慰安婦問題前史
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1910年8月29日 大日本帝国による韓国併合。以降、太平洋戦争終戦まで、非正規兵を含む日本軍や日本国民/日本人の表記には旧大韓帝国人民も含まれる可能性があることに留意が必要である。 1932年長崎県の女性を騙して上海の慰安所に連れて行った日本人斡旋業者が、婦女誘拐海外移送罪で逮捕される(1937年有罪判決)。 1938年『中央公論』3月号に石川達三が「生きている兵隊」を発表。第9章に「日本軍人の為に南京市内二個所に慰安所が開かれた」と記載された。「彼等壮健なしかも無聊に苦しむ肉体の欲情を慰めるのである」という表現は伏字とされた。第10章にも「大阪神戸附近から八十六人の商売女を駆り集め」とあるが当時は伏字とされた 1939年1月『大同案内記』(日本国際観光局)出版。中国の大同市在住の日本職業婦人調査表には、内地人は芸妓59名・酌婦48名・女給81名、朝鮮人は芸妓1名・酌婦63名の記載 1月 「China Returns Good for Evil」、『China at War』1月号に掲載。中国の捕虜収容所のリポート。捕虜の中に30人の朝鮮人がおり、そのうち6人は慰安婦(camp followers)で「北支の様々な地域で日本人に捕えられ、仕事を強いられた」と報じる。 アグネス・スメドレー「The Sources of Sadism in the China War」、『The China Weekly Review』3月18日号に掲載。「蘇州において日本軍はめったに強姦をせず、娼婦を利用するようになっている」という同誌の記事に反論し、「占領した地域で、日本軍は殺人をしていない時には、女狩りをしていた」、日本の傀儡が若い女を監禁し日本軍に提供しているので「日本軍が利用しているのは娼婦だけではない」、「皇軍慰安所(Comfort House of the Imperial Army)にいる女の多くは囚われたもの」だと主張。 3月4日 ソウル在住の元看守・河允明とその妻が少女を誘拐し大陸で売却していたことが発覚し、逮捕される。被害者は7年間で約150人。(河允明事件) 3月9日 『東亜日報』に「誘引事件多端 遊郭業者が娼妓を地方に転売」との見出し。河允明に売られた少女が警察の追及を恐れる業者によって転売されており、一人が山東省の慰安所に来たところを救出されたと報じる。 4月 『CHINA FORUM(中華論壇週刊)』4月15日号が、日本軍が江西省南昌市を占領し「避難しなかった市民2000人を虐殺し、多くの若い女に慰安婦(army prostitutes)になることを強いた」と報じる。 『中央公論』8月号に邑楽慎一「戦場で逢った女たち」掲載 1942年6月 茅盾『劫後拾遺』(學藝出版社)中国で刊行。42頁に「日本人多麼精明,他們平時每到一個碼頭,妓女是自己帶去的。現在是戰時,要花姑娘自然徵用。何况他們又有隨軍娼妓」というセリフ。のち「香港陥落」として邦訳(1963年)。 1944年6月27日 日本政府閣議用資料「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」(内務大臣発、総理大臣宛)作成。朝鮮半島において「未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり」、このためもあって労働力の調達がますます困難になるという予測を示す。 1944年11月 「JAP ‘COMFORT GIRLS’」、『CBI Roundup』(11月30日付)に掲載。「拉孟の玉砕戦」で捕虜になった慰安婦(comfort girls)についてのリポート。「朝鮮の平陽里出身」、「村に来た日本人の政治将校たちが、シンガポール後方の休養キャンプの運営、慰安、病院の手伝いの仕事だと言って募集に来た」、「4人ともどうしてもお金がほしかったので応募した」、「1500円もらった」、「船がシンガポールを通り過ぎ、ラングーン行きの列車に乗せられた時に運命を悟った」などと報じる。 12月 イェン・シャオパン「"WELCOME BACK TO CHINA!" A Prelude to the Reopening of the Burma Road」、『China at War』12月号に掲載。