阪神タイガース 球団の歴史

阪神タイガース

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球団の歴史

戦前

1935年
1934年12月26日に創設された「大日本東京野球倶楽部」のオーナー・正力松太郎は、複数球団による職業野球リーグ結成を画策していた。特に三大都市圏東京市大阪市名古屋市)でのリーグ戦開催を目指していたことから、当時日本最大の球場であった甲子園球場を所有する阪神電気鉄道に球団創設の誘いがかかり、実際に阪神を親会社、甲子園を本拠地とした球団の設立が決定した。
10月22日門前眞佐人との入団契約[2]を皮切りに山口政信藤村富美男藤井勇といった中等野球のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、12月10日に「大阪野球倶楽部」が発足した。
1936年
1月9日コロムビア若林忠志と契約。1月10日にチーム名を「大阪タイガース」(おおさかタイガース、Osaka Tigers)に決定。2月28日立教大学景浦將と契約。4月19日の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。2月5日には日本職業野球連盟が結成された[注釈 1]
1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場宝塚球場にて3大会が行われた[3]。東京巨人軍がアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しておらず、名古屋金鯱軍も途中内外遠征を行ったため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。
夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった[4]。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋に24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京巨人軍と並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した[5]
1937年 - 1939年
1937年春は41勝14敗1分、勝率.745で2位。日本プロ野球史上、シーズン勝率7割以上にもかかわらず優勝を逃したのはこのケースが唯一である。1937年秋、1938年春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、球団史上初かつ球団史上唯一の2シーズン連続の優勝を達成した。更にその2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京巨人軍を破り、年間優勝2連覇を達成した[6]。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前から戦中は常に東京巨人軍と優勝争いを繰り広げる強豪チームだった。1938年春にあげた勝率.829(29勝6敗)は日本プロ野球史上、シーズン勝率最高記録となっている。
1939年、この年は全球団に勝ち越しながら優勝を逃すという、日本プロ野球史上初めてのケースとなった。
1940年 - 1945年
9月25日日米および日英関係の悪化に伴う日本野球連盟の方針により、敵性語とされた英語の使用自粛のため、球団名を阪神軍(はんしんぐん)に改称した。日中戦争太平洋戦争の激化に伴う徴集および召集拡大化により選手数が不足する苦しい状況となる。1944年は監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた[7]。戦争が激化する中、1944年の総進軍大会、ならびに1945年年1月の正月大会(非公式大会)に猛虎(阪神軍と産業軍の合同チーム)の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。

戦後

大阪タイガース時代

1945年 - 1946年
第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。
1947年 - 1948年
1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者が並ぶ強力打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番・藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「ミスタータイガース」と称された。
1948年には藤村が対金星戦(甲子園)で日本プロ野球初のサイクル安打を達成。
1949年
チーム順位が6位にもかかわらず藤村がMVPを受賞した。オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし、最終的には反対派に回り、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。更に遊撃手長谷川善三西鉄クリッパースへ、門前眞佐人大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。
1950年
1950年、若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男藤村隆男梶岡忠義白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。なお、このシーズンより二軍チームを創設した。
1951年 - 1958年
1952年フランチャイズ制度が正式に導入され、保護地域が兵庫県となった。
チーム再建のため、二軍設備の充実や本格的なスカウト制度の導入などの改革により世代交代の準備を進めた結果、吉田義男渡辺省三小山正明田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。
この間、松木は1954年限りで監督を退任。球団は後任にプロの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。助監督だった藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村の監督退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2か月近くを要した。
藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。それに伴って藤村は現役に復帰するも翌1958年限りで引退、藤村の背番号10球団初の永久欠番となった。
1959年
6月25日の対巨人11回戦(後楽園)は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄のサヨナラ本塁打で、4-5で敗戦。4年連続の2位に終わる(中日と同率2位[注釈 2])。
1960年
藤本勝巳が最多本塁打・最多得点の二冠を獲得した。しかし5月〜8月にかけてBクラスに沈むなど最終的にチームは3位に終わる。

阪神タイガース時代

1961年
1952年から兵庫県を保護地域とし、二軍が1954年から阪神ジャガーズ、1957年から阪神タイガースと称していたこともあり、1961年4月1日に商号「株式会社阪神タイガース」、球団名・阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)と改称した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。この年は、4位に終わる。
1962年
藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で勝ち続け、10月3日に甲子園で行われた広島カープとの試合で勝利し、2リーグ分裂かつフランチャイズ制導入後初めて本拠地で、通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果、2勝4敗1分で敗退した[8]
1963年
7月までBクラスに沈むが8月からAクラス入り。しかし巨人と中日の首位争いに加わることができず勝率は5割に1勝足りず3位に終わる。
1964年
エース小山と毎日大映オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋めた。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という状況で8連勝し公式戦最終日の9月30日(ダブルヘッダー第1試合)に逆転で6回目の優勝(最終的に9連勝)。しかし日本シリーズでは、リーグ優勝決定の翌日から開催という強行日程になり、南海ホークスに先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫するなどして、3勝4敗で敗れている。
