1942
1942
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ドイツ空軍は、緒戦の数日間で制空権を獲得し、これに対し赤色空軍は、極東方面から1000機以上の戦闘機と戦闘爆撃機を投入し反撃にうつった。Il-2シュトゥルモヴィーク(対地攻撃機、襲撃機)がドイツ戦車隊と壮絶な戦闘を展開した。赤色空軍は1942年になると高中度からの対地攻撃の有効性に気付き、一つの目標に高中度からの連続攻撃を繰り返す新戦術を採用。また回転サークルと呼称する陣形を導入し、対地攻撃の効果を飛躍的に上げ、損害率も減少した。一方で爆撃機や偵察機の不足から、対地攻撃機が爆撃任務や偵察任務を任されることが増え、Il-2は様々な局面に投入された。回転サークルはドイツ空軍戦闘機隊との戦闘が考慮され、効果的な応戦が可能となっていたが、攻撃離脱時の隙が最大の弱点となっていた。結果、攻撃離脱時を狙われて撃墜されるパターンが増加し、Il-2の全損失数のうち8割が戦闘機による損失だった。無線の不足により護衛戦闘機の配備も効果をあげられなかった。 第11親衛襲撃機航空師団長A.G.ナコネチニコフ大佐は「…襲撃機が敵戦闘機と戦うことなど全く不可能であり…『襲撃機隊員は決死隊も同然だ』と公言する者さえおり、勇気の欠如した一部搭乗員は、自らの命を惜しむあまり怯懦な振舞いを恥じぬようになりつつある」と証言している。襲撃機隊がドイツ空軍の戦闘機により大きな損害を被ったことを受け、1942年10月にはUBT[ベレジン汎用旋回機関銃]を装備した複座型Il-2の生産が開始された。複座型により損害率は減少したが、照準の困難さから対地攻撃能力は低下した。現場での戦術が改良されると同時に、航空軍の効率的な運用がはかられ、赤色空軍の組織改革が実施された。 1942年5月5日に第1航空軍が創設されたのを皮切りに、同じ年の末までには、他の正面軍所属の航空隊も全て航空軍へと改組されていった。同時に、最高司令部の予備戦力たる航空軍団が編成され、さらに混成航空師団と混成航空連隊を同一機種の部隊へ再編するという作業が行われた。 しかし1942年には熟練搭乗員の損失による練度の低下が深刻となり、ドイツ空軍との技量の差が戦場であきらかとなった。赤色空軍の戦闘機隊は空戦機動の技量が極めて稚拙であり、陣形も連携も無視してバラバラに戦った。 1942年9月スタフカ代表G.K.ジューコフ上級大将と全ソ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記G.M.マレンコフ、赤色空軍総司令官ノヴィコフ将軍が、最高総司令官I.V.スターリンに宛てて赤軍戦闘機隊の活動に関する報告書を送付した。 「小職らは直近の6~7日にわたり、我が戦闘機航空隊の活動を観察した。数多くの事例から判断するに、我が戦闘機航空隊の戦いぶりは極めて拙劣であると断言せざるを得ない。敵戦闘機より数倍の優勢にある時でさえ、我が軍の戦闘機は戦いを挑もうとしないのである。また襲撃機の護衛任務を与えられた場合であっても、やはり敵戦闘機に対して向かっていこうとはせず、結果として敵に自由な襲撃機攻撃と撃墜の機会を与えている。この間、我が軍の戦闘機は離れたところを飛んでいるか、すぐに離脱して基地へ帰ってしまう状況すらしばしば生じている。遺憾ながら、この報告内容は、いくつかの固有事例にとどまるものではない。我が軍は、上述の如き戦闘機隊の恥ずべき振る舞いを、毎日のように目撃しているのである。小職らも自らの目で10を下らぬ事例を確認することとなった。一方、戦闘機隊の評価すべき行動は一度たりとも観察できていない…」 戦闘機隊の技量だけでなく両軍の戦闘機の性能にも大きな差があった。ドイツ軍の戦闘機はプロペラ・エンジン自動制御ユニットを搭載し、燃料と空気の混合や冷却水及び潤滑油の温度、過給機とプロペラの回転速度を自動的に調節できた。