸国における国会に議席を持つ共産主義諸党の多くは「自由と民主主義を土台にした共産主義」を主張している[注 7]

欧州評議会議員会議は2006年1月25日の1481号決議において、「20世紀に席巻し、現在でも依然としていくつかの国で権力を握っている全体主義的な共産主義政権(The totalitarian communist regimes)は、例外なく、大規模な人権侵害を行なってきた。そこには、強制収容所、人為的な飢饉、拷問、奴隷労働およびその他の組織的暴力などによる個人および集団の殺害、また、民族的または宗教的迫害、良心や思想を表明する言論の自由表現の自由への侵害、報道の自由の侵害、政治的多元主義の欠如などが含まれる。」「全体主義的共産主義体制における犯罪は、階級闘争理論とプロレタリア独裁の原則の名の下に正当化されてきた。共産主義の敵として排除された膨大な数の犠牲者は自国民であった。」「これらの犯罪は、ナチズムの犯罪のように、国際社会によっていまだ裁かれていない。その結果、共産主義政権の犯罪に対する諸国民の認識は非常に乏しく、一部の国では、共産党は合法政党であり、活動的な場合もある。」 「欧州評議会は、共産主義体制の犯罪を強く非難するとともに、共産主義体制の犠牲者の苦しみに同情し、理解することは倫理的な責務であると考える。」と決議した[48]


  1. ^ 正式な表記「Советский Союз」は日本語では「ソビエト連邦」と訳されるが、「Сoюз」は「同盟」という意味を持つ。詳しくはソビエト連邦#名称を参照
  2. ^ 衛星国含む。
  3. ^ 日本では日本共産党(左派)や一部の日本の新左翼など。
  4. ^ ユーロコミュニズムと基本的には同様の傾向をもつが、非同盟平和主義を正面に押し出した点が異なる。
  5. ^ ただ、1990年代後半以降、その急激な経済成長が祟って慢性的な電力不足に陥っている[要出典]
  6. ^ 党の公式的な見解では「マルクス・レーニン主義の創造的適用」と説明される[47]
  7. ^ スペイン共産党などユーロコミュニズムの流れをくむ諸政党、日本共産党など。






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