今大会の概要
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「ブエルタ・ア・エスパーニャ2007」の記事における「今大会の概要」の解説
第4ステージを制したウラジミール・エフィムキンが総合トップに立ち、1分6秒差でデニス・メンショフが続く。総合1、2位のロシア勢の間に割って入ったのが第8ステージの個人TTで3位に入ったベルギーのステイン・デヴォルデル。ここで総合トップの座を奪い、2位に30秒差でメンショフ。この区間18位に終わったエフィムキンは1分28秒差の3位に後退。 第9ステージ。区間優勝のレオナルド・ピエポリと同タイムゴールを果たしたメンショフに対し、デヴォルデールはメンショフらに遅れること4分58秒差の区間42位と大敗。ここでメンショフが総合トップに立ち、2分1秒差でエフィムキンが2位。2分27秒差の3位にカデル・エヴァンス、3分2秒差の4位にカルロス・サストレが続く展開となった。 上記の通り、今大会は前半戦に集中して山岳コースが設定されたこともあってか、このあと第17ステージまでは上位陣にほとんど変化がない様相。以後は2位以下に順位の変動はあったものの、メンショフはこのあとも安定した走りを見せて2年ぶり2度目の総合優勝。総合2位にはサストレ、同3位にはサムエル・サンチェスが入った。 ちなみにメンショフは山岳賞、コンビネーション賞も獲得。総合優勝と山岳賞のダブル制覇は1995年のローラン・ジャラベール以来のことである。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1998」の記事における「今大会の概要」の解説
今大会では開幕前から暗雲が垂れ込めた。ベルギー国境の税関でフェスティナチームの車両から大量の禁止薬物が押収され、介添人が拘束。ルッセル監督も連日の取調べを受けることになり (いわゆるフェスティナ事件) 、フェスティナチームは疑惑の目が注がれることとなる。 プロローグでは「ミスタープロローグ」のクリス・ボードマンが順当に勝利し3度目の勝利を果たした。第1ステージでは前年のゴールスプリント時の暴力行為で一発退場処分を受けたトム・ステールスが雪辱の勝利。これを皮切りに序盤はスプリンターの激しい区間優勝争いとなり、スヴォラダ、ブライレーヴェンス等のスプリント強者が順当に勝利を挙げた。マリオ・チポリーニも度重なる落車に遭いながらも第5、第6ステージの2区間連続で勝利し面目を保った。通常、総合優勝を狙う有力選手は落車の巻き添えやアタックにより分裂した集団の後方に取り残されるリスクを避けるために常に集団の前方に位置しているが、パンターニはここまで連日のように集団の最後尾でゴールし、リスクを冒しながらも体力の消耗を避ける選択を取った。 第6ステージ終了後に激震が走った。連日の薬物疑惑に揺れるフェスティナチームが主催者から除外通告を受けて棄権を発表。ビランクは号泣しながら記者会見場を後にした。これにより、優勝候補のビランク、アレックス・ツェーレ、世界チャンピオンのローラン・ブロシャールらの強者が一度に姿を消すという異例の事態となった。 第7ステージはウルリッヒが予想通りの圧勝でマイヨ・ジョーヌを獲得。前年ツールの個人タイムトライアルで1勝し総合4位と健闘したアブラハム・オラーノは不調で2分遅れの6位と惨敗、パンターニも苦手のタイムトライアルで4分以上のタイムロス。この時点でウルリッヒの総合優勝は早くも決まったかと思われた。 第8ステージでは熱血漢ジャッキー・デュランが逃げ切り勝ちを収めるが、この逃げに乗ったデビアンがマイヨの奪取に成功した。 最初の山場となるピレネーに入る第10ステージ。上りに強いロドルフォ・マッシ、94年ツールで総合7位のアルベルト・エッリと前年大活躍した逃げ屋のセドリック・ヴァッスールが長距離の逃げを敢行。終盤パンターニの猛追撃を受けるもマッシはこれを凌ぎ切り区間優勝、山岳ポイントも総なめにして一躍スターの仲間入りを果たした。一方前年6位と健闘したフランチェスコ・カーサグランデは集団落車の巻き添えを食って負傷しステージ途中でリタイアした。 第11ステージではローランド・マイアーが豪快な単騎逃げを見せるが、最後の上りで凄まじいアタックを見せたパンターニに区間優勝は浚われてしまった。ウルリッヒは監督にも批判される無駄な追撃で終盤息切れを起こし、第9ステージと併せて2分以上のタイムをパンターニから削られてしまった。一方リースはトップ集団から大きく遅れ、テレコムチーム内の序列はこれで大勢が決定した。 第12ステージでは薬物疑惑に対する連日の捜査とマスコミの取材攻勢に憤った選手が遂に実力行使に出た。世界ランキング一位に君臨するローラン・ジャラベールがストライキを煽動、レースディレクターの説得によりレースは再開されたが、これまでとは明らかに異なる一触即発の事態に陥っていることが誰の目にも明らかになった。 最大の山場となるアルプスの第15ステージ、悪天候を衝いて数人のクライマーが次々にアタックを仕掛け、ガリビエ峠への上りでパンターニもこれに合流した。パンターニにとって幸運だったのは、逃げ集団の全員の利害が一致したことだった。逃げを構成したのは山岳ポイントで暫定トップのマッシ、ケルメのエースで前年5位のフェルナンド・エスカルティンとそのアシストのマルコス・セラーノ、バネスト期待のエースホセ・マリア・ヒメネス、そして後方にいるエースのボビー・ジュリックの為にウルリッヒを少しでも消耗させたいクリストフ・リネロというこれ以上無い絶好のメンバーであった。逃げ集団はチームタイムトライアルのように息のあった走りを見せ、パンターニは最後の上りでこれらのライバルも叩き落し圧勝した。一方のウルリッヒは豪雨の中ガリビエ峠の下りで雨具を着用しないまま逃げ集団の追跡を強行。完全に体を冷やしてしまい、パンクに見舞われたことで先頭集団から遅れると、最後の登りで繰り返されるライバルのアタックに対応できない状況に陥ってしまった。第7ステージでウルリッヒ、ハミルトンに次ぐ好成績を挙げ総合2位につけるジュリックはこの変調を見逃さずアタックを敢行、これに加わったマイケル・ボーヘルトと共にウルリッヒを置き去りにしてゴール。一方のウルリッヒはパンターニから9分近く遅れこのステージ25位と沈没。このステージ終了時点でパンターニが首位、ジュリックが2位を保持、エスカルティンが3位に上昇、ウルリッヒは4位に転落するという大波乱のステージとなった。 第16ステージでは雪辱に燃えるウルリッヒがマドレーヌ峠でアタックを成功させ区間優勝、再び3位に上昇した。パンターニだけがこれを逃がさずに徹底マークしたが、他の有力選手はついていくことはできなかった。 第17ステージでは再び選手と主催者の紛争が勃発した。前日にTVMチームの選手が警察により徹夜の取調べを受け、一睡もしていないことから他チームの選手はこのステージ続行はアンフェアと判断。全員ゼッケンを外しTVMチームの選手を先行させて後方から超スローペースで従うという抗議のデモ走行となった。最初にストライキを煽動したジャラベールはこれ以上のレース続行は無益として、こうした警察の対応が続く限りフランスで行われるレースには一切出場しないと抗議の声明を発してオンセチーム丸ごとレースを撤退してしまった。バネスト、ケルメ、ビタリシオセグロスなどのスペイン本拠のチームとリゾスコッティもこれに同調し第17ステージ途中で撤退するか第18ステージスタート前に棄権。これにより総合4位につけていたエスカルティンもレースを去ってしまった。TVMチームも第19ステージで全員が棄権したが、騒ぎはこれで収まらなかった。山岳賞のトップにいたマッシに逮捕状が執行され、宿泊先の部屋から覚醒剤が押収されるという超弩級のスキャンダルが発生。これにより山岳賞はリネロの手に移るが、リネロは第18ステージの表彰台に於いて山岳賞ジャージの着用儀礼を拒否した(その後のステージでは着用している)。 最後の勝負所となる第20ステージの個人タイムトライアルではウルリッヒが順当に区間優勝したが、注目は個人タイムトライアルを大の苦手とし、この種目で毎回優勝圏外から去ってしまうパンターニがどれだけタイムを失わずに済むかという一点であった。ところがパンターニはトップのウルリッヒから2分35秒遅れの3位という予想外の健闘を見せて再逆転を許さず、総合優勝を決定づけた。 第21ステージではステールスが例年より大幅に少なくなった集団でスプリントを制し一大会区間4勝を達成。ジャンポール・ファン・ポッペル以来10年振りとなる快挙を成し遂げた。一方、エリック・ツァベルは3年連続となるポイント賞を獲得したものの、総合優勝を最優先するチームの方針からアシストを受けられず、区間優勝はゼロに終わった。 2013年、この1998年大会の出場選手のドーピング検査用サンプルを最新の技術で再検査した結果、総合1位パンターニ、2位ウルリッヒ、ポイント賞のツァベルの他、ジャラベールを含む18名から禁止薬物であるエリスロポエチン(EPO)が検出され、総合3位ジュリックを含む12名はEPOの使用が「疑わしい」と判定された。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1990」の記事における「今大会の概要」の解説
早くも第5ステージで今大会の正念場が訪れる。スプリンターたちの果敢なアタック合戦が展開され、前年大逆転負けを喫したローラン・フィニョンが早くもこのステージでリタイア。レモンもこのステージだけで4分30秒の差をつけられ、この時点ではマイヨ争いは圏外であった。 第7ステージの個人タイムトライアルでもレモンは区間7位と振るわず、マイヨ・ジョーヌのスティーブ・バウアーに対し、10分9秒差の7位と低迷していた。対して、カレラのクラウディオ・キアプッチが1分11秒差の区間3位と健闘。 第9ステージからはアルプスステージが始まるが、第16ステージまで山岳レースが続く。第10・11ステージを経て漸くレモンは総合3位にまで浮上してきたが、マイヨのロナン・パンセとはまだ9分4秒差もあった。対してキアプッチは1分28秒差の総合2位につけ、射程圏内へと持ち込んでいた。 第12ステージの個人タイムトライアル。このステージはエリック・ブロイキンクが制し、レモンは56秒差の区間5位。キアプッチが1分5秒差の区間8位で続いたことから、ここでマイヨはキアプッチに移動。パンセが1分17秒差の総合2位に退き、ブロイキンクが同3位の6分55秒差で続く。レモンは同4位の7分27秒差と依然低迷。 しかし続く第13ステージでレモン、ブロイキンクがキアプッチ潰しに出たことが功を奏し、両者は区間優勝のエドゥアルド・チョザスと同タイムゴール。対するキアプッチは4分53秒差広げられ、この時点でマイヨのキアプッチに対し、ブロイキンクが2分2秒差の総合2位、レモンも2分34秒差の同3位と一気にタイム差を縮めてきた。 そして第16ステージ。レモンは会心の走りを披露し、区間優勝のミゲル・インドゥラインにわずか6秒差の同2位でフィニッシュ。総合2位に浮上するとともに、キアプッチとの差をわずか5秒差にまで縮めてきた。 そして第20ステージの個人タイムトライアル。この区間はまたしてもブロイキンクが制したが、レモンが区間5位の57秒差に対し、キアプッチは3分18秒の差をつけられ、ここでレモンがキアプッチに2分16秒の差をつけついにマイヨ奪取。そしてそのまま押し切り、総合2連覇を果たした。 ちなみにレモンは今大会、一度も区間優勝がなかった。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1988」の記事における「今大会の概要」の解説