搭乗員は空戦機動に専念することが可能であり、調整を手動で行うしかない赤色空軍の戦闘機隊に対しドイツ空軍は大きなアドバンテージを持っていた。 赤色空軍の研究委員会は赤色空軍がドイツ空軍相手に航空優勢を保つには2倍の戦力が必要だと結論付けている。 スターリングラードの戦いがはじまると赤色空軍は一つの戦区に航空支援を集中させるやり方を採用した。航空支援の不足はドイツ軍に防衛ラインを再編する余裕を与え、赤軍の攻勢を頓挫させる大きな要因となっていた。大規模な戦果を期待するなら、地上の諸兵科軍が行動する場所と時間に合わせ、前線の狭い範囲に空軍の大部隊を投入しなければならないという認識は、今や赤軍航空隊と諸兵科軍の全ての指揮官に共有され、空軍と地上軍の共同作戦を組織化し、対地攻撃機の運用法を改良することが求められていた。地上からの航空誘導・指揮用の無線機材が持ち込まれ、空軍から派遣された連絡将校が地上の攻勢軍に同行した。スターリングラードの戦いでは地上軍と空軍の組織的協力が実現し、赤軍は枢軸軍の防衛ラインを破り包囲することに成功した。空中でも赤色空軍戦闘機隊が反撃に転じていた。1942年秋まではドイツ空軍がかろうじて優位であった制空権も、季節が冬に入ると、暴風雪や霧の影響で稼働率が極端に下がった。1942年末の1週間におけるドイツ軍の損害の約半数が天候による事故であったという。これに反し赤色空軍は「冬将軍」という味方とともにYak-9D戦闘機やPe-2爆撃機を中心に反攻し、ドイツ機500機と1000人のパイロットを殲滅した。ここに至り、スターリングラードの制空権を奪回した。この逆転劇を可能にした要因には、天候に恵まれた事だけでなく、レニングラード他の工場が壊滅的に破壊されたあとでも、東部のカザンやクイビシェフといった僻地へ工場を疎開移転し新鋭機を製造し続けることができた事、初期の損害の大部分が地上撃破によるもので、搭乗員の損害があまり無く再編後一線に補充し得た事、連合国よりの機体の供与を受けられたことなどがあげられる。両国の航空機生産にも大きな差がひらきつつあり、1942年度のソ連の戦闘機生産は、おおよそ9300機で、これに連合国より供与されたトマホークやハリケーンを含む援助機が2200機あった。これに対し、ドイツの1942年度の戦闘機生産は4600機にすぎなかった。
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「ニューオーリンズ (重巡洋艦)」の記事における「1942」の解説
真珠湾攻撃後、ニューオーリンズは機関修理を切り上げ、4基の内3基を動かしてジョンストン島およびパルミラ環礁への輸送船団の護衛に就いた。その後、新型レーダーと20ミリ機銃の装備のため1942年1月13日にサンフランシスコに回航された。整備が終わると、ニューオーリンズは2月12日にブリスベン行きの輸送船団をヌメアまで護衛した後に真珠湾に向かい、第11任務部隊に合流した。 4月15日、第11任務部隊はニューヘブリディーズ諸島で空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊(英語版)(フランク・J・フレッチャー中将)と合流。巡洋艦・駆逐艦部隊とともにオーストラリアおよびニュージーランドを突かんとする日本軍の南進を阻むべく行動した。5月7日から8日にかけて発生した珊瑚海海戦では、ニューオーリンズは、被弾して大きく損傷し炎上する空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) に横付けしてレキシントンの乗組員を救助した。ニューオーリンズがレキシントンの乗組員580名を救助し終わって離れた直後、レキシントンは大爆発を起こし如何ともし難い状態になった。ニューオーリンズはヌメアでレキシントンの乗組員を上陸させた後、東ソロモンを経て真珠湾に帰投した。 