1965年 - 1969年
1965年から1967年まで3年連続の3位。1968年と1969年は、いずれも巨人と優勝争いを繰り広げるも結果はいずれも巨人の優勝を許し、1968年は巨人と5ゲーム差、1969年は巨人と6.5ゲーム差の2年連続2位に終わる。1966年、藤本は杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年まで監督を務め、同年オフに勇退。後任には後藤次男が就任。
第1次村山監督時代
1970年 - 1972年
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊田淵幸一のバッテリー、吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなった藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手がそろったが、巨人が9年連続日本一のV9時代で、1970年・2位→1971年・5位→1972年・2位と優勝する事ができなかった。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。
第2次金田監督時代
1973年
金田が正式な監督に就任して巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日ドラゴンズ戦で、2対4で敗戦、甲子園での最終戦でも0対9と敗れて、巨人が9年連続優勝となった。
1974年
田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。
第1次吉田監督時代
1975年
吉田義男が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀島野育夫らとのトレードで南海へ放出。
1976年
当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンマイク・ラインバック掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。
1977年
序盤は好調だったが、4月には6連勝のあと6連敗、6月には6連敗のあと8連勝と、大型連勝と大型連敗を何度も繰り返すなどチームの調子が安定せず、特に対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。遠井吾郎が現役を引退した。遠井の引退により、大阪タイガースに所属した選手が全員引退した。オフに吉田は監督を辞任。
第2次後藤監督時代
1978年
後藤が2度目の監督に就任したが、球団史上初の最下位に終わり、後藤は責任を取る形で1シーズン限りで解任[9]。オフに小津正次郎が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵と古沢憲司西武ライオンズ竹之内雅史真弓明信若菜嘉晴竹田和史との交換トレードで放出。更に空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓ドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。
ブレイザー監督時代
1979年
球団で唯一の外国人監督ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣の対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に広島に離されて4位に終わる。
中西監督時代
1980年
新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。後任には中西太が就任したが、5位に終わる。
1981年
優勝した巨人と8ゲーム差の3位。江本孟紀が「ベンチがアホやから野球ができへん」と首脳陣批判をして退団したのがこの年。
安藤監督時代
1982年
安藤統男が監督に就任。優勝した中日と4.5ゲーム差、2位の巨人と3ゲーム差で2年連続の3位(但し勝利数では優勝した中日を上回った)。掛布雅之の本塁打、打点の二冠王や山本和行がストッパー転向が成功したり、6月に11連勝するなど、明るい話題もあったが、一方でこの年は島野育夫柴田猛の両コーチが審判に暴行を加えて(横浜スタジアム審判集団暴行事件)無期限出場禁止処分を下されたり(翌年解除)、若菜嘉晴がスキャンダル問題で退団するなどトラブルも相次いだ。
1983年
ランディ・バースが加わった打線は抜群の破壊力を見せつけたものの、投手陣はいまいち伸び悩み、この年限りで小林繁が現役を引退した。
1984年
ルーキーの池田親興の躍進、南海から移籍の山内新一の活躍でも前年限りで引退した小林繁の穴を埋めきれず、2年連続4位。オフに安藤は監督を辞任、吉田義男が二度目の監督就任。
第2次吉田監督時代
1985年
開幕投手を2年目の池田に任せざるを得ないほどに、昨年から大きな弱点であった先発投手陣の手薄さという大きな弱点が改善されず、開幕当初はファンの間でも優勝への期待は薄かった。しかし主に1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(「ニューダイナマイト打線」)が先発投手陣の手薄さを補って余りある大活躍をし、4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が巨人の先発の槙原寛己からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。この年は最終的に本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録し[注釈 3]、夏場まで首位を快走していた。しかし、8月12日に発生した日本航空123便墜落事故で球団社長の中埜肇が犠牲となり[注釈 4]、阪神タイガースのナインたちもこの事故機(JA8119)に直前のフライト(福岡羽田日本航空366便)で搭乗していたため[注釈 5][注釈 6]、選手たちは大きな衝撃を受けて一時は大型連敗を喫して首位陥落した。しかし、広島、巨人との首位争いの中で強力打線に加えて中西清起福間納山本和行らのリリーフ投手陣も1年を通して大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)に引き分けて、21年ぶりのリーグ優勝が決定[10](詳細は「1985年の阪神タイガースのリーグ優勝」を参照)。バースが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってから初の日本一達成となる。また、セ・リーグは翌年からの日本シリーズに3年連続で西武に敗退したため、阪神は「昭和最後のセ・リーグ日本一球団」となった。
1986年
バースがシーズン打率.389、シーズン長打率.777、7試合連続本塁打、13試合連続打点の日本新記録をマーク、2年連続三冠王を獲得し、ルーキーの遠山昭治が8勝を挙げ台頭したが、掛布と池田親興の負傷による長期戦線離脱、更に岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島と巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。この年、川藤幸三が引退。
1987年
投手陣は新外国人のマット・キーオが孤軍奮闘したものの、先発ローテーションの池田、仲田幸司らが不振で大きく負け越し、山本和行、中西清起らリリーフも失敗が目立った。バースは無冠ながら好調を維持し打線を支えたが、掛布の負傷及び不振、岡田の不振などが響き9年ぶりの最下位となり、吉田は監督を解任され[11]村山実が監督就任。勝率.331は球団史上最低勝率である。
この年から2001年にかけて15年間で10回の最下位を経験する暗黒時代を迎えることになる。
第2次村山監督時代
1988年
監督の村山実和田豊大野久中野佐資による「少年隊」で売ろうとするなど世代交代を進めたが、バースが長男の病気問題で退団、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。
この年の元号暦は昭和63年、つまり昭和最後のペナントレースだったため、阪神は「昭和最後のセ・リーグ最下位球団」になったのと同時に当時の12球団の中で、近鉄バファローズ日本ハムファイターズ、南海、ロッテオリオンズと共に「昭和時代に1度も本拠地で日本一になれなかった球団」となった[注釈 7][注釈 8]
1989年
セシル・フィルダーが本塁打王争いをするが、シーズン途中に三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。マット・キーオが15勝を挙げ、中西がシーズン途中に先発転向し10勝を挙げるも、仲田、池田らが不振。5位に終わり、村山が監督を辞任、中村勝広が監督に就任。
中村監督時代
1990年