序盤である第2ステージのチームタイムトライアルで昨年に引き続き、またしてもフィニョンが大ブレーキ。この時点で早くもフィニョンの総合優勝は無理という流れに。 一方、昨年の当大会では個人タイムトライアルで2勝を挙げたベルナールも今大会は不調で、上位に食い込みたかった第6ステージの個人タイムトライアルでは区間9位。総合でも5位にとどまる。 第8ステージを終えて、マイヨ・ジョーヌはスティーブ・バウアーとなるも、11位のペドロ・デルガドまで1分台の差。続くアルプスステージが大きなヤマ場となった。 アルプスに入ってもしばらくはお互い、探り合いのような状況が続いたが、期待のフィニョン、ベルナールは苦戦の連続。そして本格的に動きが見られたのは第12ステージのラルプ・デュエズゴール。 このステージにおいて、フィニョンがついにリタイア。ベルナールもこの区間だけで、区間優勝のスティーブン・ルークスに対し22分4秒差という、区間82位の大惨敗を喫する中、デルガドはルークスに23秒差の区間3位でフィニッシュ。ここでマイヨはデルガドの手に渡った。バウアーは総合2位に後退はしたが、デルガドとは25秒差。同3位パラ1分20秒差、同4位ルークス1分38秒差。同5位ルイス・エレラ2分25秒差と、上位陣はほとんどがクライマー。 第13ステージの個人タイムトライアル。大方の予想を覆し、デルガドが区間優勝。ここで総合2位ルークスに2分47秒の差をつける。ここでのデルガドの区間優勝がひいては総合優勝に大きくモノを言うことになる。 デルガドは第14・15ステージでも着実にライバルに差を広げた。この時点でルークスに4分6秒差。このあとの山岳ステージは第19ステージしかないため、早くもデルガドの優勝は決まりという声が大きくなった。一方、第15ステージではベルナールがついにリタイアした。 デルガドはさらにその後も優位にレースを進め、終わってみれば2位のルークスに7分以上の差をつける完勝。もともとは単なるクライマーと見られていたデルガドが、今大会は総合的な力を発揮して見事総合優勝を勝ち取った。
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「ツール・ド・フランス1986」の記事における「今大会の概要」の解説
今大会の注目を一心に浴びたイノー、レモンのラ・ヴィ・クレールは序盤不振に陥り、ひいては後述する通り、イノーとレモンの間に軋轢が生じているのではないかという噂が立った。逆に3度目の総合制覇を狙うフィニョンは絶好調で、第2ステージのチームタイムトライアルでは完璧にチームメイトをコントロールして完勝。第8ステージまでを終えた時点でフィニョンはトップと49秒差の5位につけたが、イノー、レモンはこの時点においては圏外。地元フランス人の興味はフィニョンの復活優勝に興味がいっていたといっても過言ではなかった。 しかし第9ステージの個人タイムトライアルにおいて、イノーが区間優勝。レモンも区間2位に入ると形勢は逆転。フィニョンは逆にこのステージでイノーに3分42秒の差をつけられ、総合順位もイノーが3位、レモンも9位に浮上する一方で、フィニョンは12位に後退してしまった。 さらにピレネーステージ緒戦の第12ステージにおいて、イノーが区間優勝を果たしたペドロ・デルガドとほぼ同タイムのゴールを果たし、レモンも4分37秒差で続いたのに対し、フィニョンはイノーから遅れること11分1秒差の区間20位と惨敗。この区間を終えてイノーがマイヨを奪い、レモンが5分25秒差の2位。対してフィニョンは12分43秒差の15位とまたまた順位を落としてしまった。 そして翌13ステージ開始を前に、フィニョンの棄権が伝えられ、フィニョンは今大会の舞台から姿を消した。 最大の敵と目されたフィニョンが早々とピレネーの緒戦で去ったことから、ラ・ヴィ・クレールの2人にとって、あとはエレラなどのクライマーを潰すだけとなったが、レモンがそのクライマーたちの力を利して見事第13ステージを優勝。そしてイノーとのタイム差も40秒差にまで縮まった。 この時点でレモンのマイヨ移動はほぼ確実な情勢となったが、一方でイノーがそう簡単にマイヨは譲らないとマスコミに漏らしたことから2人の間に軋轢があったことは明白となった。ひいては苛立つレモンがマスコミに食って掛かったり、はたまたインタビューで公然とイノーを批判するシーンも見られたことで皆が知るところとなる。 しかし、第16ステージから始まったアルプスステージに入ると、2人の関係は一転することになる。 それは、第17ステージにおいてレモンがエレラらのクライマーを自らの手で潰し、ついにこのステージにおいてイノーからマイヨを奪ったことに起因する。この時点でイノーはレモンには勝てないと悟り、ついにマイヨ・ジョーヌをレモンに「禅譲」することを決意する。そして第18ステージのラルプ・デュエズのゴールにおいて、レモンとイノーが手をつないでお互いを讃えあうという感動的なゴールシーンが見られた。ちなみにこの第18ステージにおいて、エリック・ハイデンが棄権した。 その後はレモンがマイヨを守りきり、ツール・ド・フランス史上初のアメリカ人優勝者となった。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1983」の記事における「今大会の概要」の解説
序盤の平地ステージから、マイヨ・ジョーヌはコロコロと移動を繰り返すという、予想通りの混戦模様となったが、ピレネー超えの第10ステージで、パスカル・シモンがマイヨを奪い、アルプスステージに突入した第14ステージでも安定した走りを見せていた。総合2位はイノーのチームメイトで、今大会がツール初出場となったローラン・フィニョンだったが、4分14秒の差をつけられていた。 ところが第15ステージの個人タイムトライアルで異変が起こる。シモンがまさかの大ブレーキとなり、フィニョンにつけていた4分のタイム差を一気に吐き出してしまった。この結果、フィニョンは52秒差でシモンに続くことになり、俄然、総合優勝のチャンスが出てきた。また、1分29秒差の3位につけていたショーン・ケリー、1分45秒差の同4位のペドロ・デルガドにも当然のことながら総合優勝の可能性大。 シモンは第16ステージこそフィニョンらの追撃を退けたが、明らかに余裕がなくなっていた。そしてラルプ・デュエズがゴールとなる第17ステージでついにリタイア。区間5位のフィニョンがついにマイヨを奪取し、1分8秒差の総合2位にデルガドが続く展開となった。 ところが第18ステージでデルガドが大ブレーキ。フィニョンもアンヘル・アロヨらのクライマーの走りについていくのがやっとの状況だったが、デルガドは追走すらできず、区間優勝のジャック・ミショーに遅れること25分34秒の区間39位と惨敗。一方、フィニョンはミショーに遅れること3分42秒差で何とかまとめた。 マイヨ・ジョーヌのフィニョンに対し、総合2位ジャンレネ・ベルノードー、同3位ペーター・ウィネン、同4位ロベール・アルバン、同5位アロヨはいずれも3分台の差で続き、まだまだ予断を許さない状況。そして第19ステージの個人タイムトライアル。 フィニョンはここでも厳しい戦いを強いられるが、ベルノードー、アルバンが脱落。対して、ウィネンが2分35秒差の総合2位に浮上。このステージを制したルシアン・バンインプが2分48秒差の同3位に浮上してきた。 何とかアルプスを乗り越えたフィニョン。しかし、次第に走りに余裕がなくなってきており、第21ステージの個人タイムトライアルが懸念されたが、そうした不安を払拭する。フィニョンはこの区間を制し、バンインプ、ウィネンはいずれもフィニョンに1分ちょっとの差をつけられ、ここで事実上決着がついた。 ライバルの相次ぐ自滅に助けられた形となったが、22歳のフィニョンがついにツール・ド・フランスを制した。
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「ツール・ド・フランス1984」の記事における「今大会の概要」の解説
前半からフィニョンのアシストであるヴァンサン・バルトーが健闘し、第14ステージ時点でマイヨ・ジョーヌをキープ。ここまでを終えてフィニョンは10分13秒差の3位、イノーは12分26秒差の5位であった。 しかしこの年は第14ステージから7区間連続で山岳ステージが続くことから、本当の勝負はまだ先だと考えられていた。第16ステージの個人タイムトライアルでフィニョンは区間優勝を果たし、バルトーとの差を6分29秒差にまで縮めた。そして続く第17ステージはツール・ド・フランスの名物であるラルプ・デュエズがゴール。 意気上がるフィニョンはこのステージでも快走を見せ、区間優勝こそ、ルイス・エレラに譲ったものの2位でこの区間をゴール。そしてついにここでマイヨ・ジョーヌを奪った。対してイノーは総合2位に浮上したとはいえ、フィニョンにこの区間だけで2分55秒の差をつけられ、フィニョンとの総合タイム差は4分22秒にまで広げられた。 さらにフィニョンは続く第18ステージにおいても圧倒的な強さを見せ、堂々と区間優勝。対してイノーはこの区間でも2分58秒の差をつけられた。総合タイム差は8分39秒差にまで広がり、勝負の趨勢はほぼここでついた形となった。 フィニョンは第22ステージの個人タイムトライアルでも区間優勝を果たし、終わってみればイノーに何と10分32秒の差をつける完勝。前年の総合優勝がフロックでないことを証明してみせた。 ちなみに総合3位のレモンはこの大会の新人賞に輝いた。
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「ツール・ド・フランス1981」の記事における「今大会の概要」の解説