5月28日、ニューオーリンズはエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6)、ホーネット (USS Hornet, CV-8) 基幹の第16任務部隊(レイモンド・スプルーアンス少将)とともに真珠湾を出撃し、6月2日にミッドウェー島北東海上で第17任務部隊と合流。2つの任務部隊は南雲忠一中将率いる第一航空艦隊を中心とする日本艦隊と激突。ミッドウェー海戦が生起した。第一機動部隊の三空母、赤城、加賀、蒼龍がクラレンス・マクラスキーのSBD ドーントレスの奇襲により炎上後、残った飛龍からの攻撃隊がヨークタウンを襲い、3発の爆弾を命中させた。飛龍を撃沈して4空母を壊滅させたが、ヨークタウンも大きく損傷して放棄された。ニューオーリンズは海戦で損傷することもなく真珠湾に帰投した。 7月7日、ニューオーリンズは空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) 基幹の機動部隊を護衛して真珠湾を出撃し、フィジーを経由してソロモン方面に向かった。8月24日から25日にかけては日本機の空襲に見舞われたが、撃退した(第二次ソロモン海戦)。8月26日、ニューオーリンズはガダルカナル島に上陸した部隊の援護に務め、珊瑚海海戦からおよそ2ヶ月ぶりに珊瑚海で行動した。8月31日にサラトガが伊26の雷撃で損傷すると、ニューオーリンズはサラトガを護衛して9月21日に真珠湾に帰投した。
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「タスカルーサ (重巡洋艦)」の記事における「1942」の解説
1942年1月6日、タスカルーサはウィチタおよび駆逐艦グレイソン (USS Grayson, DD-435) およびメレディス (USS Meredith, DD-434) とともに出撃し、デンマーク海峡で訓練を行った後ボストンに向かい、1月8日から2月20日までボストン海軍工廠でオーバーホールに入った。オーバーホール後、タスカルーサはカスコ湾で訓練を行った後ニューヨークに向かい、戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) 基幹の第39.1任務群(ジョン・W・ウィルコックス(英語版)少将)に合流した。第39.1任務群はカスコ湾からスカパ・フローに向かったが、その途中の3月27日、ワシントンの艦内からウィルコックス少将の姿が消えた。タスカルーサは、ワシントンの左舷側から嵐の大西洋の中に人が転落するのを目撃していた。ウィルコックス少将の行方不明により、第39.1任務群の指揮権はギッフェン少将に移譲された。 タスカルーサは4月4日にスカパ・フローに到着し、まずイギリス海軍制式の信号と連携を取る訓練が行われた。その後、イギリス本国艦隊(ジョン・トーヴェイ大将)との訓練に従事した後、ソ連向けの輸送船団の護衛に出動した。この頃、英米軍はノルウェーのフィヨルド内で静まり返るティルピッツの誘い出しを試みていた。しかし、誘い出しは成功しなかったばかりか、1942年6月にはPQ17船団が大損害を受けた。ソ連向け船団の運行は約2ヵ月停止し、その間、船団の運用方法について検討された。 8月中旬、タスカルーサはソ連向けの航空魚雷、弾薬および医療機器を含んだ物資を運ぶため、駆逐艦2隻に護衛されてコラ半島に向かったが、1人の乗組員が髄膜炎の兆候を見せたため、セイジスフィヨルズル (Seyðisfjörður、セイディスフィヨルドとも) で件の乗組員を降ろした上で8月19日に出港した。翌日、タスカルーサはドイツの偵察機に発見されたが、進路を変えた上で悪天候の中に姿をくらませることによって、敵襲を避けた。8月22日に2隻のイギリス駆逐艦がタスカルーサに合流し、翌日、出迎えのソ連海軍の護衛艦の誘導を受けてコラ半島に入った。タスカルーサは物資を下ろし、代わりに243人の船客を乗せた。この船客の大部分は、先のPQ17船団の受難における生存者だった。