前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調で、特にパリッシュは8月まで本塁打王を狙える位置にいたが8月末に怪我を理由に突然の引退退団をしてしまった。投手陣は年間通して不振に終わり、主にロングリリーフを務めた3年目の野田浩司がチームトップの11勝(12敗)を挙げたが、エースのマット・キーオが中村勝広監督とそりが合わず怪我もあり不振。オフには自由契約になる。結局は、先発陣で規定投球回に到達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという結果に終わる。チームは2年ぶりの最下位。オフに福岡ダイエーホークスと4対5の大型トレードで大野久、池田らを放出。大野、池田は新天地で活躍するも、獲得した5選手は全くといっていいほど翌年以降の戦力にならなかった。
1991年
開幕5連敗、6月に球団ワースト新記録の10連敗(それまで当時の12球団で唯一、2桁連敗がなし)を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗で、目の前で広島に優勝を決められて2年連続最下位となった。しかし、終盤戦で猪俣・葛西稔といった若手投手の台頭で、5連続先発投手完投勝利を収めた。
1992年
この年は暗黒時代で唯一のAクラス入りを果たし、ヤクルト、巨人、広島との四つ巴の優勝争いとなる。衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績の無い亀山努新庄剛志の両外野手に加え、和田、八木裕山田勝彦、入団2年目のトーマス・オマリー、大洋から移籍してきたジム・パチョレック新人王に輝いた久慈照嘉ら若手・中堅が活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。また、甲子園のラッキーゾーンを撤去して外野が広くなった事が功を奏し、6月にノーヒットノーランを達成した湯舟敏郎の他、中込伸、野田や14勝を挙げ勝ち頭となった仲田の先発陣や、中継ぎのルーキー弓長起浩、抑えの田村勤らこちらも若い投手陣が軸となり、リーグトップ防御率2点台を記録するなど、一時は首位と成るも終盤に田村の負傷離脱を始め投手陣の駒不足に遭いヤクルトとの優勝争いで競り負け、2年連続で目の前で優勝を決められた。広島には9年ぶりに、中日には6年ぶりに勝ち越したが巨人と同率ながら2位となった。オフ、野田浩司との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブ松永浩美を獲得。
1993年
4位。オマリーが首位打者を獲得。松永は3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立した一方で、怪我での離脱が多く80試合の出場に終わり、オフにFA福岡ダイエーホークスへ移籍。前年最多安打最多勝利打点だったパチョレックが途中退団。また岡田は自由契約を言い渡されオリックスに移籍した。一方、バルセロナオリンピック銀メダリスト郭李建夫がこの年に入団。オフには、新人として藪恵市、FAでオリックス石嶺和彦が加入し、MLB通算226本塁打のロブ・ディアーを年俸2億7000万円で獲得。
1994年
2年連続の4位(ヤクルトと同率タイ)。藪恵市がチームトップの9勝を挙げ新人王を獲得。新外国人のディアーは2億7000万円の大型扇風機といわれるほど極度の不振で8月に退団。同年オフ、オマリーが長打力不足などを理由に解雇され、ヤクルトへ移籍。
1995年
1月17日に発生した阪神・淡路大震災の影響で本拠地の甲子園の使用も危ぶまれたが、オープン戦が終わる頃には修繕工事が完了。チームもキャンプに選手が全員揃わないなど調整遅れも懸念されたが、オープン戦では大型連勝を記録するなど好調だったが、ペナントレースが開幕すると開幕5連敗スタートと頓く。浮上するきっかけを作れず7月23日に監督の中村が休養(その後辞任)し、併せて藤田平が監督代行として指揮を執ることを発表した。しかしチームの状態が改善することなく球団ワースト記録となる84敗を喫した。チーム本塁打は88本で4年連続セ・リーグ最下位であった。オフに真弓が現役を引退し、監督代行の藤田が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した。新庄が藤田との確執などが原因で野球に対するセンスがないなどと発言し、引退を宣言するが、病気になっていた父親を励ますためにという理由ですぐ撤回。
さらにこの年はサンテレビボックス席が阪神の創立60周年を記念し、阪神の60勝はいつかというクイズを出したところファンの多くは出来ないなどと解答し、的中した年でもある。最終結果は46勝と暗黒時代が始まった1987年の41勝に次ぐ過去2番目のひどい成績に終わっている。
藤田監督時代
1996年
2年連続最下位。5月終了時点で既に借金15に達していた。個人としては、桧山進次郎がチームトップの22本塁打を記録。2年目の川尻哲郎が13勝、3年目の藪が初の二桁勝利を挙げる。しかし、藪と湯舟が二年連続でリーグ最多敗戦ともなる。藤田は9月12日に監督解任を通告され(藤田が監督解任を受け入れたのは翌13日)[12]、チーフ兼バッテリーコーチの柴田猛が後任を務め、シーズンオフには、吉田義男が3度目の監督に就任。中西と木戸が引退。新人として今岡誠が入団。観客動員は200万人を割り、28年ぶりの赤字となった[12]
第3次吉田監督時代
1997年
打撃陣の主力として期待していた当時最高額の年俸3億円新外国人のマイク・グリーンウェルが開幕前に故障離脱し復帰後わずか数試合でまたしても故障・「引退しなさいという神のお告げを聞いた」と僅か7試合で突然退団・帰国。和田が開幕戦からの連続安打日本記録(24試合連続安打)を樹立。テスト入団の伊藤敦規を筆頭に中継ぎ陣が試合を作り健闘したが先発の駒不足や打撃陣の力不足がたたり、ヤクルトに目の前で優勝を決められて5位に終わったが、2年連続で最下位脱出を果たした。オフに久慈照嘉、関川浩一大豊泰昭矢野輝弘との交換トレードで中日に放出。中日を自由契約になった3年連続首位打者の実績があるアロンゾ・パウエルを獲得。新人として坪井智哉井川慶が入団。
1998年
吉田監督は大砲にこだわりすぎたことを疑問視され、そのためか盗塁数が28と極めて少なかった。期待された打線も不発に終わり、前年レギュラーとして多く出ていた平塚や桧山が新加入しながら不振の大豊やパウエルとの兼ね合いで控えに回る等ポジション被り等も相まって空回り、前年奮闘した投手陣も軒並み不振や故障離脱が目立ち、8月には球団ワーストとなる12連敗を記録するなどし、2年連続で目の前で優勝を決められての最下位。個人としては、5月26日に川尻が対中日戦で矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成、シーズンも2年ぶりの2桁勝利を記録。藪も2桁勝利しプロ入りシーズン初の勝ち越しを達成。坪井智哉は2リーグ制分立後の新人最高打率(.327)を記録。坪井は中日の川上憲伸、巨人の高橋由伸、広島の小林幹英と新人王を争った。新人王は川上が獲得したが、川上以外の3人も新人王に値する活躍と評価され、3名とも新人特別賞を受賞している。2年目の今岡誠も坪井との1、2番コンビとして好成績を挙げた。オフに吉田は監督を辞任し、後任にこの年までヤクルトの監督を務めた野村克也が就任した。
野村監督時代
1999年
チームは6月9日に中日を抜き1992年10月4日以来2209日ぶりに首位に立つなど(優勝した中日以外唯一首位に立った)、一週間首位をキープした。また、6月12日の巨人戦では新庄が敬遠球を打った劇的なサヨナラ試合もあった。だが、8月6日には最下位転落すると、その後は浮上するきっかけさえも得られず2年連続の最下位となった。さらに9月11日の巨人戦からは12連敗(2年連続ワースト記録)を喫した。また、藪がリーグ最多敗戦投手となり(16敗)、1955年 - 1959年に大洋ホエールズが記録した「同チームからの5年連続リーグ最多敗戦投手」のNPB記録と並んだ(1995年・1996年の藪と湯舟→1997年の川尻→1998年の中込→1999年の藪)。その一方で、二軍がファーム日本選手権を制し初の日本一となった。個人としては、前年テスト入団で復帰した遠山奬志カムバック賞を受賞した。シーズン前には西武から佐々木誠が加入。シーズンオフには、オリックスから星野伸之がFAで入団した。また、巨人から広澤克実、ヤクルトから野村克也の息子であるカツノリを獲得した。
2000年
4月に9連勝して2年連続首位に立ったもの、しかしこの年も月を重ねるごとに大敗の試合が増えたことによって球団初の3年連続の最下位に終わる。5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛西川慎一、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンを獲得した。オフに新庄がFAでMLBニューヨーク・メッツ、大豊が契約交渉の決裂の結果、古巣の中日に復帰。佐々木誠、フランクリンらが退団。チーム本塁打1位から3位(1位新庄28本・2位大豊24本・3位タラスコ19本)が全員退団する事態となった。湯舟敏郎山﨑一玄北川博敏との3対3トレードで近鉄から酒井弘樹面出哲志平下晃司を獲得した。