プロローグを制し、一旦マイヨ・ジョーヌから離れるも、第6ステージの個人タイムトライアルを制したイノーがマイヨを奪回。しかし23歳のフィル・アンダーソンが頑張って、第13ステージまでイノーに57秒差で続く総合2位。そして今大会は第14ステージまでは平坦区間ということもあってか、フレディ・マルテンスがことごとく区間優勝をさらい、ここまで5勝する。 しかしピレネーステージを翌日に控えた第14ステージの個人タイムトライアルで、イノーはアンダーソンに2分1秒の差をつけ区間制覇。総合でもアンダーソンに2分58秒の差をつける。 第16ステージからはアルプスステージに入る。ここから4連続山岳ステージとなり、今大会の最大のヤマ場を迎えた。第16ステージ。イノーは苦しみながらも、ズートメルクやバンインプらとともに4位集団でゴールしたのに対し、アンダーソンはこの区間だけでイノーに4分41秒の差をつけられ、総合2位はキープするも、イノーに7分39秒差をつけられる。そして、バンインプが9分38秒差の総合3位、ズートメルクが10分43秒差の同5位に浮上してきた。 第17ステージのラルプ・デュエズ。イノーは区間優勝のペーター・ウィネンに8秒差の区間2位、イノーにほぼ並んでバンインプが区間3位に入るが、ズートメルクはイノーに遅れること1分53秒差をつけられ、総合でもイノーに12分36秒差となったことから、連覇は厳しくなった。また、アンダーソンはこの区間でイノーに遅れること16分58秒。区間44位と惨敗し、完全に圏外へと去った。 そして第18ステージ。イノーはバンインプに対して2分33秒の差をつけ堂々の区間制覇。総合でもバンインプに12分12秒差をつけ、今大会はほぼここで決着がついた形となった。 イノーは第20ステージの個人タイムトライアルも制し、今大会はなんと個人タイムトライアル全勝。3度目の総合優勝に華を添えた。また最終ステージはマルテンスが制し、今大会6勝を挙げた。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1970」の記事における「今大会の概要」の解説
プロローグを制したメルクス。その後一旦マイヨ・ジョーヌの座からは離れたが、第6ステージで早くも奪い返した。 そして第7ステージの個人タイムトライアルでは他を引き離し、アルプスステージ前には総合2位のゴーデフロートに1分57秒の差をつけていた。そしてアルプス超えの第10ステージを制したメルクスは、この時点で総合2位に浮上したヨープ・ズートメルクに2分51秒の差をつける。 圧巻だったのは第12ステージ。メルクスはポルテ峠で先頭に立つとそのままズートメルク以下を圧倒。この時点でズートメルクに6分1秒の差をつける。 そして3年前、トム・シンプソンが呼吸困難に陥って死亡した地点であるモン・ヴァントゥがゴールとなった第14ステージを、メルクスはこれまた驚異的な走りで制し、ズートメルクはここでもメルクスに2分47秒の差をつけられ、総合タイム差ではついに9分26秒差にまで広げられた。 その後もメルクスは他を圧倒する走りで寄せ付けず。ツール・ド・フランス2連覇。そしてダブルツールも達成した。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1971」の記事における「今大会の概要」の解説
第1ステージが何とチームTT、山岳、平地の三部構成という形になったが、メルクスが早くもマイヨ・ジョーヌをキープ。しかし序盤から山岳ステージが組まれていたにもかかわらず、他選手も踏ん張り、メルクスは思ったほどの差を広げることができない。 第8ステージをオカーニャが制し、この時点でメルクスはマイヨをキープするも、2位ヨープ・ズートメルクとは36秒、3位に浮上したオカーニャとは37秒の差しかなかった。 アルプスステージとなる第10ステージ。この区間はベルナール・テブネが制し、ズートメルク、オカーニャがテブネと同タイムで入る。一方、メルクスはズートメルク、オカーニャらに遅れること1分36秒。ついにマイヨはズートメルクに移動し、オカーニャがわずか1秒差の2位。対してメルクスは総合4位に転落。 さらにオカーニャは第11ステージにおいて中盤から先頭に立つとそのまま押し切り。ズートメルク、メルクスに対し何とこのステージだけで8分42秒の差をつけ、当然のことながらマイヨを奪取。メルクスはオカーニャに遅れること9分46秒差の5位という信じられない展開となった。 しかしこのままでは当然終われないメルクスは続く山下りステージとなる第12ステージにおいて決死のアタックを仕掛け、平均時速46.272Kmという高速レースに持ち込んで区間優勝のアルマーニと同タイムゴール。総合2位に浮上した。対して、スピードレースは得意でないオカーニャもズートメルクらとともに何とか1分56秒差の大集団ゴールに持ち込んだが、メルクスとの差を7分34秒差にまで縮められる。 そしてピレネーステージ緒戦の第14ステージにおいて、死闘の末の悲劇を生むことになる。 レベからルションまでの214.5Kmで行われたステージは雨にたたられたばかりか、嵐が吹き荒れ、視界が悪い状況となった。メンテ峠を通過し、2番手集団にいたメルクス、オカーニャ、シリル・ギマールらだったが、峠を通過した直後のヘアピンともいうべき下りのカーブでメルクスがバランスを崩し、激しくメルクスと競っていた状態のオカーニャが乗り上げ、オカーニャは崖下に転落。 マイヨ・ジョーヌを身にまとったまま、オカーニャは瀕死の重傷を負い無念のリタイア。しかしレースはこのまま続行され、メルクスは2位集団でゴール。マイヨをついに奪回した。 ピレネーステージが終了した時点では総合2位のルシアン・バンインプ、同3位のズートメルクは2分台の差で続き、まだまだ挽回可能なタイム差をキープしていたが、第17ステージの平坦ステージでメルクスが果敢にアタックをかけると他を圧倒。このステージでメルクスは総合2位のバンインプに5分38秒、同3位のズートメルクに5分46秒の差をつけ、最終ステージの個人タイムトライアルも圧勝し、激闘の末、3連覇を達成した。
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今大会の概要
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「ジロ・デ・イタリア 2007」の記事における「今大会の概要」の解説
悲願のジロ・デ・イタリア初優勝を狙う、ダニーロ・ディルーカが早くも第2ステージでマリアローザを奪い、第4・5ステージでも堅持したが、第6ステージで大集団の中から抜け出したマルコ・ピノッティが区間優勝のルイス・フェリペ・ラヴェルデと同タイムの2位でこの区間を終え、マリアローザを奪取。ディルーカは4分12秒差の総合3位に転落。さらにディルーカはその後も総合順位を下げていくが、第10ステージで区間優勝のレオナルド・ピエポリに18秒差の2位に食い込み、再度総合上位圏内へ。そしてこのステージ終了後、マリアローザはピノッティからアンドレア・ノエに替わるが、2位以下も僅差で続く展開となった。第12ステージ、ディルーカは今大会区間2勝目を挙げ、このステージでノエからマリアローザを奪い返す。その後は徐々に後続との差を広げ、第19ステージでは区間2位のアンディ・シュレクに2分24秒差にまで広げる。第20ステージの個人TTでこそシュレクに29秒縮められるが、結局シュレクに1分55秒の差をつけて総合優勝を果たした。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1972」の記事における「今大会の概要」の解説
前半はギマールが健闘し、第7ステージまではマイヨ・ジョーヌを守る。また、オカーニャも2分48秒差の5位をキープし、これから本格的に始まる山岳ステージに大いに期待を持たせた。 しかしメルクスはピレネー超えの第8ステージを制し、ここでマイヨを奪取。ギマールに総合で2分33秒差をつけるが、総合3位に浮上したオカーニャは2分48秒差で続き、アルプスステージでは前年同様、メルクスとオカーニャの戦いが予想された。 アルプスステージに突入した第11・12ステージとも両者は譲らず。総合3分2秒差は変わらなかったが、第13ステージでメルクスは勝負に出る。イゾアール峠を先頭で通過したメルクスはライバルたちを完封し区間優勝。対してオカーニャはこの区間だけで1分41秒の差をつけられ、総合でも4分43秒差にまで広げられる。 さらに手を緩めることがないメルクスは二部構成となった第14ステージの前半でオカーニャに2分20秒の差をさらにつけてこの区間を制し、オカーニャはギマールにも抜かれて総合3位に転落。さらに力尽きた格好のオカーニャは同ステージ後半においてもメルクス、ギマール、ズートメルク、フェリーチェ・ジモンディらの集団についていけず、さらに5分19秒の差をつけられ総合5位に転落。そして第15ステージをもって棄権した。 激しく迫り来るオカーニャがいなくなったことでメルクスはさらに楽になったのか、第17ステージを終えた段階でギマールに7分58秒まで差を広げていた。そして第18ステージではギマールも棄権。ライバルたちが次々と戦線離脱する形となり、最終的にはやはりメルクスが圧勝。ついに史上2人目のツール4連覇。そして、2度目のダブルツール制覇を果たした。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1974」の記事における「今大会の概要」の解説
メルクスが挨拶代わりともいうべくプロローグを制したが、第5ステージまでは、トラックの6日間レースでは同郷のメルクスの良きパートナーとして知られるパトリック・セルキュがマイヨ・ジョーヌを着ていた。しかし第7ステージを制したメルクスが早くもこの時点でマイヨを奪取。 第9ステージからは今大会のヤマ場であるアルプスステージがスタート。7時間を越える過酷なステージをメルクスが制し、この時点で総合2位のジョアキン・アゴスティーニョに1分37秒、同3位のレイモン・プリドールに2分1秒の差をつける。 メルクスは続く第10ステージも制するが、プリドールも頑張ってメルクスと同タイムゴール。プリドールは総合2位に浮上した。 しかしやはりメルクスは追撃してくる選手をことごとく潰していく。第11ステージではビセンテ・ロペスカリル、ゴンザロ・アハらのクライマーの力を利し、区間2位でゴールしたのに対し、プリドールはこの区間だけで6分17秒の差をつけられ、総合でも6位に転落した。 第14ステージを終えてメルクスがトップ。アハが2分5秒差の2位、ロペスカリルが3分20秒差の3位につけていた。 第15ステージからはピレネーステージ。そして第16ステージでプリドールが会心の走りを見せる。標高2680mのプラダーデ峠をトップで通過したプリドールはロペスカリルの追撃を振り切って区間制覇。メルクスは何とか1分49秒差の区間5位に入るが、総合2位に浮上したロペスカリルとは2分24秒差となった。 第17ステージ。ここでもプリドールが健闘。区間2位でフィニッシュし、メルクスとのタイム差を5分18秒差にまで縮め、総合3位に浮上してきた。対するメルクスは何とかロペスカリルとほぼ同タイムゴールを果たす。 ピレネーステージを終えて、トップのメルクスに対し、ロペスカリルが2分24秒、プリドールが5分18秒差で続いていたことから、まだまだこの時点では総合優勝の行方は分からない状況だった。しかし、山岳ステージを全て終えてからのメルクスの強さはさすがだった。 第19ステージ後半の個人タイムトライアルを制したメルクスは、第21ステージ前半の平坦ステージにおいて、平均時速48.532Kmの高速レースに持ち込んでロペスカリル、プリドールを完全に引き離し、同ステージ後半の個人タイムトライアルでも区間2位に入り、この時点で2位に浮上したプリドールに7分48秒、同3位のロペスカリルに7分49秒の差をつけ、ついに決着をつけた。 メルクスは最終ステージも制覇。そして終わってみれば何と今大会区間8勝を果たし、5度目の総合優勝に華を添えた。