8月24日、タスカルーサはコラ半島を後にして、28日にセイジスフィヨルズルに到着。クライド川河口に向かい、船客を降ろした。その後、タスカルーサは本国艦隊から外れ、ハヴァルフィヨルドを経由してアメリカに帰国し、短期間のオーバーホールを受けた。 11月8日に開始されたトーチ作戦において、タスカルーサは第34.1任務群(ギッフェン少将)の一艦としてウィチタや戦艦マサチューセッツ (USS Massachusetts, BB-59) とともにカサブランカ沖でヴィシー政権海軍と交戦(カサブランカ沖海戦)する一方、カサブランカの港湾やヴィシー政権側の船舶に対して艦砲射撃を行い、船舶は港内でのた打ち回っていた。港内にいた戦艦ジャン・バールは稼動可能な主砲で沿岸砲台とともに反撃したが、やがて空襲により沈黙させられた。タスカルーサはジャン・バールからの反撃と潜水艦の雷撃を受けたが被害なく、補給の後カサブランカ沖で哨戒を行い、改装のためアメリカに戻った。
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「スワニー (護衛空母)」の記事における「1942」の解説
1ヵ月後、スワニーはハンプトン・ローズを出撃し、トーチ作戦に参加するため北アフリカ海域に向かった。途中でレンジャー (USS Ranger, CV-4) と合流したスワニーは、中央攻撃部隊とともにフェドハラ(モハメディア)(英語版)近海を通過して北方から主目標であるカサブランカを目指した。11月8日早朝、モロッコ沖に到着したスワニーは、数日間にわたってF4F ワイルドキャットを飛ばして空中哨戒と対潜哨戒を行い、TBF アヴェンジャーはレンジャーの航空機と合同で爆撃任務に就いた。11月8日から11日にかけて繰り広げられたカサブランカ沖海戦の間、スワニーの航空機は255回出動し、戦闘行為で3機、運用上の事故で2機を喪失した。 11月11日、スワニーの哨戒機はフェドハラ・ローズ(英語版)でUボートを発見して攻撃し、撃沈したと報告した。しかし、実際にはその潜水艦は、カサブランカから出撃してきた3隻のヴィシー政権側の潜水艦のうちの1隻だった。いずれにせよ、スワニーは対潜攻撃で初めて戦果を挙げた護衛空母となり、護衛空母による対潜任務が十分に通用する事を立証した。 スワニーは11月中旬まで北アフリカ海域で行動した後、バミューダ諸島経由でノーフォークに向かい、11月24日にハンプトン・ローズに帰投した。その後、12月5日に出港して南太平洋に向かった。スワニーは12月11日から12日にかけてパナマ運河を通過し、1943年1月4日にニューカレドニアに到着した。
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「ポートランド (重巡洋艦)」の記事における「1942」の解説
日本軍による真珠湾攻撃当日、第12任務部隊(空母レキシントン、重巡シカゴ、ポートランド、アストリア、駆逐艦5隻)は、アメリカ海兵隊の航空機を輸送するためミッドウェー島に向かう途中だった。南雲機動部隊を捕捉撃滅するため反転してハワイ近海にもどり、また重巡インディアナポリス(ブラウン中将旗艦)も第12任務部隊に合流した。索敵をおこないつつ、12月14日真珠湾に帰投した。 1942年(昭和17年)初頭、アメリカ海軍は健在の空母を活用して、日本軍の進攻を阻止しようとしていた。だが大型空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) は1月12日に伊6に雷撃されて大破した。ポートランドは1942年(昭和17年)5月まで西海岸、ハワイ、フィジーで作戦活動を行った。南太平洋に進出したポートランドは、フレッチャー提督が率いる第17任務部隊(英語版)の指揮下にはいり、トーマス・C・キンケイド少将率いる攻撃部隊に所属して、空母ヨークタウン(フレッチャー提督旗艦)と空母レキシントン(フィッチ提督旗艦)を護衛した。 