2001年
4年連続最下位、監督野村克也としては3年連続最下位に終わった。就任長打力が大幅に弱体化した打線を、走力で補うため新人の赤星憲広藤本敦士ら俊足の若手を重用。個人としては、井川慶福原忍と並びチーム最多の9勝を挙げ防御率はリーグ2位を記録、赤星が退団した新庄に代わる正中堅手に定着して盗塁王、新人王を獲得、前年ロッテからテスト入団した成本年秀がクローザーとして復活しカムバック賞を受賞、桧山がここ数年の不振を脱却して4番に定着し初のシーズン打率3割を達成した。シーズン途中、交換トレードで西武から谷中真二、新外国人トム・エバンスを獲得し谷中は7勝を挙げ伊藤と並びチーム最多タイの貯金4つを記録した。しかし、この年のチーム最多本塁打はクルーズの14本という状況であり、投手陣も新戦力が台頭した一方で藪や川尻らベテラン勢が軒並み大不振に陥った。シーズン後に吉田剛、酒井弘樹が退団、塩谷和彦をトレードで放出。10月の発表時点では野村の監督続投が決定していたものの[13]、その後野村沙知代夫人の脱税容疑による逮捕の責任を取る形で急遽監督を辞任し、辞任から1年後となる2002年11月にシダックス監督に就任する[14]。後任にはこの年まで中日の監督を務めていた星野仙一が就任。オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムの片岡篤史が加入。
前年からのリーグ最下位から合わせて阪神は「20世紀最後と、21世紀最初のセ・リーグ最下位球団」となった。
この年で暗黒時代は一応終わり、最下位も平成時代では2018年に金本知憲が記録するまで経験しなくなる。
星野監督時代
2002年
1990年以来12年ぶりに開幕戦を勝利で飾るなど、開幕7連勝でスタートし、巨人と首位争いを繰り広げていたものの、レギュラー選手に相次いで故障離脱が続出。特に赤星・矢野の離脱が致命的でセンターラインを失ったチームは徐々に失速。最終的には4位に終わり、主力と控えの戦力差に課題を残した。しかしチームとしては5年ぶりに最下位を脱出。シーズン中にエバンスと西武の橋本武広の交換トレードを行い、オフに「血の入れ替え」とも称される大改革を決行し大量20人が退団。ドラフトでは江草仁貴久保田智之ら12名を指名、FAで広島の金本知憲、トレードで日本ハムの下柳剛野口寿浩らを獲得。新外国人としてジェフ・ウィリアムスを獲得。さらにニューヨーク・ヤンキース等で活躍した伊良部秀輝が加入。ウェーバー公示を経て久慈が復帰した。
2003年
第三次ダイナマイト打線」と称された強力打線を擁し、開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させる。マジック点灯以降は故障者が続出したことで対中日戦で同一カード7連敗や2度の5連敗などを喫するなどやや失速するも、9月15日に1985年以来18年ぶりのリーグ優勝を果たした。これにより、セ・リーグ全球団が平成時代にリーグ優勝をした。また、巨人に1985年以来18年ぶり、ヤクルトには1990年以来13年ぶりに勝ち越した。20勝を挙げた井川慶がMVPを受賞。日本シリーズ福岡ダイエーホークスと対戦するが、甲子園でのゲームを全て勝利した一方で、福岡でのゲームを全て落とし、3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、星野が体調不良を理由に監督を退任し、シニアディレクター(SD)職に転ずる。また、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一、達川光男西本聖は退団した。岡田彰布が後任の監督に就任[15]。ドラフトでは自由獲得枠で鳥谷敬を獲得。
第1次岡田監督時代
2004年
球団成績は4位。10月4日、井川がノーヒットノーランを達成、シーズン後は藪恵壹がFAでMLBオークランド・アスレチックスへ移籍、伊良部、アリアスが退団、ジェロッド・リガン八木裕が引退した。オフに広島からアンディ・シーツが移籍。
2005年
本拠地・阪神甲子園球場で応援するファンの様子(2005年)
ジェフ・ウィリアムス藤川球児久保田智之の3人を「勝利の方程式」に抜擢。驚異的な成績を残し、やがて名前の頭文字をとって「JFK」と呼ばれた3人を中心とした投手陣はリーグトップのチーム防御率を記録。この年から導入されたセ・パ交流戦を経て首位に立つと、2位中日に首位を明け渡すことなく、2003年以来2年ぶりのリーグ優勝を果たした。赤星が5年連続の盗塁王、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝、今岡が球団新記録の147打点を挙げて打点王、金本がMVPを獲得した。しかし、千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは史上初の3試合連続2桁失点を喫し、計4試合で33失点と投手陣が大炎上した。頼みの綱である打線も打点王の今岡と盗塁王の赤星が.143、MVPの金本が.077で第4戦の4回までヒットが出ず12打席連続ノーヒットに加えその第4戦で4度もダブルプレーを喫し1イニングもリードを奪う事ができず、0勝4敗と史上5チーム目の[注釈 9]ストレート4連敗で敗退となった。
2006年
夏場の苦戦が響いて中日にマジック点灯を許すが、一時戦線離脱していた藤川球児が復帰第一戦の8月27日の巨人戦で好投して連敗を止めてからは反撃に転じ、結果的には2位に終わるも、優勝した中日を最後まで苦しめた。片岡が現役を引退した。なお、この年には日本ハムに所属していたSHINJOが現役を引退したため、ラッキーゾーンがあった時の甲子園球場時代に在籍した選手が全員引退した。井川がポスティングシステムでMLB・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍。MLBからエステバン・ジャンライアン・ボーグルソンを獲得。
2007年
4月から5月にかけて9連敗し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷。借金は最大で9とした一方で、7月を15勝6敗、8月を12勝8敗1分で勝ち越し、9月中旬には巨人、中日と首位を争う事もあった。最終的に3位となり、新設のクライマックスシリーズ(CS)進出を果たした。6年ぶりに勝ち越した中日とのCS1stステージを0勝2敗で敗退。この年は、12球団断トツの中継ぎ陣防御率2.45とJFKを筆頭に強力な中継ぎ陣を武器にした一方で、本来中継ぎ陣をカバーしなければならない先発投手陣が12球団で唯一規定投球回をクリア出来ない始末に加えて、チーム打率・チーム総得点も12球団中最下位だった。上園啓史が新人王を獲得。シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一が入団。
2008年
4月12日に新井貴浩が通算1000本安打、金本が通算2000本安打を達成。5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成。開幕から5連勝を果たして首位を独走し、6月4日から6連勝も記録して6月7日に貯金20として交流戦は優勝した福岡ソフトバンクと並んで15勝9敗の好成績。7月に入ると、7連勝を記録し、6日に両リーグ最速の50勝到達、7連勝目を達成した7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジック46[注釈 10]を点灯させる。しかし、北京オリンピック期間中に日本代表として新井、藤川、矢野を派遣し、中軸、バッテリーの主力を欠いた状態で後半戦がスタートすると、8月4日から5連敗と出鼻を挫かれ北京五輪期間中は5勝8敗と負け越し。しかも新井が五輪に強行出場した事で腰椎の疲労骨折が発覚し、帰国後も戦列復帰ができなくなる。8月30日の巨人戦から8・9月だけで2度目の5連敗を喫すると、8月はシーズン初の月間負け越し。9月は先発投手が挙げた勝ち星が両リーグでシーズン最下位に沈んだ横浜とソフトバンクよりも少ない12球団ワーストの3勝と苦しみ、打線もシーズンが終盤に差し掛かるにつれて得点力が落ちて、9月・10月の計108得点はリーグワースト。投打が噛み合わないまま、夏以降復調してきた巨人の猛追に遭うと、9月19日からの直接対決3連戦で同一カード3連敗を喫し、9月21日に同率で首位に並ばれる。その後は一進一退の攻防の末9月の月間成績は11勝11敗と五分で、首位はキープするものの、巨人との差は僅か0.5ゲーム差で、9月の月間成績が17勝5敗の巨人に勝ち数では80勝で並ばれると、10月3日の東京ヤクルト戦で6回まで5-0とリードして7回からJFKを全て登板させながら逆転負け。この負けが尾を引き、同率首位同士で迎えた10月8日の巨人との直接対決も敗れて141試合目にして遂に首位から陥落。2日後に巨人が東京ヤクルトに勝ち、阪神が横浜に3-4で逆転負けしたことで、巨人の逆転優勝を許す結果となった。CS1stステージでは京セラドーム大阪[注釈 11]で中日と対戦するが、藤川球児がウッズに本塁打を打たれるなどして1勝2敗で2年連続の1stステージ敗退。シーズン後、岡田は優勝を逃した責任を取って監督を辞任。真弓明信が後任となった。野口寿浩がFAで横浜に移籍。