連合軍によるビルマ・ロード開通までのリポート。ビルマのサドンで発見された20人の広東人慰安婦(army prostitutes)について記す。「5年前に広東が侵略された際に慰安婦にされ、香港、上海、タイ、ミットキーナへと連れられて来た」、「ミットキーナからバーモへ転戦する途中、朝鮮人慰安婦25人とともに離脱した」という。 1945年ワン・ツンパオ「Japanese Army Prostitutes」、『China at War』2月号に掲載。「拉孟の玉砕戦」で捕虜になった11人の日本人慰安婦(comforting girl)についてのリポート。「ほとんどは九州出身」、「日本政府に売春を強制されるまでは、女給や看護婦や女中だった」などと記述。鎮康県大寨の地下壕で見つかった晴れ着姿の慰安婦7人の死体について「日本軍が殺した」と断じる。 6月 『タイム』6月11日号がビルマで英軍の捕虜になった日本人看護婦と「短髪、軍服姿でライフルを担いだ日本人慰安婦("comfort" girls)」について報じる。 6月 『タイム』6月18日号が沖縄で米軍海兵隊の捕虜になった朝鮮人慰安婦("tea-house" girls)10人の写真を掲載。「親によって仲介業者に売られた」と記す。 9月2日 日本が連合国に降伏 12月 『コリアーズ』12月8日号にカリカチュア画家サム・バーマン(Sam Berman)による朝鮮人慰安婦の絵が掲載される。慰安婦(comfort women)は「兵士の慰安のため日本軍とともに旅することを強いられた女」と記す。 1946年5月12日 韓国紙『ソウル新聞』に「倭軍慰安に連行されていた女性 中国にいる同胞有志らが収容保護」と見出し。「娘たちを女子挺身隊または慰安部隊という美名のもとに、日本はもちろん、遠く中国や南洋などに強制的にあるいはだまして送り出した事実」と記す。 ハーレット・アベンド『Reconquest, Its Results and Responsibilities』刊行。慰安婦は「擦り切れたような日本人娼婦と、だまされた朝鮮人少女と、日本軍が満洲・シナの都市を陥落した後に必ず起こった暴行殺戮の生き残りとがつくるキャラバン」だと記述。 1947年田村泰次郎が朝鮮人慰安婦をテーマとした『春婦伝』を書く。あらすじを多少変え、1950年に『暁の脱走』として映画化。 1948年『ライフ』3月号に国民党側の捕虜になった中国共産党軍の慰安婦(comfort girls)13人の写真が掲載される 1949年藤井重夫「永遠の哀號」、『文藝讀物』8月号に掲載。拉孟の朝鮮人慰安婦が、自分は“国防婦人会の監督に当たる兵務部”に騙されて慰安婦になった、と語る場面がある。12月刊行の『サロン臨時増刊号 大日本帝國始末記』に再録。 1950年辻政信が『十五対一 ビルマの死闘』(酣灯社)に慰安婦(p.57)として「天草娘・朝鮮娘」(p.77)を記載 1952年日中戦争に従軍した伊藤桂一が戦記小説『夏の鶯』をサンデー毎日別冊に発表。朝鮮人慰安婦十数人のいる慰安所が表現された。第4回千葉亀雄賞、サンデー毎日大衆文芸入選。 派遣軍宣伝班の一員であった今日出海が『悲劇の将軍』(文芸春秋社)を刊行。マニラ市長ギント氏に「・・女の配給を軍がしているのは困りものですね」と皮肉を言われた話や軍司令官が女を囲っている話。「醜業婦が下駄履きで御用船から降り、舗装道路を乱れた列を作って慰安所に配給される光景は、日本人の私が見ていて恥ずかしい思いがしたものである」 1953年2月27日 参院本会議で社会党の藤原道子議員が「米軍の暴行事件は、昨年12月までの独立後8ヵ月間におき1878件を数えた」と指摘 5月 富田邦彦編『戦場慰安婦』(富士書房)刊行。味坂ミワ子(仮名)の手記とされる。 6月 田村吉雄『秘録大東亜戦史』(全12巻、富士書苑)刊行開始。「向いあって、四、五人の朝鮮出身の慰安婦がしゃがみ込んでいた。はじめ慰安婦たちは、我々に泊ってゆけとしつこくすすめたのである。『お金なんかどうでもいいんだよ。淋しいから泊っていきなさい』『タダでもいいよ、朝まで遊んでいきなさい』私の前にいた二十歳にもなるまいと思われる娘はとうとうそんなにまで言った」(ビルマ篇、373頁)などと記す。 9月 『日本資本主義講座』(全10巻、岩波書店)刊行開始。