この頃、日本軍の南洋部隊(指揮官井上成美中将、第四艦隊司令長官)はパプアニューギニアのポートモレスビー占領を目指してMO作戦を発動し、珊瑚海に展開した。第17任務部隊も珊瑚海に進出し、日本軍と激突する。これが珊瑚海海戦である(珊瑚海海戦、両軍戦闘序列)。5月7日、クレース(英語版)少将が率いるクレース部隊(英語版)が日本軍輸送船団撃滅のため分離したので、ヨークタウンとレキシントンの護衛艦艇はさらに減ってしまった。 5月8日の戦闘で、日本軍のMO機動部隊に所属する第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)より69機の攻撃隊が発進し、第17任務部隊に攻撃をおこなう。ポートランドを含め、各艦は空母2隻を守りきれなかった。7日から8日にかけての航空戦で日本側は軽空母祥鳳(5月7日)が沈没し、空母翔鶴が損傷した。アメリカ側は5月7日にタンカー1隻と駆逐艦1隻が沈没、8日の戦闘で空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) が沈没し、空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)が損傷した。レキシントンは駆逐艦フェルプスにより雷撃処分され、ポートランドはレキシントンの生存者722名を救出した。第17任務部隊は南方へ離脱した。 ポートランドは、新艦長ローレンス・T・デュボース大佐を迎えた。5月31日、第17任務部隊は真珠湾を出撃した。続くミッドウェー海戦における重巡2隻(ポートランド、アストリア)はひきつづきフレッチャー提督が率いる第17任務部隊に所属し、空母ヨークタウンの護衛をおこなった。本作戦には空母2隻(エンタープライズ、ホーネット)を基幹とする第16任務部隊(司令官スプルーアンス提督)が参加し、先任のフレッチャー提督が空母3隻を指揮した(ミッドウェー海戦、戦闘序列)。 日本時間6月5日(連合軍時間6月4日)の戦闘で、まず日本側主力空母3隻が被弾炎上すると、第二航空戦隊司令官山口多聞少将は唯一健在の空母飛龍から攻撃隊を発進させた。第17任務部隊(空母ヨークタウン、重巡アストリア、ポートランド、駆逐艦部隊)は輪形陣を形成し、重巡2隻はヨークタウンの斜め前両舷に配置されていた。アメリカ側はF4F ワイルドキャットと各艦の対空砲火で九九艦爆12機を撃墜したが、ヨークタウンに爆弾3発が命中した。フレッチャー提督は旗艦をアストリアに変更した。ポートランドはヨークタウンの曳航を命じられたが、ヨークタウンの応急修理が成功して行動可能になったので、曳航はとりやめられた。 しばらくすると友永丈市大尉が率いる飛龍第二次攻撃隊(零戦6、艦攻10)が出現し、第17任務部隊を攻撃する。アストリアとポートランドは、第16任務部隊から派遣された4隻(重巡ペサンコーラ、ヴィンセンス、駆逐艦ベンハム、バルチ)と共に、速力20ノット程度のヨークタウンを護衛した。F4Fの邀撃や対空砲火で友永隊長ふくめ艦攻5機と零戦3機を撃墜したが、ヨークタウンに魚雷2本が命中した。ヨークタウンは放棄され、乗組員は護衛艦艇に移乗した。アストリアやポートランドを含めて各艦は第16任務部隊に合流した。駆逐艦ヒューズ(英語版)だけがヨークタウンにつきそった。アメリカ軍は曳船ヴィレオ(英語版)と駆逐艦5隻でヨークタウンの曳航を試みたが、伊号第百六十八潜水艦に捕捉される。伊168の雷撃よって空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンが沈没した。連合軍側は空母1隻と駆逐艦1隻の沈没と引き換えに、日本側主力空母4隻と重巡三隈を撃沈して勝利した。 ヨークタウンが沈没したので、ポートランドは新鋭戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) および新型軽巡洋艦アトランタ (USS Atlanta, CL-51) と共に第16任務部隊(司令官トーマス・C・キンケイド少将)に配備され、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) を護衛する。