牧野伸顕
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牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元年10月22日〉 - 1949年〈昭和24年〉1月25日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある[1]。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)[注釈 1]。
注釈
出典
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- ^ 茶谷 2013, pp. 226–231
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、29頁。
- ^ 国立国会図書館専門資料部 編『斎藤実関係文書目録』 書類の部 2 (昭和期・日記・伝記資料等)、国立国会図書館、東京〈憲政資料目録 ; 第18〉、1995年3月、170,195頁。全国書誌番号:95066348。ISBN 4-87582-424-6p.170「斎藤内閣・岡田内閣」。p.195、軍縮「57 斎藤実宛抗議文 §(2)牧野内大臣に呈するの書 其一 紫雲荘 昭和五年七月一四日 活版 二枚」「68 奇怪なる牧野内大臣及び鈴木侍従長の行為 昭和五年 謄写 同文二綴」「69 統帥大権干犯、国防破壊に関する内大臣牧野伸顕一派の策動経過 謄写 一綴」。
- ^ 猪野三郎監修『第十二版 大衆人事録』(昭和12年)東京・六一四頁
- ^ 『歴史REAL 敗者の明治維新』(洋泉社、2018年)
- ^ 佐藤朝泰 著 『豪閥 地方豪族のネットワーク』159頁
- ^ 茶谷 2013, pp. 6
- ^ 茶谷 2013, p. 18
- ^ 茶谷 2013, p. 188
牧野伸顕
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牧野伸顕伯爵は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。 河野寿大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査は、牧野伯爵を裏口から避難させたのち、襲撃部隊に対して拳銃で応射し、遅滞を図った。これにより河野大尉が負傷したが、皆川巡査も重傷を負った。このとき、牧野伯爵の付き添い看護婦であった森鈴江が皆川巡査を抱き起こして後送しようとしたが、皆川巡査は既に身動きが取れず、また森看護婦も負傷していたことから、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した。なお、このとき重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。 脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。なお襲撃の際、旅館の主人・岩本亀三および従業員八亀広蔵が銃撃を受けて負傷している。 なお吉田茂の娘で牧野の孫に当たる麻生和子は、この日牧野を尋ねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されているが、脱出に至る経緯については上の記述とは異なった内容となっている。
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