ツール・ド・フランス2連覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:01 UTC 版)
「ローラン・フィニョン」の記事における「ツール・ド・フランス2連覇」の解説
1983年、イノーはブエルタ・ア・エスパーニャを制しながらも、古傷の膝の故障が癒えずツール・ド・フランスの欠場を余儀なくされた。その代役として、当時ルノーの監督だったシリル・ギマールがイノーと相談の上、キャリア2年目ながらも、その年のブエルタで区間優勝(第4ステージ)を経験しているフィニョンを抜擢、ツールに出場させた。すると、フィニョンは中盤で総合2位に浮上し、さらに総合1位のパスカル・シモンを第15ステージの個人タイムトライアルで追い詰め、そしてシモンが第17ステージでリタイアするとマイヨ・ジョーヌを奪った。その後もフィニョンはマイヨを守りきり、初出場で総合優勝の快挙を成し遂げた。 翌1984年、イノーがラ・ヴィ・クレールチームを立ち上げることとなり、ルノーを離れたことから、名実ともにフィニョンがルノーのエースとなった。フィニョンは同年のジロでは最終ステージの個人タイムトライアルにおいて、フランチェスコ・モゼールに逆転され総合2位に終わったが(後述するが、フィニョンは1989年のツールでも同様の形で逆転負けを喫することになる。この年はモゼールが最新スポーツ医学によりアワーレコードを達成するなど、最高潮の身体能力を持っていた時期であり、またモゼールにとってもジロは悲願の初優勝であった)、イノーとの頂上対決となったツールではアルプス超えステージでイノーを圧倒し、最終的にイノーに10分以上の差をつけてツール2連覇を果たした。またこの年、フランス国内選手権も優勝した。
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