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「ジロ・デ・イタリア 1995」の記事における「今大会の概要」の解説
インドゥラインはツール前哨戦としてクリテリウム・デュ・ドフィネに出場したためジロは不参加。 一方、例年ブエルタを前哨戦にしていたロミンゲルはジロに殴り込みをかけ、これをディフェンディングチャンピオンのエフゲニー・ベルズィンが迎え撃つ形となったが、ベルズィン擁するゲビスチームには二度にわたりインドゥラインを追い詰めた男、ピオトル・ウグルモフがいた。中盤でタイムが接近したベルズィンはチーム内で自分の立場を脅かすウグルモフとの協調が崩壊。先頭交代を拒否するなどまるで敵同士のように潰しあった挙句にロミンゲルを攻めあぐねて敗北してしまった。
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「ジロ・デ・イタリア 1996」の記事における「今大会の概要」の解説
インドゥライン、ロミンゲルの両巨頭が揃って欠場。優勝候補はTTに強い世界チャンピオンのアブラハム・オラーノ、ウグルモフをチームから追い出し絶対エースとして君臨するエフゲニー・ベルズィン、これまでマウリツィオ・フォンドリエストのアシストであったが、ついにエースとして参戦する93年の新人王パヴェル・トンコフといったところ。タイムトライアルはわずか1ステージ、62kmとクライマーに有利なコースでオラーノが山岳ステージでどこまで食い下がれるかに注目が集まる。
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「ツール・ド・フランス1982」の記事における「今大会の概要」の解説
プロローグはイノーが制するも、アンダーソンが第2ステージを制してマイヨ・ジョーヌを奪取。第10ステージを終えて総合首位アンダーソンに対し、イノーが44秒差の2位。 しかし第11ステージの個人タイムトライアルは、ジェリー・クネットマンが制して、イノーが18秒差の2位。そしてイノーがここでマイヨを奪取し、14秒差の2位にクネットマン。対して、アンダーソンは区間12位で、クネットマンに遅れること3分5秒となり、総合3位に転落。 第12ステージからはピレネーステージ。第12ステージは大集団の中、ショーン・ケリーが制し、イノー、アンダーソン、ズートメルクといったあたりはこの集団の中にいたが、総合2位のクネットマンは何と11分55秒の差をつけられる惨敗。トップイノーに対し、アンダーソンが2分3秒差で2位、ズートメルクが4分26秒差の3位に浮上してきた。 しかしイノーは第14ステージの個人タイムトライアルを制し、この時点でアンダーソンに5分17秒、ズートメルクに5分26秒の差をつける。 第15ステージからはアルプスステージ。ここでイノーら上位陣が苦戦を強いられ、区間優勝のパスカル・シモンに対し、3分7秒差で漸くイノーとズートメルクがフィニッシュ。しかしアンダーソンはこの2人にさらに2分40秒の差をつけられる。ここでズートメルクが総合2位に浮上してきた。 第16、17ステージはイノー、ズートメルクとも互いに譲らず。タイム差はほとんど変わらなかった。しかし第19ステージの個人タイムトライアルはやはりイノーが制し、ズートメルクとの差を6分21秒にまで広げ、ここで決着を見た。イノーは最終ステージのシャンゼリゼでもダメ押しのステージ優勝を奪い去り、初のダブルツールを達成。そして、4度目のツール総合優勝を果たした。
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「ツール・ド・フランス1994」の記事における「今大会の概要」の解説
プロローグで異変が。ツール初参戦のクリス・ボードマンが、その初戦で何と、インドゥラインを撃破。ボードマンは第2ステージまでマイヨ・ジョーヌを守った。 翌日の第1ステージ、アルマンティエールのゴールスプリントで惨事が起こった。観客整理のジャンダルムが迫ってくる選手の写真撮影に夢中で回避行動を取らなかったため、先頭争いをしていたベルギーチャンピオンのウィルフリード・ネリッセン(ノベマーユ・レーザー)と激突。ネリッセンは複数箇所骨折に加え頭部を強打して失神状態に陥り、巻き添えを食ったローラン・ジャラベール(オンセ)も顔面骨折、前歯を折るなどの重傷を負ってリタイアした。 第2ステージではベテランスプリンターのジャン=ポール・ファン・ポッペルがオラフ・ルードヴィッヒを下し久々の勝利を挙げた。 第3ステージのチームタイムトライアルでは前年に続きGB-MGが圧勝。マイヨ・ジョーヌは強豪ヨハン・ムセウの手に移った。この後マイヨ・ジョーヌは第4ステージで区間優勝したフランシスコ・カベッリョを追跡したムセウのアシストであるフラビオ・バンツェッラ、第6ステージで区間優勝したジャンルカ・ボルトラーミの逃げに乗ったモトローラのショーン・イェーツへと移るが、中間スプリントによるボーナスタイムを獲得したムセウの手に戻る。 第9ステージ、ペリグーからベルジュラックまでの個人タイムトライアルでは40度近い高温に多くの選手が苦しむ中、暑さを好むインドゥラインがただ一人平均時速50kmを越える絶好調の走りで他を圧倒。最大のライバルであるロミンゲルに2分、前年のグランプリ・デ・ナシオンを制すなどタイムトライアルに強いデラスクエバスには4分の大差をつけてここでマイヨ・ジョーヌを奪い、結果としてパリまで着続けることとなった。プロローグで話題を一心に振りまいたボードマンもここではインドゥラインに5分27秒も差をつけられた。 第11ステージからはピレネーステージ。その第11ステージはインドゥラインが区間優勝のリュク・ルブランを単独で追走。時にカウンターアタックを仕掛けるなどこれまでにない攻撃的な走りを見せ周囲を驚かせた。ここまでは昨年とほぼ同様の展開だが、有力ライバルの一人と目されていたキアプッチに異変が発生した。ウイルス性の消化器疾患を起こしたキアプッチは嘔吐を繰り返しながらレースを続けるも集団から脱落。タイムアウト寸前の最下位となり完走すら危うい状況となった。 第12ステージは4つの峠を超える難関のステージであったが、リシャール・ヴィランクが2つ目のアスパン峠で早くも先頭に立つと、そのまま押し切って区間優勝し、山岳賞ジャージを奪取。区間2位争いもパンターニが4分34秒差で続く。インドゥラインは最後の峠の登りに入ると猛然と先頭を引き始め、ゴールまでついて来られたのはツェーレ、プルニコフなど数名であった。結果ヴィランクに遅れること7分42秒。総合2位のロミンゲルの第11ステージに続く不調に助けられ、ロミンゲルにここで7分56秒差をつけることになるが、ヴィランクもまた総合2位へと浮上してきた。ちなみにキアプッチはこのステージに出走せず、さらに第13ステージではロミンゲルもリタイアした。この二人以外にも前半の猛暑で多量の水分摂取を強いられたため胃腸障害に陥る選手が続発した。 第14ステージからはアルプスステージ。第20ステージまで続く。インドゥラインはここに入ってもヴィランク、ルブランといった選手をマークし、7分以上つけている総合2位とのタイム差を縮めさせないが、ジワリとパンターニ、ウグルモフといった選手たちが順位を上げてきた。 かつて世界チャンピオンのトム・シンプソンを死に追いやった魔の山モン・ヴァントゥを擁する第15ステージでは、前日深夜にサッカーワールドカップの決勝戦を観戦した為多くの選手が夜更かしをし低速走行となった。この間隙を突いてチポリーニのアシスト役であるエロス・ポーリが序盤に飛び出し大差をつけ、転倒寸前の低速に陥りながらモン・ヴァントゥを越えてしまい逃げ切り勝ちを果たした。後続の集団からは数人が飛び出し、翌日も見せ場を作るアルベルト・エッリ、ロベルト・コンティが上位に食い込んだ。 最高の舞台であるラルプ・デュエズをゴールとする第16ステージでは登りに強い十数名のクライマーやパンチャーの逃げ集団が形成された。この逃げに加わったロベルト・コンティは最後の登りで単独アタックを成功させて圧勝、アルベルト・エッリも前日に続いて好成績を収め大きく順位を上げた。一方、パンターニが後方の有力選手の集団を飛び出し凄まじい追撃を見せ大きくタイムを縮めた。 今大会最大標高のバルトランをゴールとする第17ステージでは後半戦に勝負を賭けたピョートル・ウグルモフがアタックを開始。上位陣に一気に詰め寄るが、区間優勝はウグルモフをマークしながら最後まで一度も先頭を引かず力を温存したプロ未勝利のネルソン・ロドリゲスが攫っていった。パンターニは途中落車により膝を強打するものの、終盤起死回生のアタックを成功させ区間・総合とも3位に躍り出た。山岳に弱い選手はマイヨ・ベールのアブドヤパロフも含め実に68人がタイムオーバーによる失格対象となるが、前半の猛暑で痛めつけられ既に多くの選手がリタイアしていたため特例措置により救済された。一方、第9ステージのタイムトライアルの貯金で上位につけていたデラスクエバスはこの日大きく順位を落とし、気管支炎を患ったこともあり、翌日出走せず去っていった。 第18ステージ。ウグルモフが会心のレースを見せて圧勝。インドゥラインは区間2位だったが、ウグルモフに2分39秒の差をつけられた。ヴィランクはインドゥラインについていくのがやっと。ロミンゲルの山岳アシストであるエスカルティンはエースのリタイア後も一人気を吐きここで12位まで順位を上げた。 ウグルモフは続く第19ステージの個人タイムトライアルでも圧勝。パンターニが1分38秒差の区間2位だったが、インドゥラインは雨で濡れた路面でリスクを負うことを嫌い安全策に徹したことでウグルモフに遅れること3分20秒差と完敗。コースアウトなどの失策もあり区間トップに6分4秒差をつけられたヴィランクはここで5位まで後退した。ウグルモフが5分39秒差の総合2位、パンターニが7分19秒差の同3位に浮上してきた。 しかし、あとの2ステージはインドゥラインが守りきって史上3人目のツール4連覇達成。しかし、ウグルモフ、パンターニもあと数ステージあればもっとインドゥラインを追い詰められていたかもしれなかった。インドゥラインがまたまた快挙をなした一方で、徐々にではあるがインドゥラインを追う選手も着々と育ってきていることを印象づけた大会だった。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1969」の記事における「今大会の概要」の解説