真弓監督時代
2009年
WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田の故障や、藤川の不調もあり前半戦は低迷。6月に途中加入したクレイグ・ブラゼルや、開幕前にロッテから移籍した久保康友、7月以降先発ローテーションに定着した能見篤史らの活躍もあって、後半戦では8カード連続で勝ち越しを決めるなど巻き返すも、最終戦でヤクルトに連敗し4位に終わり、CS進出を初めて逃した。この年はベストナインゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしであった。3賞で受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者なしも2000年以来9年ぶり。9月12日に行われた横浜戦で内川の打球をダイブした際に負傷し、中心性脊髄損傷の診断を受けた赤星が現役を引退した。藤本がFAでヤクルトに移籍、今岡、ウィリアムスらが退団した。シアトル・マリナーズから城島健司ランディ・メッセンジャーコロラド・ロッキーズからマット・マートンなどを獲得。
2010年
マートン、城島らが加わり、「球団記録の1試合22得点」「2リーグ制以降では球団史上最高のチーム打率.290」「3割打者と90打点以上達成者が5人ずつ[注釈 12]」「セ・リーグ新記録の1458安打」「チーム史上5位の173本塁打」 「170安打以上が4人[注釈 13]」といった爆発的な破壊力で「第四次ダイナマイト打線」と称された打線で中日、巨人との首位争いを展開。しかし、中日に対しナゴヤドームで2勝10敗と大きく負け越した事に加え、投手陣は能見の負傷もあって規定投球回に到達したのが久保1名のみ、チーム防御率もリーグ4位という状況で、抜け出すには至らず、シーズン終盤には徐々に中日に離されていく。9月には2位ながらも一時的に優勝マジックも点灯し[16]、29日の巨人戦に勝利したことで巨人のリーグ4連覇の可能性は消滅させたものの、翌30日の横浜戦で9回に逆転負け。これにより優勝マジックと自力優勝が消滅すると同時に、この試合は長年正捕手を務めた矢野の引退試合でもあり、逆転を許したことで花道として試合終盤に予定していた矢野の出場機会も失われ、大きなショックを残す試合となった[17]。10月1日の広島戦も敗れて中日の優勝が決定。最終的には首位中日と1ゲーム差の2位に終わった。初めて甲子園で行われたCS1stステージの対巨人戦は、いずれも先制しながら0勝2敗で敗退した。矢野が現役引退。星野仙一SDが東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任する為退団。個人記録としては、鳥谷が104打点で遊撃手のプロ野球記録を樹立、マートンが214安打でシーズン最多安打記録を更新[注釈 14]。4月18日の横浜戦では金本の連続フルイニング出場記録が1492試合で途切れた。FAでロッテの小林宏之、楽天の藤井彰人を獲得。
2011年
3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕日が当初の3月25日(神宮球場での対ヤクルト戦)から4月12日の甲子園での対広島戦に変更となり、阪神にとって1993年以来18年ぶりの甲子園開幕戦。これを7-4で制し、40年ぶりの甲子園での開幕戦勝利を挙げた。投手では本格的に先発転向したメッセンジャーが能見と並ぶ12勝を上げる。月間成績は6月から8月まで連続で勝ち越し、8月終了時には2位になる。しかし、9月に入ると、首位ヤクルト相手に6連敗を喫するなどし、4位に終わった。シーズン後、真弓監督が辞任、後任には和田豊一軍打撃コーチが就任した。下柳らが退団。なお4月にナゴヤドームで行われた中日との試合で8回2アウトランナー1塁の打席で金本が代打で登場するも、1塁ランナーの藤川俊介(俊介)が盗塁失敗してしまい金本の打席が完了しないまま3アウトになり、9回の守備に金本がつかなかった為、連続試合出場記録が1766試合でストップした。
和田監督時代
2012年[18]
球団創立以来初のキャプテン制度を導入し、野手キャプテンに鳥谷敬、投手キャプテンに藤川球児がそれぞれ就任[19]
5月以降の全月間で負け越すなど、シーズンを通して不調に陥り、最終的に首位巨人と31.5ゲーム差、3位ヤクルトと11.5ゲーム差の5位に終わる[20]。411得点、58本塁打はリーグ最少、24無得点試合はリーグ新記録で、規定打席到達者の最高打率が鳥谷の.262[注釈 15]など貧打に苦しみ、特に、巨人に対して5勝15敗4分[21][22]、2位の中日にも7勝15敗2分と上位2球団との対戦で結果を残すことができなかった[23]。城島、金本が現役を引退した[24]ドラフトでは藤浪晋太郎を1位指名し、4球団競合の末に獲得した[25]。FAで藤川がシカゴ・カブスに移籍[26]平野恵一がオリックスに復帰。中村勝広GMがビデオを見て2分で獲得に動いたブルックス・コンラッドが加入。MLBから西岡剛福留孝介の両名が入団[27][28]。オリックスからFA宣言した日高剛[29]、FAでオリックスに復帰した平野の人的補償として高宮和也を獲得。
2013年
2年間アメリカでプレイしていた西岡、4球団競合の末獲得した藤浪など、新戦力が噛み合い、開幕から巨人と首位争いを繰り広げ、6月に首位に立ったものの、新外国人のコンラッドが58打席連続無得点など不振で、その後巨人が首位に返り咲いて以降は首位に立つことができずにシーズン終了[30][31]9月22日に巨人のリーグ優勝が決定した[32]。最終的にはシーズン2位となり、2010年以来3年ぶりのAクラス入り・CS進出を果たした[33][34]。しかし、3位・広島とのCS1stステージ(甲子園)は2連敗で敗退[35]桧山進次郎が現役を引退した[36]。10月より掛布雅之が新設のゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任した[37]。オフにオリックスから白仁田寛和とのトレードで桑原謙太朗を獲得。
2014年
開幕戦に西岡と福留が交錯するも、前年に続き、巨人・広島との優勝争いとなり、一時は首位・巨人に0.5ゲーム差と迫ったものの、長期ロード明け以降に失速[38]。2年連続2位に終わった[39][40]。マートンが首位打者、マウロ・ゴメスが打点王、メッセンジャーが最多勝最多奪三振呉昇桓最多セーブを獲得し、NPB史上初めて1チーム4人の外国人選手がタイトルを獲得[41]。また、福原忍最優秀中継ぎと合わせて、球団タイ記録の1シーズン5人・6部門のタイトル獲得を果たした[42]。3位・広島とのCS1stステージ(甲子園)を1勝1分とし球団初のファイナルステージに進出[43]。巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)ではシリーズ史上初の4連勝を果たし、初めてCSを勝ち抜いての日本シリーズ進出となった[44]福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズは甲子園での最初の2戦を1勝1敗で終えた後、2003年の日本シリーズと同様に敵地福岡での全試合で敗れ、1勝4敗で敗退[45]。2004年以降のポストシーズン制導入後、2位以下で日本シリーズに進出して日本一になれなかったのは初である[注釈 16]
2015年
球団創設80周年を迎えた。5月28日の楽天戦で、巨人に続いて2球団目となる球団通算5000勝を達成[46][47]7月3日の対横浜DeNAベイスターズ戦ではNPB史上初の通算1万試合を達成した[48][49]。広島とのクライマックスシリーズ争いは制したものの、得点リーグ最下位、チーム打率4位、チーム防御率5位などと低迷した[50][51]。シーズン2位の巨人とのCS1stステージでは、1勝2敗で敗退となった。リーグ優勝を逃した責任を取り和田監督が退任した他[52]、計8人のコーチを解任[53]関本賢太郎が現役を引退した。呉昇桓セントルイス・カージナルスに移籍。新監督に金本知憲、新二軍監督掛布雅之DCが就任[54][55]のほか、矢野燿大片岡篤史濱中治今岡誠藤本敦士といったかつての「優勝メンバー」がコーチとして顔をそろえた[56]。中日からFA宣言した髙橋聡文を獲得。同年途中から高知ファイティングドッグスに入団していた藤川球児が4年ぶりに復帰。
金本監督時代
2016年
3月、読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題に絡み、巨人同様円陣の声だしで金銭の授受[57]や高校野球を対象としたくじ等[58]が発覚(「読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題」も参照)。
超変革」をスローガンに、髙山俊横田慎太郎北條史也江越大賀ら若手を積極的に起用。交流戦を7勝11敗で負け越し、前半戦終了時点で5位。夏場には最下位転落も経験し、結果的に4位で4年ぶりのBクラスに終わる。福原忍らが現役を引退した。オリックスからFA宣言した糸井嘉男を獲得。高山がセ・リーグ新人王に選出された。