フレッチャー中将率いる第61任務部隊(英語版)には、空母3隻(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)が所属していた。8月7日から9日にかけて、第61任務部隊はソロモン諸島のガダルカナル島とツラギ島に上陸する海兵隊の支援を行う(ウォッチタワー作戦、連合軍戦闘序列)。その後、第61任務部隊は同海域に留まり連合軍の補給線の防衛任務に従事した(第一次ソロモン海戦)。 8月23日から25日にかけて行われた第二次ソロモン海戦(連合軍呼称、東ソロモン海戦。両軍戦闘序列)では、連合軍は第18任務部隊(空母ワスプ基幹)を燃料補給のため後退されており、第17任務部隊(空母ホーネット基幹)も真珠湾を出撃したばかりで間に合わなかった。フレッチャー提督は手持ち空母2隻(サラトガ、エンタープライズ)で日本艦隊を迎え撃った。艦上機と基地航空隊の空襲により空母龍驤と輸送船金龍丸および駆逐艦睦月を撃沈し、日本軍のガダルカナル島への増援を阻止することに成功した。日本側も第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)から九九式艦上爆撃機を基幹とする攻撃隊を送り込む。第11任務部隊(旗艦サラトガ)が日本艦隊と距離をとったので、第16任務部隊(エンタープライズ、ノースカロライナ、ポートランド、アトランタ、駆逐艦隊)が一航戦攻撃隊の矢面にたった。F4Fの邀撃に加えて、直衛艦は対空砲火で九九艦爆を次々に撃墜した。だが、翔鶴艦爆隊が弾幕を突破して空母エンタープライズに爆弾3発を命中させ、数発の至近弾を与えた。エンタープライズは中破して後退を余儀なくされ、同艦所属機はガダルカナル島ヘンダーソン基地に配備された。修理のためエンタープライズは戦線を離脱し、9月10日真珠湾に到着した。 その後ポートランドは一旦引き返し、部隊に再合流するためアトランタ級軽巡洋艦サンフアン (USS San Juan, CL-54) を伴って南太平洋に向かった。その途中の10月15日、マーロン・S・ティスデール(英語版)少将指揮下のポートランドとサンフアンはタラワ南方を通過中、砲撃訓練を兼ねてタラワ近海の日本軍艦艇を襲撃する。日本軍タラワ守備隊は接近するポートランドを日本軍輸送船と勘違いしており、砲撃開始直前にようやく異変に気付いた。測量艦筑紫に至っては、発砲されるまでポートランドを最新鋭の大和型戦艦武蔵と思っていたという。ポートランドは、まずタラワ在泊の測量艦筑紫に対して艦砲射撃を行い、次いでタラワに入港しつつあった特設巡洋艦浮島丸(大阪商船、4,730トン)、特設給糧艦日立丸(日産汽船、6,540トン)、駆逐艦夕凪(第29駆逐隊)に対して砲撃を行った。さらにSOCシーガル水上観測機を発進させ、着弾観測や小型爆弾による空襲を実施させた。ポートランドの砲撃や空襲により、筑紫の内火艇が沈没した他、日立丸の便乗者に死傷者が出た。タラワでは艦砲射撃がはじまると共に、同島守備隊の横須賀鎮守府第六特別陸戦隊が民間人抑留者を含む捕虜22名を処刑してしまった。『戦史叢書62巻』では「横六特司令は、この米巡洋艦の来襲を、当時各島掃蕩の際、捕えた捕虜の奪還の前兆と判断していた。」と記述している。 約30分間の艦砲射撃後、ポートランドはタラワ島の目前で水上偵察機を回収し、同島から離れていった。ポートランドはタラワのほかアベママ(英語版)、マイアナの両環礁に対しても砲撃を行い、サンフアンも赤道以南のギルバート諸島内を遊弋する。日本軍の特設監視艇2隻が配備点で「敵巡洋艦と交戦」を報告したあと行方不明となった。この巡洋艦がサンフアンであった。日本側は反撃のため九七式大艇と一式陸攻を繰り出したが、アメリカ巡洋艦2隻は立ち去った後だった。 