メルクスは第1ステージ後半に行われたチームタイムトライアルを制し、早くもマイヨ・ジョーヌを奪う。その後は一時マイヨを失うものの、アルプス超えとなる第6ステージで堂々区間優勝を果たし、再びマイヨを奪取。 そして第8ステージの個人タイムトライアルも制したメルクスは、第9ステージにおいて、2分5秒差で総合2位につけていたルディ・アルティヒを完全に壊滅させ、この区間を制したパンジョンと並んでのゴール。さらに第11ステージも制したメルクスは総合2位のパンジョンに5分43秒の差をつける。この区間2位のジモンディも総合3位に浮上するが、メルクスとはまだ7分29秒差もあった。 第12ステージ。ジモンディがこの区間を制するもメルクスはしっかりとジモンディについていき同タイムゴール。第5ステージから続いたアルプスステージの最終ステージとなり、あとは山岳ステージがピレネーを含めても3つしかないことから、このステージで勝負をかけたはずのジモンディだが、メルクスに差をつけられなかったことで後のステージで苦戦することになる。 第15ステージの個人タイムトライアルをまたメルクスが制し、ジモンディこのステージだけで1分33秒差をつけられ、総合タイムでも8分47秒差の3位。総合2位のパンジョンも8分3秒の差に広げられた。 第16ステージからはピレネー超えの2ステージとなったが、第17ステージにおいてメルクスは中盤のツールマレー峠で早くも先頭に立つと、何とそのまま押し切り。終わってみれば区間2位のダンチェッリに7分56秒差をつける圧勝で、総合タイムにおいても、2位のパンジョンに16分18秒差という決定的なタイム差をつけ、ジモンディにいたっては24分18秒差となり、しかも4位に転落した。 そして最終ステージの個人タイムトライアルも制したメルクスは今大会、個人ステージだけで6勝。さらに総合優勝はもちろん、ポイント賞、山岳賞までも制し、何と「三冠王」にも輝いた。
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「ツール・ド・フランス1995」の記事における「今大会の概要」の解説
途中から豪雨に見舞われたサン=ブリユーでのプロローグでは前半に出走し勝負をかけた一発屋のジャッキー・デュランが優勝する一方、前年に続き優勝を狙ったボードマンは雨中にも関わらず無謀な勝負に出て転倒、骨折してたった2分でツールを去るという波乱の幕開けとなった。 序盤はスプリンターたちの影に隠れていた感のあったインドゥラインだが、アルデンヌクラシックと同じコースを使った第7ステージで突然の奇襲。唯一食らいついたヨハン・ブリュイネールを除いて全ての選手に50秒の差をつけるというこれまでに無い走りを見せた。第8ステージの個人タイムトライアルを制し、予定通りともいう形でここでマイヨを奪った。総合2位には区間でも2位だったビャルヌ・リース。 第9ステージからはアルプスステージ。第9ステージでは、アレックス・ツェーレが区間優勝。インドゥラインは2分20秒差の同2位だったが、ロミンゲルがこの区間だけでインドゥラインに遅れること4分3秒差の区間7位と完敗。リースもまた、同じくインドゥラインに5分35秒差をつけられる。総合では首位インドゥラインに対し、2分27秒差でツェーレが続くも、同3位のリースは5分58秒差、同4位のロミンゲルは6分35秒の差がついてしまう。 第10ステージはラルプ・デュエズがゴールのツールの定番ともいうべきステージ。さすがに力のある選手同士が火花を散らすシーンが再三に亘って展開されていくが、マルコ・パンターニがインドゥラインに1分24秒の差をつけて区間制覇。ツェーレ、リースもほぼインドゥラインに続く。しかしロミンゲルはここでもインドゥラインに1分38秒の差をつけられ、この時点でインドゥラインに対して8分19秒差。早くも、総合優勝を狙うには厳しいタイム差になってきた。 第12ステージで、ローラン・ジャラベールのアタックが見事に決まる。途中で合流したマウリのアシストもあり、ジャラベールはトップのインドゥラインに3分35秒差の総合3位まで浮上した。 ピレネーステージに入った第14ステージはパンターニが快勝。2位集団にいたインドゥライン、ツェーレ、リースといった面々はほぼ同じようなタイム差で続いた。しかしジャラベールは2位集団に遅れること約1分。またロミンゲルはこのステージでもインドゥラインらに2分以上の差をつけられ、総合ではインドゥラインに12分3秒差の8位。ここでほぼ圏外に去った。 第15ステージは6つの峠を超える今大会の難関ステージだったが、ビランクが全ての峠でトップに立って区間優勝を果たす。しかしインドゥラインはしっかりとツェーレらを抑え切り、ここで決着をつけた。華やかな山岳ステージではあったが、ここで大きな悲劇が発生した。34km地点、ポルテ・ダスペ峠の下りで集団落車が発生。モトローラチームでランス・アームストロングのアシストを務めていたバルセロナ五輪金メダリスト、ファビオ・カサルテッリがコンクリート製の車止めに激突して死亡したほか、崖下に転落した数名が重傷を負った。このため第16ステージは追悼走行となり、モトローラの選手を先頭に時速30km前後で走行し全員同タイムで終了、このステージの各ポイントにかけられていた賞金は全てカサルテッリ夫人に寄贈された。 インドゥラインは第19ステージの個人タイムトライアルも制し、ここに史上初のツール・ド・フランス5連覇を達成した。
※この「今大会の概要」の解説は、「ツール・ド・フランス1995」の解説の一部です。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1987」の記事における「今大会の概要」の解説
早くも、第2ステージのチームタイムトライアルで今大会の趨勢を占う出来事が起こる。ロッシュ擁するカレラチームがこの区間を制する一方で、フィニョン擁するシステムUは、そのフィニョンの大ブレーキにより、早くもリーダー交替が囁かれる。 第10ステージの個人タイムトライアルで、ロッシュが制するも、マイヨはフィニョンのチームメイトであるシャーリー・モテに移動した。しかしモテは続く第11ステージで区間優勝を果たしたマーシャル・ガヤンにマイヨを奪われてしまう。 しかしモテは第13ステージからはじまったピレネーステージの緒戦で、大きく遅れてしまったガヤンを抑えて再びマイヨを奪回。しかし総合2位には、この区間2位のベルナールが1分52秒差で続き、同3位には3分23秒差でロッシュが続いた。 第14ステージで順位は3位のままながらも、ロッシュが1分26秒差に詰め、次第にモテに迫ってきた。 しかし山下りステージで、総合争いには変動がないと思われた第15ステージにおいて、ロルフ・ゴルツら3選手の早期のアタックに上位陣が翻弄された。一方、総合争いではモテがベルナール、ロッシュに対し、それぞれ2分台の差をつけた。 第16ステージからはアルプスステージ。ここでは、レジ・クレールの単独アタックが決まる。マイヨのモテは、フィニョンのアシストを受けながらも懸命に山を登るが、次第にベルナール、ロッシュらの上位集団から取り残され、マイヨこそ守ったものの、ベルナールに1分11秒差、ロッシュに1分26秒差、さらに総合4位に浮上してきたペドロ・デルガドに3分16秒差にまで縮められる。 そして第18ステージは個人タイムトライアル。「死の山」と恐れられるモン・ヴァントゥが久々にツールのコースに組み入れられた。このステージでベルナールが快走を見せ、クライマー優勢と伝えられたこの区間を制した。しかも、デルガドに1分51秒、ロッシュに2分19秒に差をつける。そしてモテは3分58秒の差をつけられた。ついにベルナールがマイヨを奪取。モン・ヴァントゥの快走ぶりを見る限り、このままベルナールが総合優勝を果たすのではないかという声が大きくなった。ところが、この快走が後に大きな落とし穴へと繋がっていく。 第19ステージ。前日の劇走がたたって終始ベルナールの走りには精細が見られない。結局このステージはデルガドがロッシュを3秒差抑えて区間制覇を果たすも、マイヨ・ジョーヌはロッシュに移動。そしてモテが41秒差の2位、デルガドが1分19秒差の3位に再び上昇する一方で、ベルナールは1分39秒差ながら、総合4位に転落した。 第20ステージはラルプ・デュエズがゴール。クライマーたちに加え、総合優勝争いから既に脱落しているフィニョンの快走が目立ち、ロッシュ、モテ、ベルナールらは大苦戦。区間制覇を果たしたフェルナンド・エチャベに3分25秒差で続いたデルガドがマイヨを奪い、25秒差でロッシュが総合2位。同3位のベルナール、同4位のモテもそれぞれ2分台の差で続いたが、総合上位陣の疲労の色は隠せなかった。 さらに第21ステージにおいて、フィニョンが早くもスパートをかける展開となり、総合上位勢はさらに苦しい戦いを強いられた。上位4人の中ではベルナールが一番遅れ、デルガドに4分8秒の差をつけられる。モテも3分12秒差に広げられたが、ロッシュは何とかデルガドに対し39秒差で食らいつく。 第22ステージ。今度はモテが引き離され、デルガド、ベルナールも苦戦。そんな中、ロッシュは区間優勝のエドゥアルド・チョザスに43秒差で食らいついて区間2位。デルガドについに21秒差にまで詰め寄った。一方、ベルナールは4分18秒、モテは5分54秒の差がつき、両フランス人選手の総合優勝はいささか厳しくなった。 長く、そして厳しい戦いが繰り広げられたアルプスステージが漸く終わり、残る大一番は第24ステージの個人タイムトライアルだけ。 ここではベルナールが第18ステージに続く快走を見せて区間制覇を果たすも、上位2選手には届かない。結局ロッシュが区間2位の1分44秒差で続いたのに対し、デルガドは2分45秒の差をつけられ、ここでマイヨは40秒差ながらも、ロッシュに移動した。 ロッシュはダブルツール達成。そしてこの年、世界自転車選手権個人ロードも制覇し、エディ・メルクス以来、史上2人目のトリプルクラウンも達成した。
※この「今大会の概要」の解説は、「ツール・ド・フランス1987」の解説の一部です。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1989」の記事における「今大会の概要」の解説