2017年
新加入の糸井を始め、開幕から各打者が高い出塁率を武器に躍進。5月6日の広島戦では球団史上初となる「最大9点差からの逆転勝利」を達成し、一時は首位にも浮上した[59]。シーズンを通して上位を推移。特にリリーフ投手陣の働きが光り、桑原謙太朗、マルコス・マテオラファエル・ドリス、髙橋聡文、岩崎優の5名はそれぞれ60試合以上の登板数を記録、さらに52試合に登板した藤川を加えた6名が50を超える試合に登板した。1チーム5名の60試合以上登板、6名の50試合以上登板はどちらもNPB史上初の出来事であった[60][61]。最終的には首位広島と10ゲーム差でのシーズン2位となり、CSでは1stステージで3位DeNAに1勝2敗で敗退した。安藤優也らが現役を引退した。大和がDeNAにFA移籍。二軍監督の掛布が退任。鳥谷が通算2000安打を達成。
2018年
各打者が開幕から揃って不振を極め、得点力不足に陥り、チームも低迷[62]。5月29日には鳥谷の連続試合出場が1939試合で途切れた[63]。投手陣でも藤浪を始め、不調や故障により、離脱する選手が多く、中盤から終盤にかけて徐々にBクラスに定着。最終盤での糸井、原口文仁ら主力選手の故障離脱なども響いて10月8日には2001年以来17年ぶりのシーズン最下位が決定した。この年は特に本拠地・甲子園で勝つことができず、球団史上ワーストとなるシーズン39敗を喫した[64]。シーズン最下位の責任を取る形で監督の金本が退任。記録では鳥谷が藤田平の保持する球団歴代最多安打記録(通算2064安打)を更新した[65]。二軍監督の矢野燿大が一軍監督に昇格する形で就任。オリックスからFA宣言した西勇輝、新外国人としてピアース・ジョンソンジェフリー・マルテ、中日を自由契約となったオネルキ・ガルシアを獲得。
この年は平成最後のペナントレースだったので、阪神は「平成最後のセ・リーグ最下位球団」かつ、日本プロ野球12球団の中で広島と共に「平成時代に1度も日本一になれなかった球団」になったのと同時にDeNA、オリックス・バファローズ、ロッテと共に「平成時代に1度もクライマックスシリーズ1位通過ができなかった球団」となった[注釈 17]
矢野監督時代
2019年
新人の近本光司木浪聖也が開幕スタメンに抜擢[66]。しかし、深刻な得点力不足は前年より解消されず[67]、加えて守備面での不振も目立ったが[68]、12球団中トップのチーム防御率3.46・救援防御率2.70を記録した投手陣がチームを牽引し[69][70]、シーズン最終盤には最大6.5ゲーム差を逆転しての3位となった[69][71][72][73]。チーム総得点538・チーム失策数102は共にリーグワーストを記録したが、リーグトップのチーム100盗塁数を記録[74]。また、監督就任初年度でのAクラス入りは1985年の第2次吉田監督時代以来であり、新任に限ると1982年の安藤監督時代以来。2年ぶりのCSでは、2位DeNAとの1stステージを2勝1敗で勝利も5年ぶりのファイナルステージで首位・巨人に敗退。記録では、藤川がNPB史上初の「150セーブ・150ホールド」を達成[75]梅野隆太郎が捕手のシーズン補殺日本記録(123補殺)を樹立。また、近本がセ・リーグ新人安打記録(159安打)を樹立[76]、新人では2001年の赤星以来史上2人目となる盗塁王を獲得[77]。西が球団の投手では史上初のゴールデングラブ賞を受賞、梅野の捕手部門受賞と合わせて球団史上初のバッテリー受賞にもなった[78]。メッセンジャーらが現役を引退した[79][80][81]。オフに鳥谷敬が自由契約となった(翌年3月10日にロッテに移籍)[82]。新外国人としてジャスティン・ボーアジョー・ガンケルジェリー・サンズジョン・エドワーズ、ソフトバンクを自由契約となったロベルト・スアレスを獲得。
2020年
3月下旬、藤浪が球界で初めて新型コロナウイルスに感染し[83][注釈 18]、開幕後はボーア、主力の近本や糸原らが開幕から軒並み不調であり、開幕カードの巨人戦で3連敗を喫すると[84]、さらに救援陣も総じて不調で特にクローザーの藤川がコンディション不良による救援失敗が相次ぐなど、投打の歯車が噛み合わず開幕後の12試合で2勝10敗と大きく負け越すも[85]、7月中旬から大山悠輔やサンズのスタメン定着や、スアレスのクローザー抜擢などを契機に復調。しかし、9月下旬に再び選手のコロナウイルス感染が相次ぎ、濃厚接触者と合わせて10人もの選手の登録を抹消する事態に見舞われる[86]。シーズン終盤は中日・DeNAとAクラス争いを演じ、巨人以外の4球団に勝ち越したこともあり、最終的には首位巨人から7.5ゲーム差で2位となった。大山は最多本塁打を争う活躍を見せ[87]、スアレスが25セーブを挙げて最多セーブのタイトルを獲得した[88]。一方で、守備面の課題は解消されず、失策数85を数え3年連続で12球団ワーストとなった[89]ドラフト会議では近畿大学佐藤輝明を4球団競合の末に獲得した[90]。11月10日に甲子園で行われた引退試合を最後に藤川が現役を引退した[91]。オフに福留、能見、上本博紀が退団し(福留は中日に復帰、能見はオリックスに移籍、上本は現役を引退)[92][93][94]、ボーアが自由契約となり(サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍)、ガルシアが退団した。ロッテを自由契約となった陳偉殷、新外国人としてラウル・アルカンタラメル・ロハス・ジュニアを獲得。
2021年
オープン戦では新人ながら6本塁打を放った佐藤の活躍などもあって[95]、2016年以来5年ぶりに優勝を果たした[96][97]。開幕後はヤクルトとの開幕3連戦で球団初となる「開幕から3戦連続2本塁打」を記録して3連勝を果たし、2019年以来2年ぶりに単独首位に立つと[98]、4月9〜11日のDeNA3連戦でも全勝するなどスタートダッシュに成功する[99]、勝ち越し16の首位で交流戦を迎えた[100]。交流戦でも好調を維持し、交流戦終了時点で2008年以来の勝ち越し20を記録[101]、2008年以来13年ぶりに前半戦を首位で折り返した[102]。しかし、後半戦になると、佐藤、梅野、サンズら前半戦の好調を支えた選手が調子を落とし(特に佐藤はNPB野手最長となる59打席連続無安打を記録するなど不振を極めた[103][104])、徐々に成績が下降。前半戦の独走状態から一転、ヤクルト・巨人との三つ巴の優勝争いとなった。その後、8月末に巨人に抜かれて首位から陥落すると、一時は首位に返り咲くものの、9月にはヤクルトに首位を奪われ、10月8日のヤクルトとの直接対決に敗れて自力優勝が消滅[105]。粘りを見せて優勝争いは最終盤までもつれたが、阪神がシーズン最終戦となった10月26日の中日戦に敗れたことで同日勝利したヤクルトが優勝を決めた。最終的に両リーグ最多の77勝を挙げるも、首位と0ゲーム差の2位に終わった[106]。優勝チームを勝数で「+4勝」上回りながらシーズン年間勝率1位を逸した例は史上初だった[注釈 19]。巨人に対しては2007年以来14年ぶりに勝ち越したが、2位チームとして甲子園で3位巨人を迎えたCS1stステージでは2連敗で敗退した[107]。新人の活躍が顕著であり、佐藤に加え中野拓夢伊藤将司の計3名が新人特別賞を受賞した[108]。オフにサンズとスアレス(サンディエゴ・パドレスに移籍)の両外国人選手が退団。俊介、桑原謙太朗が現役を引退した。新外国人としてアーロン・ウィルカーソンカイル・ケラーを獲得。
2022年
キャンプイン前日に矢野監督がこのシーズン限りでの監督退任を発表し[109]、ヤクルトとの開幕戦で1-8と最大7点リードから逆転負け(10-8)を喫したことを契機に[110]、開幕9連敗(リーグワースト記録)[111]、開幕13試合で負け越し10到達(セ・リーグ史上初[注釈 20]、球団史上最速)、開幕から6カード連続勝ち越しなし(球団ワースト記録)、勝率.067(16試合目の時点、未勝利チーム以外ではプロ野球史上ワースト)[112]、開幕25試合目で20敗目(球団史上最速)、開幕54試合目で自力優勝消滅(21世紀における球団史上最速)など記録的な成績不振に陥った。5月以降はプロ野球新記録となる20試合連続3失点以下を記録した投手陣の復調もあって、投打が噛み合い始め、6月11日には開幕64試合目にしてシーズン初めて最下位を脱出し[113]、2年連続交流戦2位が確定した。その後、6月20日に元オリックスのアデルリン・ロドリゲスを獲得、一方で翌21日に陳偉殷が退団した。7月24日には最大16あった借金を返済。しかし、8月以降は近本、大山、中野ら主力が相次いで新型コロナウイルスに感染して成績は下降し始めたが、藤浪、才木らの復活など明るい話題もあり、最終的には4年連続Aクラスと3位が確定した。9月21日に甲子園で行われた引退試合を最後に糸井が現役を引退した。CS1stステージでは今期苦手としていた2位のDeNAに2勝1敗と勝利したが、優勝したヤクルトとのCS2ndでは0勝3敗で敗退した。矢野の後任には5年間チームの指揮を執った岡田彰布が再び監督に就任した。オフに日本ハムから江越大賀齋藤友貴哉との2対2トレードで渡邉諒高濱祐仁を獲得。ケラー以外の外国人選手6人が自由契約となった(ガンケルはソフトバンクに移籍)。12月21日からは球団のオーナー職に阪急電鉄出身の杉山健博阪急阪神ホールディングス前社長)が就任している。阪急電鉄出身の人物が阪神タイガースのオーナー職に就くのは初となる。一方、オーナーが兼務した代表取締役会長については阪神電鉄出身の秦雅夫取締役(阪神電鉄社長、2023年会長昇任)が昇格、経営権も阪神電鉄主体のままとなる。