10月26日の南太平洋海戦(連合軍呼称、サンタクルーズ諸島沖海戦。両軍戦闘序列)において、戦艦サウスダコタ(USS South Dakota, BB-57)、重巡ポートランド、軽巡サンフアンはキンケイド提督が指揮する第16任務部隊に所属し、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) を護衛した。26日朝、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)第一次攻撃隊の攻撃により、第17任務部隊の空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) が戦闘不能となった。つづいて一航戦第二次攻撃隊の攻撃で、エンタープライズに爆弾3発が命中、雷撃により駆逐艦ポーター (USS Porter, DD-356) が沈没、駆逐艦2隻が被弾機に突入された。ポートランドには魚雷3本が命中したが、不発であった。一航戦第二次攻撃隊は「翔鶴隊:敵航空母艦一隻爆撃六弾命中、続イテ攻撃セル瑞鶴艦攻隊ノ成果ト相俟テ之ヲ撃沈ス 駆逐艦一隻大破炎上 敵機一機撃墜」「瑞鶴隊:航空母艦一(エンタープライズ型)撃沈、戦艦一(サウスダコタ型)轟沈、巡洋艦一(艦型不詳)撃沈、駆逐艦一大破 敵機八機撃墜」と報告した。このあと第二航空戦隊(空母隼鷹)攻撃隊や一航戦第三次攻撃隊の空襲があったが、アメリカ側に決定的な損害はなかった。一連の戦闘で連合軍側は空母ホーネットと駆逐艦ポーターを喪失する。空母エンタープライズ大破の他に、戦艦サウスダコタ、軽巡サンフアン等が若干の被害をうけた。 2週間後、ポートランドは第三次ソロモン海戦に参加する。万全の状態ではなかったエンタープライズは、ハルゼー提督から「ガダルカナル島南方に留まり、ソロモン諸島の北方海面に進出してはならない」と命令されていた。11月12日、ダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将の巡洋艦と駆逐艦戦隊が護衛するアメリカ軍高速輸送船団(ターナー提督)はガダルカナル島に到着、ルンガ岬沖合で揚陸作業を開始した。連合軍艦隊は一式陸上攻撃機による二度の空襲を撃退したが、12日の対空戦闘で旗艦サンフランシスコ(USS San Francisco, CA-38)が小破、同士討ちで駆逐艦ブキャナン(英語版) (USS Buchanan, DD-484) が損傷、輸送船3隻が小破した。 この時、日本陸軍第38師団のガダルカナル島輸送に関連し、同島のヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を実施するため、連合艦隊は第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する金剛型戦艦2隻(比叡、霧島)を中核とした挺身攻撃隊を送り込んでいた。アメリカ軍は高速輸送船団を避退させると共に、同部隊を護衛していた巡洋艦戦隊を金剛型戦艦にぶつけた。キャラハン少将の指揮する巡洋艦戦隊(重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦8隻)は、不満を抱きながら金剛型戦艦に立ち向かった。これが第三次ソロモン海戦の第一夜戦である。アメリカ側の問題は、旧式のSCレーダーを乗せた重巡サンフランシスコと軽巡アトランタが二人の将官の旗艦であり、最新のSGレーダーを装備した3隻(ポートランド、ヘレナ、ジュノー)が単縦陣の後方に配置されていたことだった。 11月13日午前0時頃よりはじまった夜戦は大乱戦となり、「停電した酒場の乱闘」と化した。1時58分、ポートランドは右舷に魚雷の直撃を受ける。スクリュー2本を損傷し舵は5度右に傾いた。また3番砲塔の揚弾筒が損傷し砲塔は旋回不能となった。