今大会は初日から優勝候補が優勝争いから出遅れてしまう。プロローグの個人タイムトライアルで前年の覇者ペドロ・デルガドが2分40秒遅刻をする前代未聞の大失態を起こしてしまう。最終成績を見ると結果的にその2分40秒がデルガドにとって痛恨の2分40秒となってしまう。 前述した通り、下馬評が低かったレモンだが、第5ステージの個人タイムトライアルを制したことで評価が一変する。レモンは総合優勝を果たした1986年以来3年ぶりにマイヨ・ジョーヌに袖を通す。対するフィニョンも5秒差で続くが、後に最終ステージまでもつれあうことになる2人の激闘のはじまりでもあった。 ピレネー超えの第10ステージでフィニョンがマイヨを奪い取るもレモンとの差はわずか7秒。そして、アルプスステージに突入した第15ステージの個人タイムトライアルにおいて再びレモンがマイヨを奪回し、フィニョンに40秒の差をつけた。 しかしブリアンソン~ラルプ・デュエズの第17ステージにおいて、フィニョンが再びマイヨを奪回。さらにフィニョンは続く第18ステージを制し、この時点でレモンに50秒の差をつけた。 そして50秒の差のまま迎えた最終ステージは個人タイムトライアル。通常年だと、総合優勝者を讃える凱旋パレードの様相を呈する最終ステージだが、この年は緊迫感溢れる展開となり、加えて最後の最後で大逆転が起こった。 出だしから快調にペースを上げるレモンに対し、フィニョンはいささか苦しそうな様子。2人の対照的な走りに対し、地元フランスのテレビ局のアナウンサーの実況ぶりも終始、ひょっとするとフィニョンは負けるかもしれないという落ち着きのない様子だった。 レモンはとなる平均時速54.545km(プロローグ以外の個人タイムトライアルとしては史上最速記録)という驚愕ともいえるスピードをもって、タイムも誰も予想だにしていなかった26分57秒でゴールした。しかしフィニョンは27分46秒でゴールすれば優勝だった。地元フランスの放送局のアナウンサーも、盛んにこのタイムで走破すればフィニョンの優勝です、を繰り返した。だが、フィニョンのタイムは27分55秒。わずか8秒差をもってレモンがフィニョンを逆転。奇跡とも言える2度目の総合優勝を果たした。ちなみにこの総合1位、2位のタイム差8秒という差は、ツール・ド・フランス史上今なお最小タイム差である。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1991」の記事における「今大会の概要」の解説
序盤からレモンは好調で、第8ステージの個人タイムトライアルでは区間2位に入り、この時点で早くもマイヨを奪取した。一方、この区間を制したのはインドゥライン。この時点でトップのレモンに2分17秒差の総合4位につけ、ベルナールも5位、デルガドも12位につけるなど、バネスト勢も好調だった。しかしピレネーステージ緒戦となる第12ステージは、今大会の趨勢に大きく影響を与える結果となった。 このステージはシャーリー・モテが制するものの、上位勢のほとんどはクライマー。しかもそのクライマーたちにレモンの他、デルガド、ベルナール、インドゥラインも潰されてしまった。マイヨを奪ったのはリュク・ルブランで、レモンは2分35秒差の2位に転落。またバネスト勢は、インドゥラインが4分44秒差の5位につけるも、ベルナールが5分46秒差の7位、デルガドに至っては7分5秒差の10位にまで後退し、このままではマイヨ奪回は困難な情勢に追い込まれた。 そこでバネストは苦渋の選択として、マイヨが狙える位置にいるインドゥラインをリーダーに据えることにした。そしてバネストのこの選択は、続く13ステージにおいて見事的中することになる。 第13ステージ。バネストはデルガド、ベルナールがアシストするという贅沢な布陣を敷くことになったが、新リーダーとなったインドゥラインを徹底的にサポートするとともに、当面の敵であるルブラン、そしてレモン潰しに躍起になった。その結果、インドゥラインは、この区間を優勝したキアプッチとほぼ同体でゴールし、レモンはこの区間だけでインドゥラインに遅れること7分17秒、ルブランに至っては12分35秒も遅れ、ついにインドゥラインがこのステージでマイヨを奪った。 さらにアルプスステージにおいてもインドゥラインの快走は続き、デルガド、ベルナールががっちりサポートした第17ステージのラルプ・デュエズゴールにおいても、区間優勝のブーニョに1秒差の2位。この時点でレモンは6分39秒差の総合5位だが、3連覇を狙うには厳しいタイム差となった。 そして第18ステージ。インドゥラインは総合2位につけるブーニョ、同3位のキアプッチを完全にマークし、彼らとともに同タイムゴール。対してレモンは無残にもこのステージにおいて、インドゥラインに7分22秒の差をつけられる区間59位と惨敗。総合でもインドゥラインに14分1秒差をつけられる8位と後退し、完全に3連覇の夢はこのステージで絶たれた。 第21ステージは個人タイムトライアルだったが、インドゥラインは見事区間優勝を果たし、ブーニョ以下に対して完全に決着をつけた。 後に、史上初のツール総合5連覇を果たすことになるインドゥラインの最初の総合優勝はこうして達成された。 最終ステージではゴールスプリントで蛇行したアブドヤパロフが道路脇の広告モニュメントに激突し転倒、後続車も次々と巻き添えになり、シャンゼリゼのゴールは阿鼻叫喚の状態となった。アブドヤパロフはそのまま病院送りとなり、表彰式でも3賞のうちの一人が欠けるという異例の事態になった。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1980」の記事における「今大会の概要」の解説
イノーは早くもプロローグの個人タイムトライアルを制したばかりか、第4ステージの個人タイムトライアル、第5ステージと連勝。個人タイムトライアルとなった第11ステージではルディ・ペフェナーフからマイヨ・ジョーヌを奪った。 だが、この区間を制したのはズートメルク。しかもイノーに1分39秒の差をつけていた。そのため、イノーはズートメルクに総合タイムで21秒の差しかつけられず、今大会では唯一のピレネー超えステージとなる、第13ステージに向けて不安を残すことになった。そしてその不安が的中してしまう。 第13ステージ途中でイノーが膝を悪くして棄権してしまったのである。これでズートメルクが替わってマイヨを奪い、2位にハニー・クイパーが1分10秒差で続いた。 第16ステージからは4連続でアルプスステージとなったが、ズートメルクはじわりとクイパーに差を広げ、第18ステージでは名だたるクライマーを利して2番手集団でゴール。対してクイパーはこのステージにおいてズートメルクに2分45秒の差をつけられてしまい、総合タイム差は5分22秒差にまで広がったが、勝負はここでついた形となった。ズートメルクは第21ステージの個人タイムトライアルを制し、完全に今大会のマイヨの座を不動のものとした。 これまで、エディ・メルクス、イノーの存在の影に隠れ、「万年2位」の座に甘んじてきたズートメルクがツール出場10回目にして総合初優勝を飾った。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1992」の記事における「今大会の概要」の解説
今大会はいきなりピレネーからのスタート。 プロローグこそインドゥラインが制するも、第2ステージでジャビエール・ムルギアルディが区間優勝。ムルギアルディとともにアタックをかけ、3秒差の区間2位と健闘したリシャール・ビランクがマイヨを奪い、総合で2位インドゥラインに4分36秒、同3位ブーニョに4分36秒の差をつけた。 しかし続く第3ステージ。今度は10人ほどのアタックが繰り広げられ、総合上位勢は軒並み大差をつけられた。この結果、第3ステージではパスカル・リノがマイヨを奪い、総合2位ビランク1分54秒差、同3位インドゥライン6分28秒差、同4位ブーニョは6分30秒の差がついた。 その後の平地ステージでも総合順位の変動が激しかったが、リノはマイヨを守る。第9ステージの個人タイムトライアル。インドゥラインがプロローグに引き続き同種目を制し、リノとのタイム差を1分27秒差に縮めて総合2位へと浮上。また総合4位にステファン・ロッシュ、同5位にグレッグ・レモンという、歴代の当大会優勝者が姿を現していた。 第11ステージからはアルプスステージ。ここからが本当の勝負となる。第13ステージでキアプッチが勝負に出る。序盤から先頭を走るキアプッチは、何と5つの峠を通過する難関のこのステージの単独走行を見事実らせ区間優勝。インドゥラインは終盤力尽きボーナに抜き去られたものの1分45秒差、ブーニョも2分53秒差で続き、ついにここでインドゥラインがマイヨ・ジョーヌを奪取。総合2位に1分42秒差でキアプッチ、同3位に4分20秒差でブーニョが続く展開となった。一方前年5位と健闘したリュク・ルブランはここで力尽きて去っていった。 第14ステージはラルプ・デュエズがゴール。上位3人の中からブーニョが脱落。インドゥラインは何とかキアプッチと同タイムゴールを果たし、差を縮めさせなかった。しかしながら総合3位に浮上したこのステージ覇者のアンドリュー・ハンプステンが8分1秒の差をつけられていたことから、実質的には当年のジロ同様、インドゥラインとキアプッチの一騎討ちムードの様相が強くなってきた。 こうなると第19ステージの個人タイムトライアルは断然インドゥラインが優勢であるから、残る山岳2ステージにおいて、徹底的にキアプッチをマークすることが肝要。そしてインドゥラインはその通り実行し、残る2ステージともついにキアプッチに1秒たりとも差を縮めさせなかった。 そして予定通り、インドゥラインは個人タイムトライアルにおいてキアプッチに対し2分53秒の差をつけ決着をつけた。 インドゥラインは初のダブルツールを達成した。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1993」の記事における「今大会の概要」の解説
ジロではウグルモフに大ピンチに追い込まれて不調を噂されていたインデュラインであったが、プロローグでは圧勝。2位にはタイムトライアルでインデュラインを負かしたことがある唯一の男、アレックス・ツェーレが入る順当なスタートとなった。 序盤戦は区間優勝と中間スプリントポイントのボーナスタイムによるマイヨ・ジョーヌ争いとなり、マリオ・チポリーニとウィルフレッド・ネリッセンが激しく火花を散らした。 第4ステージのチームタイムトライアルでは前評判の高かったオンセがメカトラブルの連続で涙を呑み、チポリーニにマイヨを着せるため勝負に出たGB-MGが勝利。マイヨ・ジョーヌはチポリーニが獲得する。トニー・ロミンゲル率いるクラス・カーハストールはメカトラブルで遅れた上ルール違反で1分のペナルティを与えられ大きくタイムロス。大きなハンデを負う事となった。 第5ステージでは後にアームストロング復活のキーマンとなるヨハン・ブリュイネールが当時の最高速記録をマークして区間優勝した。 第7ステージでは少人数の逃げが成功。第4ステージの貯金で上位につけていたヨハン・ムセウがマイヨ・ジョーヌを獲得。区間優勝したビャルヌ・リースと4位のアルバロ・メヒアもこの逃げで順位を大きく上げた。 前述した通り、後に7連覇を達成することになる(ただし2012年にドーピングが発覚して全て成績取消)アームストロングが第8ステージで優勝。しかしアームストロングは第12ステージにて棄権。これはレース前からのチーム監督の指示によるものだった。 アームストロングが区間優勝した第8ステージを終えてヨハン・ムセウがマイヨ・ジョーヌ。一方レース前に優勝候補の一人と目されていたツェーレは興奮した観客が振り回したジャンパーをタイヤに巻き込み転倒、2分以上の遅れを取りここで優勝争いから脱落していった。 