第2次岡田監督時代
2023年
開幕カードでDeNAに3連勝[114]。次戦も広島に勝って開幕4連勝と好スタートを切る[114]。3・4月は13勝10敗1分で[114]、復調したDeNAに続く2位。5月は11日から18日まで6連勝、さらに1敗を挟んで20日から30日まで9連勝を記録[115]。月間19勝5敗と大きく勝ち越して首位に立つ。交流戦では7勝10敗1分と調子を落とし[116]、リーグ戦再開最初のカードとなったDeNAとの直接対決で3連敗を喫して6月25日に首位陥落[117]。直後の6月27日にすぐに首位を奪還し[118]、その後DeNAは失速するが、入れ替わって浮上してきた広島の猛追を受け、広島が10連勝とした7月27日に再び首位を明け渡す[119]。直後の広島との直接対決を2勝1分で再び首位に立って以降は快進撃を続け、8月3日から13日まで16年ぶりの10連勝を記録[120]。8月16日には2位広島と8ゲーム差としてマジック29が点灯する[121][122]。その後も18日から26日まで7連勝を記録するなど8月を18勝7敗と大きく勝ち越す[120]。8月後半には復調した広島に再接近され、29日に一旦マジックが消滅するものの、9月1日にマジック18が再点灯[123]。そこから連勝を続け、マジック1で迎えた9月14日に甲子園球場での対巨人23回戦に4-3で勝利し、41年ぶりの11連勝という形で18年ぶり6度目のリーグ優勝が決定した[124]。9月14日のリーグ優勝決定は2003年を上回り球団史上最速だった[124]。監督の岡田がフロントに査定における四球の評価アップを要求したこともあり、打線全体で四球を安打と同価値と捉えてボール球に手を出さない意識が浸透[125]。12球団トップで前年からは136個増となる494四球を選んで相手投手を苦しめた[125]。また、投手陣も前年まで未勝利の3年目村上頌樹が防御率1.75で10勝、この年から現役ドラフトで加入した大竹耕太郎がチームトップの12勝を挙げて躍進[114]。伊藤将司、青柳晃洋才木浩人、西勇輝を含めた6人が8勝以上を挙げるなど強力先発陣を形成し、9人が防御率2.5未満を記録した救援陣とともに質、量いずれもライバルを圧倒した[125]。個人成績では、中野が最多安打、大山が最高出塁率、近本が盗塁王、岩崎が最多セーブ、村上が最優秀防御率のタイトルを獲得し、村上はセ・リーグ史上初となるMVP新人王のダブル受賞も果たした。ゴールデングラブ賞も球団史上最多の5人が受賞した[126]
CSファイナルステージも広島にアドバンテージを含む4勝0敗で勝ち上がり、9年ぶりに日本シリーズに出場。パ・リーグ3連覇のオリックス・バファローズとの「関西ダービー」となった日本シリーズでは接戦が続き、第7戦までもつれ込んだが、11月5日の京セラドームでの第7戦を7-1で勝利し、4勝3敗で1985年以来38年ぶり通算2度目の日本一となった[127]。これにより、リーグ優勝・日本一が1回のみの楽天を除く現存11球団全てが特殊ルール込みおよび前身を含め2回以上、日本一になった[注釈 21]。なお外国人選手も含め、支配下登録されている選手が全員平成生まれの球団がリーグ優勝・日本一に輝くのは、プロ野球史上初である[128]

注釈

  1. ^ 日本職業野球連盟は現在の日本野球機構の源流に当る組織である。
  2. ^ この年は引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていたため、引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていなければ、大阪は勝率.5123、中日は勝率.5120となり、両球団の勝率が3毛差となり大阪は2位、中日は3位となる。
  3. ^ 2004年に巨人が更新
  4. ^ 同行していた電鉄本社常務取締役の石田一雄も犠牲となったが、これは同事故当日に運輸省(現・国土交通省)で行われた民鉄協の会議に出席し帰阪のために同事故の便に搭乗したものであった。当初この会議には球団オーナーで電鉄本社社長の久万俊二郎が出席し同便で帰阪する予定だったが、久万が私用で出席できなくなったことで中埜・石田の両名が代理で出席し同便に搭乗し同事故の犠牲となった。
  5. ^ 8月10日と11日に福岡市平和台野球場で阪神対中日戦(地方主催試合)が行われ、事故日は13日から後楽園球場で行われる巨人対阪神戦に備えての移動日であった。犠牲になった中埜も事故前々日に応援のため平和台野球場を訪れていた。
  6. ^ この366便に搭乗していた選手の一員である木戸克彦の妻は当該事故便の123便に搭乗予定だったが直前にキャンセルし難を逃れた。
  7. ^ ロッテが毎日オリオンズ時代に日本一になった1950年の日本シリーズフランチャイズ制導入前、近鉄に至っては1度も日本一になることなく、消滅した。
  8. ^ 後者については、セ・リーグ唯一の球団でもある。
  9. ^ 1959年1990年の巨人、1960年の大毎、2002年の西武。
  10. ^ 優勝していないチームのマジック点灯最速記録
  11. ^ この当時、甲子園は改装工事中で使用できなかった為、京セラドーム大阪で試合を行った。
  12. ^ マートン、平野、鳥谷、新井、城島。90打点以上はマートン、鳥谷、自己最多の112打点を記録した新井、47本のホームランを放ったブラゼル、城島である。
  13. ^ マートン、平野、鳥谷、新井
  14. ^ 2023年現在は右打者、セ・リーグ、外国人選手の最多安打記録。
  15. ^ 最高打率が.270以下だったのはチームでは44年ぶり。
  16. ^ パ・リーグでは前身のプレーオフで2004年2位の西武、2005年2位のロッテ(当時のプレーオフはパシフィック・リーグのみに先行導入され、プレーオフを勝ち抜いたチームがリーグ優勝というルールだった)、CS導入後の2007年2位の中日、2010年3位のロッテはいずれも日本一になっている。
  17. ^ 「平成時代に1度も日本一になれなかった球団」については、中日ドラゴンズも平成時代に1度も「リーグ優勝をした上での日本一」になれなかった。また、「年間勝率1位によるリーグ優勝をした上での日本一」にまで視野を広げれば、千葉ロッテマリーンズも該当する。
  18. ^ 藤浪と同じ食事会に参加した伊藤隼太長坂拳弥、女性数名も感染した。
  19. ^ 優勝を逸した例ならば、前後期制時代の1973年阪急(+9)、1975年近鉄(+7)、またプレーオフによるV逸の2005年ソフトバンク(+5)の例がある。
  20. ^ なお開幕12連敗した後初勝利を果たした1955年のトンボ、2分けを挟んで11連敗を喫した1979年の西武、11連敗した後2連勝した2002年の千葉ロッテ、10連敗した後3連勝した1961年の阪急以来5例目である。
  21. ^ 特殊ルールを除いた場合、中日ドラゴンズ1954年千葉ロッテマリーンズは毎日オリオンズ時代の1950年にしか日本一になっていない。
  22. ^ 2011年の北海道日本ハムファイターズと並ぶ。
  23. ^ 1975年には全国高等学校野球選手権大会の日程が雨天順延が相次いで5日延びたため、甲子園で行う予定だった阪神の試合が雨天中止に準じた扱いで予備日に振替開催されたこともある。
  24. ^ 現状では7月末から8月末までの1ヶ月程度に及んでいる。
  25. ^ 新幹線や飛行機を使うまでは、在来線の夜行列車などで長時間移動したりした。
  26. ^ かつては旅館の大部屋で雑魚寝ということもあったが、今はシティホテルの個室である。
  27. ^ 実際には、阪神以外にも巨人が毎年7月中旬 - 下旬の都市対抗野球開催期間中は東京ドームが使用できないため長期遠征を行っている。
  28. ^ 阪神の主催試合は、2015年から2019年までは奇数年が72試合・偶数年が71試合であったが、2021年より逆となっている。
  29. ^ 2006年も1試合を予定していたが、同球場の設備の老朽化を理由に甲子園に振り替えとなり、2007年以降はオープン戦も行っていない。なお、それ以降はオリックスと巨人が公式戦を開催した実績がある。
  30. ^ 2011年も1試合を開催予定であったが、雨天中止となり甲子園での開催に振り替えられた。
  31. ^ 2011年の公式戦開幕は東日本大震災の影響で日程が順延されたことによるもので、当初の予定ではビジターでの開幕だった。
  32. ^ なお、その次の主催ゲーム開幕シリーズ扱いとなる大阪ドームでの中日戦も中止となったため、延期日程補填の観点から10月にヤクルト3連戦を大阪ドームで開催している