第1巻260頁に「太平洋戦争の後期には、あせった日本帝国主義者は徴用の手続きすらとらず、警察と方面委員の手で朝鮮の村々から青壮年をトラックで狩り出して、日本本土へ送り出していた」、「戦争末期には男は軍需工場、炭坑、基地建設の突貫工事などの激しい奴隷労働に、老幼婦女は炭坑にあるいは慰安婦にかり出され、遠くマリアナ、ニューギニアまで配置されて、戦争の被害は日本人民以上に悲惨であった」と記載。 五島勉編『続・日本の貞操』(蒼樹社)刊行。在日米軍基地に働く日本人女性が朝鮮の戦地に慰安婦として輸送機などで送られたと記載。1985年に『黒い春 米軍・パンパン・女たちの戦後』(倒語社)として再刊され、2004年の『性暴力問題資料集成6巻』(不二出版)にも掲載された。 1954年パトリシア・バーラム共著『Operation Nightmare』刊行。朝鮮戦争の従軍取材記。バーラムがインタビューした18歳の北朝鮮軍慰安婦(communist "comfort girls")「パク・インサク軍曹」は、テニスシューズ・縞柄の靴下・青いスカート・カーキ色のチュニックという姿で、赤い肩章をつけていた。「婦人陸軍部隊員(wac)と呼ばないで。私は人民軍のメンバーよ」、「戦争が終わったらすぐに結婚したい」と語る。 1955年広辞苑の初版が刊行される。【慰安婦】とは「もと戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」と記載。 『特集文芸春秋 日本陸海軍の総決算』に重村実「日本の戦場慰安婦 特要員と言う名の部隊」掲載 1956年1月 李東準『日本にいる朝鮮の子ども 在日朝鮮人の民族教育』(春秋社)刊行。戦時中徴用された朝鮮人について「男だけにかぎらず、わかい娘もおなじようにつれだされて、砲弾工場や雑役仕事にまわされた。ひどいばあいは、戦地に慰安婦としておくりこまれた」(49頁)と記す。 『特集人物往来』6月号に北一夫「戦場を駆ける慰安婦部隊」掲載 ジョン・ハワード・デニー『Chindit Indiscretion』刊行。日本軍の捕虜として慰安婦 (comfort girl) と関係を持った経験を記す。 毎日新聞記者(陸軍報道班員)松村喬『落日のマニラ』刊行。1944年のマニラ、フロデンティノ・トレス街でひっそりと運営する「軍隊の慰安所」を発見したという。 1957年田中貴美子『女の防波堤』(第二書房)が出版 麻生徹男が博多の情報誌『うわさ』9月号に「戦線女人考」を発表。(続編は74年2月号に) 1958年5月 長谷川伸『生きている小説』(光文社)刊行。三竈島の慰安所で軍医が「悪い仲介人があって売り飛ばされた」処女を見つけ、将兵が金を出し合って借金を返してやり、故郷に帰らせた逸話と、原住民宅で強盗・暴行した水兵が捕えられ、佐世保で罰せられたという事件を記す。 10月 磯村英一『性の社会病理 日本の売春にみるもの』(講談社)刊行。195頁に「現に太平洋戦争中に、現地において多数の女性が“慰安婦”という名で“出征”を強要され、また国内にあっても戦地に行く徴用工達の“激励”の道具として女性が利用され、吉原などで通用する“割引遊興券”が発行されていた」という記述。 11月 京都大学文学部国史研究室編『日本近代史辞典』(東洋経済新報社)刊行。【売春】の項に「第2次大戦中売春婦は女子挺身隊として奉公させられ、売春婦の『軍に協力する国家公務公用人』としての公募は売春の非人間性を極限に達せしめた」(501頁)と記載。 中野清見が『ある日本人』(平凡社)の第2部に「朝鮮から連れてこられた慰安婦と呼ばれる人たち…」(p.308)、「慰安所、朝鮮の女たち…」(p.349-350)を記載 1960年『別冊週刊サンケイ』8月号に寺川実「新京慰安所繁盛記 ソ連進駐に活躍した大和撫子たち」掲載 1961年小林大治郎・村瀬明『みんなは知らない国家売春命令』(雄山閣出版)刊行。特殊慰安施設協会の概要を記述。 ジョン・アシュミード『The Mountain and the Feather』刊行。米国海軍の情報将校・日本語翻訳官だった著者の自伝的小説。マニラで慰安所を経営していた早坂某への聞き取りの場面を含む。 1962年8月14日 韓国紙『京郷新聞』に「挺身隊として連行され、南洋・中国各所で日本人将校の慰安婦の役割をしていた韓国処女」と記載 大橋薫「都市問題の回顧 ―社会・文化的観点から―」が『都市問題研究』10月号に掲載される。