インドゥラインは予定通り、第9ステージの個人タイムトライアルを制してマイヨを奪取。インドゥラインは途中パンクにより十数秒ロスするが、このときパンクしていなければ最下位にいた弟がタイムアウトで失格になるところだった。ブーニョは2位に入ったものの2分11秒差をつけられ、ロミンゲルも逆風に祟られ2分42秒遅れの4位と山岳を前に大きなハンデを負ってしまった。 第10ステージからはアルプスステージに入る。ガリビエ峠を越える第10ステージではガリビエに入る前にグランドン峠で早くもブーニョが脱落、キアプッチもガリビエで先頭集団から遅れ優勝戦線から大きく後退、第9ステージのタイムトライアルで好調だったエリック・ブロイキンクもメカトラブルで脱落してしまった。 ロミンゲルが区間優勝したが、インドゥラインはゴール直前までマークするという強さを見せ、マイヨをがっちりとキープ。 ツール・ド・フランス史上最高峰となるボネット峠を越える第11ステージではかつての山岳王ロベルト・ミラーが全盛期を髣髴とさせる逃げを見せるが、ゴールとなるイゾラ2000への登りでインドゥラインが牽引する先頭集団に捉えられてしまった。 この後ゴール数キロ手前までミラー、ゼノン・ヤスクワらがアタックを繰り広げるものの全てインドゥラインに潰され、最終的にアタックを成功させたのはロミンゲルだった。インドゥラインはロミンゲルを逃がさずゴールまでマークしきったものの、最後にロミンゲルに譲り2日続けての2位となった。一方、このステージでは膝痛に悩まされ続けたローラン・フィニョンがサポートカーの治療を受けながらレースを続けるもののイゾラ2000の中腹で力尽きリタイア。最後のツールを不本意な形で去ることになった。 第15ステージからはピレネーステージ。ここではコロンビアのオリベリオ・リンコンが素晴らしい逃げを見せ区間優勝した。ここに入っても、山岳ステージでは無理をしない走りを見せるインドゥラインは、総合2位につけるメヒア、同3位のヤスクワ、同4位のロミンゲルに対しがっちりとマーク策に出て差を縮めさせない。 カテゴリー1級と2級の山岳が5つ重なる最大の難関である第16ステージではロミンゲルとインドゥラインの一騎討ちの様相を見せたが、ここまでアシストなしでインドゥラインらに食らいついてきたヤスクワが最後の最後に追いつきゴール直前で捲って勝利した。 このステージのゴール地点、サンラリー・スランは真夏にもかかわらず気温5度まで低下。寒さに弱いメヒアは前年にラルプ・デュエズで優勝しチーム内順列でも上位にいたアンドリュー・ハンプステンの援護を受けるものの大きく遅れてしまった。 一方、この年で引退が決まっている1987年の三冠王ステファン・ロシュは不調の続くエースのキアプッチを見捨てて猛然と追撃を敢行、上位の3人にあわや追いつくかというところまで肉薄した。 ピレネー最終の第17ステージで、今大会不調のキアプッチが逃げを決め漸く区間優勝を果たすが、インドゥラインとはまだ14分19秒差の6位。インドゥラインを追い詰めることは不可能となった。また、ステージ終盤で総合5位のビャルヌ・リースを擁するアリオステアチームが追撃し差を縮めたため思いのほかタイム差も稼ぐことができず順位も上げることにも失敗した。 ところで、インドゥラインの3連覇は山岳ステージを終えた時点でほぼ決まりの状況となったが、第19ステージの個人タイムトライアルでロミンゲルが何とインドゥラインを42秒差制して区間優勝。ヤスクワ、メヒアを抜き一気に2位に躍り出た。むろん、インドゥラインとのタイム差はまだ4分59秒もあり、残りあと1ステージしかないことから総合優勝は無理な状況ではあったが、個人TTでは無敵の状態を誇るインドゥラインを負かしたことに大きな意味があった。ヤスクワは直前に行われたツール・ド・スイスではロミンゲルを上回るタイムを残していたものの、ここでは1分48秒及ばず区間、総合とも3位。メヒアは3分以上遅れたため表彰台から転落してしまった。 しかし、終わってみればインドゥラインが終始危なげない戦い方を見せつけて3連覇。さらにダブルツールも連覇達成という、史上初の快挙達成。ちなみにダブルツール連覇というのは今もなお、インドゥラインしか成し得ていない。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1985」の記事における「今大会の概要」の解説
イノーは、プロローグのタイムトライアルで早くもマイヨ・ジョーヌを奪い、その後も優位にステージを進めた。また、総合2位にはレモンがつけるが、第16ステージを終わってイノーがレモンに4分の差をつけていた。 しかしイノーは第14ステージのゴール前で落車して鼻を骨折しており、第17ステージではレモンとの差は2分25秒差にまで縮まり、俄然、レモンにも総合優勝のチャンスが巡ってきた。イノーの体調次第では、リーダーをレモンに譲る可能性すら出てきたが、イノーの5度目の総合制覇にかける情熱はすさまじく、そのままレモンはイノーのアシスト役に徹することになった。 結局イノーがレモンに最後は1分42秒差にまで縮められるも5度目の総合優勝を果たすとともに、2度目のツール、ジロのダブルツール制覇も果たした。また大会終了後イノーは来年の当大会はレモンに優勝させると明言した。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1979」の記事における「今大会の概要」の解説
今大会は早くも第1ステージからピレネーステージ。第2ステージのピレネー超え個人タイムトライアルで、イノーがズートメルクやアゴステーニョらを制し、早くもマイヨを奪取。さらにイノーは続く第3ステージも制した。 第8ステージのチームタイムトライアルを終えて、イノーはズートメルクに1分18秒の差をつけた。着々とツール連覇のお膳立てを作りつつあったイノーだが、続く第9ステージは平坦コースながらも、「北の地獄」としてパリ〜ルーベでよく知られているルーベがゴール。このステージでズートメルクはスプリンターの力を利用しながらイノーを粉砕し、イノーにこの区間だけで3分45秒の差をつけた。総合でもイノーに2分5秒差をつけ、マイヨを奪取。 第11ステージの個人タイムトライアルはイノーが制するも、ズートメルクはイノーに対して36秒遅れただけだった。ズートメルクがマイヨ・ジョーヌを着たまま、いよいよ今大会の正念場となるアルプスステージを迎える。 第14ステージを終えて、マイヨのズートメルクに対し、イノーは49秒差。3位のクイパーが既に7分48秒もの差をつけられていることから、この時点で昨年に引き続き、イノーとズートメルクのマッチレースの様相を呈してきた。 第15ステージの個人タイムトライアル。途中に標高1833mのアボリアス峠があるという山岳のタイムトライアルだったが、イノーはズートメルクに対して2分37秒の差をつけ完勝。マイヨをここで奪回した。 さらにイノーは第16ステージでもズートメルクに1分3秒の差をつける。そして第17・18ステージは今大会一番の正念場、ラルプ・デュエズ。 第17ステージはアゴスティーニョが制したが、イノーはしっかりとズートメルクをマークして双方同タイムゴール。そしてラルプ・デュエズがスタート&ゴールとなる第18ステージはズートメルクが制したものの、イノーは47秒差の区間3位と踏ん張り、まだイノーが1分58秒の差をズートメルクにつけていた。 ラルプ・デュエズの2ステージでズートメルクにほとんど差を縮めさせなかったことがイノーにとって自信に繋がったのか、第21ステージの個人タイムトライアルにおいて、イノーはズートメルクに1分9秒の差をつけ区間優勝。ズートメルクに総合でも3分7秒の差をつけ、残る3ステージは平坦区間であったことから、イノーの連覇はここで確実なものになった。 総合優勝を確実なものにしたイノーだが、ルーベの区間でズートメルクの奇襲を受けているだけに、平坦である23・24ステージも手抜かりがなかった。いずれも勝利。この連勝はまさしく、メルクスの再来を思わせるものとなった。 ところで、ズートメルクは本来、イノーに対して3分7秒差の2位だったはずだが、総合成績では13分7秒差となっている。これは一昨年に引き続き、ドーピングにひっかかったため、ペナルティとして完走後に10分のペナルティが与えられたことによる。したがって最終ステージで2位に入ったズートメルクの区間順位は剥奪されている。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1978」の記事における「今大会の概要」の解説
混戦ムードが漂う今大会だが、それを象徴するかのように、前年優勝のテブネが第11ステージで棄権。また、序盤はスプリンターが区間優勝をことごとくさらう展開となった。 第8ステージの個人タイムトライアルで、イノーが区間優勝。しかしこの時点ではマイヨ・ジョーヌのジョセフ・ブルイエールとは3分32秒の差があった。 ピレネーステージに入った第11ステージにおいて、イノーがマリアーノ・マルチネスに5秒差の区間2位で入り、ブルイエールに1分5秒差まで詰め寄り総合2位へと浮上した。しかしアルプスステージである第14ステージの個人タイムトライアルにおいて、ブルイエールはイノーに45秒の差をつけて突き放し、そればかりかイノーはこの区間優勝したズートメルクにも抜かれ総合3位に転落。 しかし、イノーは第15ステージを制覇。またラルプ・デュエズがゴールとなった第16ステージにおいて、イノーは区間優勝を果たしたクイパーに8秒差で続いた。ズートメルクが41秒差の区間3位に入ったことにより、この時点でズートメルクがマイヨを奪い、イノーがわずか14秒差の総合2位となったが、トップのクイパーから遅れること11分16秒の差をつけられたブルイエールは総合でもズートメルクに9分32秒差をつけられ、完全にこの時点において総合優勝争いから脱落。さらに、同ステージを制し、総合3位に浮上したクイパーが続く第17ステージで棄権。総合優勝争いはズートメルクとイノーの2人にほぼ絞られた形となった。 14秒差のまま迎えた第20ステージの個人タイムトライアルにおいて、イノーは1時間39分29秒をマークして区間制覇。対するズートメルクはイノーに遅れること4分10秒差の区間9位と完敗し、ここでイノーがズートメルクに総合で3分56秒の差をつけるとともに、初めてマイヨ・ジョーヌを手にした。 そして、残る2ステージも大勢は変わらず、イノーがツール初出場・初優勝の快挙を成し遂げた。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1977」の記事における「今大会の概要」の解説