  33. ^ 当初、セ・パ両リーグで同時開幕を前提としていたため大阪ドーム以外での開催も検討されたが、パ・リーグがセ・リーグよりも一週間早く3月20日(土曜日)に開幕し、かつ開幕カードから3日間空けて26日(金曜日)から次カードを行うという日程を組んだ。なお、セ・リーグは26日に開幕した[136]。もし同時開催であれば、かつてオリックスが本拠地としていた保護地域の兵庫県内にあるスカイマークスタジアムの利用も示唆されていた。
  34. ^ 2017年の場合はWBCとの兼ね合いで2010年のように開幕をずらすなどの日程の調整が難しかったという事情もあった。
  35. ^ 今後は、2025年でも阪神、オリックスともに開幕権を有するため同様の事態が発生し得る。
  36. ^ 2005年に金本知憲が40本、2010年にクレイグ・ブラゼルが47本を放ったが、2005年は新井貴浩(広島)が43本、2010年はアレックス・ラミレス(当時巨人)が49本塁打を放ったため本塁打王には届かなかった。
  37. ^ タイガース創立当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも「ス」を用いた固有名詞とすることが一般的であり(本来、複数形のsを「ス」と発音するのは単数形の語尾が無声音の場合のみ)、戦前の日本の球団名ではタイガースのほかにイーグルスセネタースがこの例である。これは戦後以降にも慣例的に受け継がれており、セネタース阪急ブレーブス松竹ロビンス近鉄パールス東北楽天ゴールデンイーグルスがこれに該当する。
  38. ^ 1960年のオフシーズンに米国ミネソタ州でツインシティーズと呼ばれるミネアポリスセントポールにおいて、ミネアポリスを名乗ったためにセントポール市民のファン獲得に失敗してロサンゼルスへ移転したNBAロサンゼルス・レイカーズの一件を教訓に、ワシントンD.C.からミネアポリスへの移転に際してMLBのミネソタ・ツインズが州名を名乗るという一件があった。
  39. ^ 1950年の開幕前に甲子園球場で開催されたオープン戦「大阪市長杯」で全チームが参加した入場行進の写真に「阪神タイガース」のプラカードが写っているのが確認できる[142]
  40. ^ 過去に近畿地方に本拠地を置いていた例においても1950年から1952年に衣笠球場を本拠地としていた松竹ロビンスと1953年から1954年にかけて大阪球場を本拠地としていた大洋松竹ロビンス(現・横浜DeNAベイスターズ)のみである。
  41. ^ その一方、読売新聞系の「スポーツ報知」は、スポーツ新聞として唯一、球団発行のタイガース公式イヤーブックに広告が掲載されていない。ただし、同じく読売系列の讀賣テレビ放送の広告は掲載されている
  42. ^ 1961年に刊行した『毎日放送十年史』では南海との契約が営業に貢献したと記したが、1991年に刊行した『毎日放送の四〇年』の中では1971年に甲子園の阪神・巨人戦の中継枠2試合を確保したことを「"虎の子"の二試合、スポーツ担当だけでなく、全社あげて晴天を祈る気持ちだった。」と記すほど状況は変化していた[147]
  43. ^ 南海と毎日放送との契約は、1960年に南海が契約額を引き上げたことから、1961年にはプロ野球中継自体を大幅に削減していた。
  44. ^ 『毎日放送の四〇年』には1970年代の関西地区のプロ野球ファンについて「圧倒的に阪神タイガースのファンが多く、次いで巨人、さらに間をおいて南海、阪急、近鉄である」と記し、その対応として同局が「ナイター中継は阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪3球団のカードを交え…選ぶのが基本姿勢」との記述がある[149]
  45. ^ 登録番号:第589835号、出願日:1961年5月25日。
  46. ^ なお、特許電子図書館ウェブサイトでも確認できる商標画像は、手書きでなされたものである。
  47. ^ 登録番号:第1553794号、1978年4月19日出願、1982年12月24日登録。
  48. ^ 登録番号:第1621729号。1981年4月25日出願、1983年10月27日登録。
  49. ^ 綱島理友監修の書籍『スポーツマスコット図鑑』では「1984年ごろ」と記述[156]
  50. ^ 登録番号第1543155号、1978年4月24日出願、1982年10月27日登録。
  51. ^ 登録番号第1482910号、1976年11月10日出願、1981年10月30日登録。
  52. ^ 登録番号第1727154号、出願日1981年4月25日、商標登録10月31日。
  53. ^ 書籍「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズでは、原則各球団の球団歌を記載しているが、「阪神タイガースの歌」は通称の方で明記されている。
  54. ^ 「勝」の一部に赤字で「笑」を重ね合わせている。
  55. ^ 監督の岡田彰布が優勝を「アレ」と言い換えることをヒントにした、一種のバクロニムである[184]。読みは「エーアールイー」[185]
  56. ^ この時、オーダー表提出係を担っていた岡本伊三美は、先発投手に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田に念押ししている。
  57. ^ 星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、カチカチになった阪神打線はこれを打てなかった(詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。
  58. ^ 山際淳司のドキュメント小説では、新幹線内で選手が持ち込んだラジオの試合中継をナインが聞いており、中日の勝利が決まった途端に王貞治が嬉しさの余り叫んだ、と描写されている。この時の情景は、翌年放映のテレビアニメ侍ジャイアンツ』第38話に取り入れられている。
  59. ^ この試合はプロ野球の公式戦初となる「勝った方が優勝」となる事実上の優勝決定戦だった。
  60. ^ この際、タクシー1台が騒ぎに巻き込まれて車体に損傷を受けている。試合告知の看板への損傷などもあった(上記読売新聞記事による)。
  61. ^ a b 南海放送西日本放送は途中飛び乗りで放送。広島テレビは14時台は自社制作の『女性ロータリー』を、15時台はフジテレビから同時ネットの『3時のあなた』を優先した関係で放送なし。また、当時TBSテレビ系だった朝日放送は、14時からの『ワイドショー・プラスα』を山陽放送中国放送等のネット局に裏送りした(中国新聞、1973年10月22日、8ページ、テレビ・ラジオ欄)。
  62. ^ 1973年10月22日の朝日新聞(東京版)、テレビ・ラジオ欄、産経新聞(岡山版)、14ページ、ラジオ欄、中国新聞、8ページ、テレビ欄。
  63. ^ 中村の愛称。当日もテレビ中継のゲストで出演していた。
  64. ^ 後藤和昭は「阪神選手は翌日までロッカールームに缶詰めにされた」と語っているが「19時にファンが引きあげた」という当時の報道とは食い違いを見せている。
  65. ^ 制作時点ではパシフィック・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神 - パ・リーグ優勝チーム」という表記だった。
  66. ^ 『関西の私鉄』には「(阪神百貨店の)祝優勝のペナント、店員用ワッペンは「その日」のために、倉庫で眠っている」とあるが、これが1985年に使われたかどうかは不明。
  67. ^ 当日の6時間26分という試合時間には、中断した37分間も含まれている。
  68. ^ その個人は「商標権は無償で譲って構わないが、グッズの販売に関してはこれまで通り続けさせてほしい」と懇願したが、球団側としてはそれは認めるわけにはいかず、結果的に交渉は決裂した。
  69. ^ 2005年のロッテはレギュラーシーズンを2位で終えたが、当時のパ・リーグはプレーオフを勝ち抜いたチームを優勝としており、プレーオフを勝ち抜いたロッテは2位のソフトバンクに『-4.5ゲーム差』をつけて優勝した。
  70. ^ 2016年までは水曜ナイターでトップ&リレー中継を実施し、全編地上波中継と同じ出演者が担当。
  71. ^ 2014年から2016年までの平日ナイターはトップ&リレー中継で放送し、2014年は地上波中継と同じ出演者が全編担当し、2015年・2016年はトップ中継はTBSテレビのアナウンサー・解説者が東京からのオフチューブで中継し、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当。

出典

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  7. ^ 球団史 1985, pp. 261–262.
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