ツール・ド・フランスでの復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 10:05 UTC 版)
「グレッグ・レモン」の記事における「ツール・ド・フランスでの復活」の解説
復活を期した1989年、ツール・ド・フランスに先立って参戦したジロ・デ・イタリアでもレモンは総合47位と振るわず、総合優勝を果たしたローラン・フィニョンの遥か後塵(こうじん)を拝することとなった。しかし、最後の個人タイムトライアルでは2位と健闘し、復活の兆しも見せつつはあった。なおフィニョンも1983年と1984年に2年連続でツール・ド・フランスを連覇した後に負傷などで低迷し、「勝てない王者」などと呼ばれるようになっており、レモンより一足先に復活を果たすこととなった。ルノー・エルフ時代にはチームメイトでもあり、同じくベルナール・イノーのアシスト役を担っていたレモンとフィニョンは、人間関係においては決して良好ではなかったが、選手としては互いに一定の敬意を払い合っており、また負傷と低迷から復活を期す者同士としての共感も抱き合っていた。1989年のツール・ド・フランスで、レモンは37もの散弾片を体(いくつかは心臓のそば)に残したまま、20位以内を目標にした。直前のジロ・デ・イタリアでの不振、また所属チームも弱小のADRボテッキアということでレース前の前評判は低かった。 しかし、レースが始まってみると、得意のタイムトライアルで好成績を残すとともに、アシスト陣が非力なために苦戦が予想された山岳ではフィニョンのスーパーUチームのアシストを借りる巧みな「間借り作戦」で上位をキープし続け、最終ステージ、パリでの個人タイムトライアル時点で、レモンは総合2位。ローラン・フィニョンにタイム差+50秒で迫っていた。レモンは当時最新のエアロバーバイクでタイムトライアルに臨み、フィニョンにこのステージで逆転。総合で8秒差でマイヨ・ジョーヌを奪い、個人総合優勝を果たした。 数週間後、さらにレモンは世界選手権プロロードレースで、最後のゴールスプリントを制し、2度目の優勝を果たす。レモンは自転車選手として初めて、『スポーツ・イラストレイテッド』誌の1989年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーの栄誉に輝いた。 翌1990年のツール・ド・フランスにレモンは移籍したZチーム(英語版)のエースとして、前年の世界選手権優勝者としてマイヨ・アルカンシェルジャージを着て臨んだ。序盤はライバルたちのマークに苦しみ、先行したクラウディオ・キアプッチ、スティーブ・バウアー、チームメイトの、ロナン・パンセック(英語版)らに大きく出遅れてしまったためにレース中、監督命令によって一時的にエースから降格し、その時点でマイヨ・ジョーヌを獲得していたパンセックのアシストに回る状況にもなった。レモンはチームオーダーに従いパンセックのアシストしながらも、第12ステージ個人タイムトライアルで地道にタイム差を縮め、またパンセックがこの時点でマイヨ・ジョーヌを失ったこともあって、その後エースに復帰、最終日前日の個人タイムトライアル開始時点では首位のクラウディオ・キアプッチに対して5秒差の2位にまで順位を戻していた。けっきょく一度もステージ優勝はできなかったが、前年同様最終の個人タイムトライアル(この年は最終日前日)でマイヨ・ジョーヌを獲得し自身3度目の総合優勝を果たした。
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