今大会は、ディートリッヒ・テュラウが大活躍。第1ステージからマイヨ・ジョーヌをキープ。また、メルクスも近走の不調ぶりを払拭させるような走りを見せた。また、今大会は難度の高い山岳ステージが比較的少なく、近年のツール・ド・フランスにしては珍しく、中盤までほとんど順位に変動がない大会となった。 第14ステージを終えて、マイヨはチューラオ。2位に51秒差でメルクス、3位に1分22秒差でテブネ、4位に1分40秒差でハニー・クイパーがつけ、バンインプが2分15秒差の6位、ズートメルクが3分40秒差の10位にそれぞれつけていたが、いずれもこのタイム差であればまだまだどの選手にも優勝のチャンスがある様相。 変化があったのは第15ステージの後半。区間3位に入ったズートメルクがドーピングにひっかかり、区間順位を取り消された。総合タイムについては、完走した際の所要時間に10分加算の罰則が課せられた。上位陣のタイム差が僅少である今大会においてこのペナルティは実に大きく、事実上、ズートメルクはここで脱落したも同然となった。 このステージにおいて、テブネがわずかにチューラオを抑えてマイヨを奪うが、チューラオとの差はわずかに11秒。しかも3位メルクスが25秒差、区間優勝を果たした総合4位のバンインプが33秒差、クイパーが49秒差で続くという、この時点においてもまだまだ大混戦状態が続いていた。 第17ステージのラルプ・デュエズで波乱が起こる。バンインプが伴奏車と接触し転倒するアクシデント。何とか区間2分6秒差の3位、総合でも1分58秒差の3位で続いたが、ひょっとすると、転倒がなければこの区間を制していたかもしれず、さらにマイヨの奪回も可能だったかもしれなかった。クイパーがこの区間を制したが、テブネも41秒差で続いて区間2位に入り、この時点でマイヨのテブネと2位のクイパーとのタイム差はわずか8秒。 一方、ここまで健闘してきたチューラオ、メルクスはいずれも12分以上の差をこのステージでつけられてしまい、ここで2人は大きく後退した。メルクスにとって、最初で最後のラルプ・デュエズだったが、さすがに全盛期の頃のようにはいかなかったようだ。 第18ステージは総合順位に変動はなかったが、区間1位のアゴスティーニョ、2位のメンデスがいずれもドーピングにひっかかり、それぞれ区間順位を剥奪された。結局2人もズートメルクと同様に10分のペナルティが最後に加算されることになった。 第20ステージの個人タイムトライアル。ここでテブネがクイパーに28秒、バンインプに1分24秒差をつけて区間制覇。クイパーとの差を36秒差にまで広げたが、実は今大会は最終ステージ前半にも6Kmの個人タイムトライアルが設けられており、本当の決着はここまで持ち越しとなった。 最終ステージ前半。今大会大健闘したチューラオが制したが、テブネがクイパーに12秒の差をつけ、ついにマイヨ・ジョーヌ争いに決着がついた。テブネは2度目の総合優勝を果たした。 総合1、2位のタイム差はわずか48秒。史上2番目の僅少タイム差であった。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1976」の記事における「今大会の概要」の解説
プロローグは後に当大会のポイント賞を3度受賞することになる、フレディ・マルテンスが制し、マルテンスは第1、3ステージも制したばかりか、マイヨ・ジョーヌもプロローグからキープ。さらにマルテンスは山岳最初の第7ステージも制し、第8ステージまでマイヨを守った。 しかし第9ステージは、実にツール・ド・フランスのコースとしては1952年以来24年ぶりに復活したラルプ・デュエズがゴールのアルプス超え区間。今大会最初の難関といってもいいステージはズートメルクとバンインプの2人が抜け出し、わずかにズートメルクがバンインプを抑えて区間優勝。総合ではバンインプが8秒差ズートメルクを抑えてトップに立った。また、ここまでマイヨ・ジョーヌだったマルテンスはこのステージでズートメルクに4分51秒の差をつけられ、バンインプとのタイム差は1分にも満たなかったが、総合3位に落ちた。 続く第10ステージ。ここでもバンインプ、ズートメルクが先頭集団を形成し、これにテブネ、プリドール、ハニー・クイパーらが加わって最後までこれらが先頭集団となってゴールを迎えたが、ここでもズートメルクが区間優勝。しかしバンインプが1秒差で続き、マイヨ移動はならなかった。 しかしながら戦前の予想通り、このステージを終えてマイヨ・ジョーヌ争いは混沌とした状況となり、総合3位のプリドール、同4位のテブネも1分台の差。また同4位のフランシスコ・ガルドス、同5位のファウスト・ベルトグリオも2分台の差で続くという大混戦となった。 そして今大会は息つく間もなく、第12ステージからはピレネーステージが始まり、その第12ステージでは、レイモン・デリルが中盤からアタックをかけ圧勝。これまでの上位陣は少なくとも7分近い差をこのステージでつけられてしまい、マイヨ・ジョーヌはデリルの手に渡った。 第13ステージを終えて、総合2位のバンインプは2分41秒差、同3位のズートメルクは2分47秒差、同4位のプリドールは4分10秒差だった。そして第14ステージ。デリルの奇襲に遭ったバンインプが反撃に出る。 第14ステージ。早くも最初のメンテ峠を先頭で通過したバンインプは、終始このステージを牽引。一方、バンインプの快走にデリルは次第に遅れはじめ、結局バンインプがこの区間を制し、3分12秒差でズートメルクが区間2位。一方、デリルはこの区間だけで12分8秒差をつけられ、この結果バンインプがマイヨを奪回。総合2位には3分18秒差でズートメルク。デリルは総合3位に何とか踏みとどまったが、バンインプに対して9分27秒もの差をつけられた。またテブネはこのステージでも大きく遅れ、バンインプに対して15分27秒差となり、連覇を狙うには厳しいタイム差となった。 ピレネーステージが終わった直後の第17ステージは個人タイムトライアル。タイムトライアルが得意でないバンインプだったが、予想外にもズートメルクに1分57秒の差をつける区間4位と健闘。そしてズートメルクとの差を4分33秒差にまで広げた。なお、テブネは第19ステージにてリタイアした。 第20ステージは220Kmの最後の勝負ステージと目された区間だったが、ここでもバンインプは、区間優勝のズートメルクをがっちりとマークしてタイム差はほとんど変わらず。その後もバンインプはマイヨをキープし、ついに総合優勝を果たした。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1975」の記事における「今大会の概要」の解説
プロローグのタイムトライアルでいきなりマイヨ・ジョーヌを奪ったモゼールは、第5ステージまでマイヨを守った。しかしメルクスが第6ステージの個人タイムトライアルでモゼールからマイヨを奪ったことから、例年通り、このままメルクスがそのまま突っ走るのかと誰もが思った。 しかしモゼールは続く第7ステージを制し、マイヨ奪回こそならなかったもののメルクスに食らいついた。さらにモゼールの前半ステージにおける大健闘ぶりが後にメルクスの勝利の方程式を奪ってしまうことになる。 漸く前半ステージ最大のヤマ場となる第9ステージの個人タイムトライアルを制し、メルクスはモゼールに初めて、1分39秒差という分単位での差をつけることになるが、テブネが2分20秒差の3位につけていた。 ピレネーステージに突入した第11ステージで、大きく遅れたモゼールに替わってテブネが1分31秒差で2位に浮上。そしてアルプスステージに突入した第15ステージのニース~プラルー区間において、今大会のみならず、ロード界における世代交代ともいうべき歴史的な結果に遭遇することになる。 標高2000M級の山々が連なり、5つの峠を越えるという今大会最大の難関といっていいステージだが、中盤のシャン、アロの両峠はメルクスがトップで通過した。しかし次第にメルクスの走りに精細がなくなり、ライバルたちが一斉に反撃に打って出た。その中から、チームメイトのアシストを受けたテブネが抜け出し、見事この区間を制覇。メルクスはテブネに遅れること1分56秒差となり、ついに総合でも、テブネがメルクスに58秒の差をつけてマイヨを奪った。 さらにテブネは第16ステージにおいてもメルクスに2分22秒の差をつけてステージ連勝。総合で3分20秒の差をつけた。そしてメルクスは第18ステージの個人タイムトライアルでもテブネに対して15秒しか縮められず、ここでほぼ決着がついた。 結局テブネがメルクスに2分47秒の差をつけ、初の個人総合優勝を果たした。 テブネはこれまで、タイトルとしてはツール・ド・ロマンディの勝利がある程度の選手で、ツールでは73年に2位入賞の実績があるも、優勝したオカーニャに15分以上の差をつけられていた。
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今大会の概要
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「ツール・ド・フランス1973」の記事における「今大会の概要」の解説
プロローグこそズートメルクが制するも、序盤のステージはオカーニャのチームメイトであるBICのジョセ・カティーオが健闘し、第6ステージまでマイヨ・ジョーヌをキープ。そしてオカーニャは1分59秒差の5位につけていた。 アルプスステージの第7ステージは二部構成。前半ステージをオカーニャが制し、ここでマイヨはオカーニャに移動。そして後半ステージを終えて、オカーニャに続く総合2位はズートメルクで2分51秒差。ベルナール・テブネが3分17秒差の5位、ルシアン・バンインプが3分19秒差の5位、プリドールが6分24秒差の7位につけていた。 続く第8ステージは標高2556mのガリビエ峠、同2361mのイゾアール峠という、2つの難関峠を控えるアルプスステージ最大の難関ステージであったが、オカーニャは早くも中盤のガリビエ峠で先頭に立ち、続いてくる選手はホセマヌエル・フエンテだけ。しかもゴールではフエンテを振り切って見事区間優勝を果たす。そしてズートメルク、バンインプは何とこのステージだけで20分24秒、プリドールも20分31秒も離される惨敗。テブネも6分59秒差つけられた。この時点でオカーニャは総合2位のフエンテに9分8秒の差をつけ、テブネは10分16秒差の3位となった。一方、ズートメルクは5位、バンインプは7位、プリドールは9位に後退したばかりか、いずれも20分以上の大差をつけられてしまった。 アルプスステージで既にオカーニャの走りはメルクスに匹敵するものであるという評価が下されていたが、今大会の第13ステージは2年前、マイヨ・ジョーヌを身にまとったままリタイアを余儀なくされたときと同じ行程。しかしオカーニャは、ズートメルクの必至の抵抗を振り払って堂々区間優勝。総合2位のフエンテにこの区間だけで4分以上の差をつけ、完全にオカーニャの独走状態となった。なお、第14ステージでプリドールが棄権した。 その後もオカーニャは第16、第20ステージ前半も制し、上記の総合成績の通り圧勝。ひょっとすると、メルクスが出場していても勝っていたかもしれないと言わしめる結果ともなった。
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