舵の損傷はバラスト調整による角度修正で補われたが、航行要員の補充は行えず、艦は右方向への旋回を余儀なくされた。1度目の旋回が終わろうとするとき、比叡が炎上する他の艦の炎によって照らされる。ポートランドは前方の砲塔で射撃を行った。比叡も応射したものの命中することはなく、ポートランドは8インチ砲4門による一斉射撃で比叡に直撃弾を与えた。 日米双方とも大損害を受けたあと健在艦や行動可能艦は撤退を開始、アメリカ側艦隊も動けるものは撤収し、行動不能になったポートランドとアトランタなどが戦場に残された。午前6時30分、依然旋回中であったポートランドは、サボ島の南で損傷した時雨級駆逐艦1隻を発見した。ポートランドは放棄された駆逐艦夕立(第2駆逐隊) の船体に対して6マイルの距離から砲撃を行う。駆逐艦五月雨(第2駆逐隊)は夕立乗組員を収容したあと同艦自沈処分のため現場に留まっていたが、敵重巡洋艦の接近を見て戦場を離脱していった。6度目の一斉射撃の後、爆発がおこり、夕立は沈没した。このときサボ島周辺で舵復旧につとめていた比叡は、ルンガ方面距離約24Kmに損傷巡洋艦を発見した。後部主砲で、この巡洋艦を砲撃した。比叡の砲撃は命中しなかった。 ポートランドはアイアンボトムサウンドからの離脱に成功した。上陸用舟艇および港内哨戒艇、タグボートの支援を受け、ポートランドは11月14日にツラギ島に停泊した。続いてオーストラリアのシドニーに曳航され応急修理が施される。サモアおよび真珠湾を経由して、1943年3月3日にメア・アイランド海軍造船所に到着した。ローレンス・T・デュボース艦長は少将に昇進し、ポートランドに別れを告げた。
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「1942」の例文・使い方・用例・文例
- 1942年に準備された秘密の米国のプロジェクトのコード名で、第二次世界大戦で使用する原子爆弾を開発するためのもの
- 第二次世界大戦における日本の敗北(1942年5月)
- 第二次世界大戦の激戦(1942年)で、ロンメル率いるドイツ軍隊に対して、モンゴメリー率いる英国軍により連合軍の決定的な勝利に終わった
- 第二次大戦中の太平洋での戦い(1942年−1943年)
- 第二次大戦中の海戦(1942年6月)
- 人種的平等のためにジェームス・レオナルド。ファーマーによって1942年に作られた機関
- 1942年にフェルディナンドとイザベラによって占領されるまで、ムーアの王国の首都であったスペイン南部の都市
- 米国のプロボクサーで、3度、世界ヘビー級チャンピオンになった(1942年生まれ)
- 米国の作曲家、劇作家で、愛国的な歌で有名(1878年−1942年)
- 白昼の襲撃に際し東京上空に16台の爆撃機の戦隊を先導することで1942年に世界にショックを与えた米国空軍将校(1896年−1993年)
- 米国の市民権運動の指導者で、1942年に人種平等会議を設立した(1920年生まれ)
- イタリアの原子物理学者(1939年以降、米国)で、中性子衝撃によって引き起こされる人工放射能に取り組み、1942年に初の制御された核反応を実現したグループを率いた(1901年−1954年)
- 英国の理論物理学者(1942年生まれ)
- 米国のギタリストで、エレキギターによる革新的なスタイルがロック・ミュージックの発展に影響を及ぼした(1942年−1970年)
- 米国の暗くユーモラスな小説の作家(1942年生まれ)
- 米国の作家(1942年生まれ)
- 英国の人類学者(ポーランド生まれ)で、関与的観察者の技術を導入した(1884年−1942年)
- 英国のロックスター、ベース奏者、ソングライターで、ジョン・レノンとともにビートルズの音楽の大部分を書いた(1942年生まれ)
- カナダ人の小説家(1874年−1942年)
- 米国の映画製作者(1942年生まれ)
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