「(売春婦の)ほとんどは貧困な家庭の出身で、人身売買的な前借制度によってやとわれ、実質は、半どれい的な籠の鳥で、苛酷な労働条件のもとで榨取をほしいままにされた。第2期の戦時体制下でも、こうした状態が続いたが、同時に売春婦は慰安婦として戦地に徴用された。しかし、やがて第2次大戦に突入するとともに、売春婦は一部を残して大部分は工場その他に動員され、残された一部は産業戦士の慰安などにあてられた」と記載。 白鳥隆寿『シッタン河に沈む ビルマ敗走記』(私家版)刊行 元慰安婦の城田すず子、『愛と肉の告白』(桜桃社)を刊行 尾崎士郎が1943年の『戦影日記』の改訂版『戦記バタアン半島』(圭文館)刊行。内容:日本風邸宅の軍政部長宅で接待婦数名を呼んで宴会。 1963年4月 『中国現代文学選集 第8巻』(平凡社)刊行。茅盾「香港陥落」の中で「従軍慰安婦」という言葉が初出:「日本人ってやつはなかなかぬかりがないからな。やつらは平時港につくたびに、商売女は自分で連れて行ってるんだ。今は戦時だから女が必要ならむろん徴用するさ。ましてやつらには従軍慰安婦までいるんだぜ」 7月 高見順『いやな感じ』(文藝春秋新社)刊行。最終回で慰安所に列をなす日本兵の姿が描かれる。 8月14日 宋建鍋(ソン・ゴンホ)「光復前夜日帝の発悪」、韓国紙『京郷新聞』に掲載。「挺身隊=俗に処女供出とも言った。年頃の乙女たちを戦場に連行し、慰安婦にした」「どれほど多くの韓国の乙女が連行され、その後どうなったのか、知る人はいない」と記載。 『週刊朝日』8月23日号の応募手記「私の八月十五日」で吉田東司(吉田清治)が佳作に当選。慰安婦には触れず、朝鮮人労務者調達の経験を記す。 9月23日 『日本読書新聞』に「ドキュメント 朝鮮人」連載開始。翌年11月23日まで。 1964年3月 岡村昭彦「日本人記者のみた平和線」、韓国紙『東亜日報』に全三回で連載。“漁船の船長”の発言として「大東亜戦争の時、韓国人の18歳から20歳までの乙女たちは、挺身隊という名目で連行され、結局は全てが軍隊の娼婦にされてしまったんですよ」と記す 6月 寺尾五郎ほか編『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(日本朝鮮研究所)刊行。「日本帝国主義者は、売春制度の一番底辺の部分に朝鮮婦人を大量に投げこみました」、「(“慰安婦部隊”の)八割までが、強制的に連れ出され、狩り出された朝鮮婦人でした」、「慰安婦部隊は、『皇軍』の敗戦・退却のさいに、南方絶海の孤島に置き去りにされたのはまだよいほうで、ひとまとめにして殺してしまったことも多々あります」、「日本の男で、兵隊にいった経験のある男で、このことを否定できる人間が一人でもあったらお目にかかりましょう」などと記載。 1965年2月17日 殉国先烈遺族会の会長が「日本は答えよ」と題した記事を韓国紙『京郷新聞』に寄稿。「(日本は)未婚女性を挺身隊との名目で拉致動員し、慰安婦にした」と記す。 5月31日 朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未來社)刊行。67頁に「戦時中朝鮮女性が慰安婦として多数戦線に動員されているが…」、169頁に「うら若い同胞の女性が多数『女子挺身隊』、『戦線慰問隊』などの名目でひっぱられ、『慰安婦』として戦争遂行の犠牲にされた」、「全体の数は数万に上ると思われる」と根拠不明の記載。 6月22日 日韓基本条約に両国が調印 6月30日 寺尾五郎『朝鮮問題入門』(新日本出版社)刊行。慰安婦について『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』と同じ記載(142頁)。ただし慰安婦の「八割」ではなく「すべてが強制的に連れ出され、狩り出された朝鮮人」だったと記す。 6月30日 『ドキュメント 朝鮮人 日本現代史の暗い影』(日本読書新聞出版部)刊行。190頁に「日本にはいま世界中各国七十何カ国かの人間がいるそうですが、(略)挺身隊(慰安婦を意味することばだ)なんかでひっぱられて来たものもいるし」と記載。 9月 塩田庄兵衛「“奪われた”ひとびと・戦時下の朝鮮人」『朝日ジャーナル』に掲載「朝鮮半島において、『女子挺身隊』、『戦線慰問隊』などの名目で動員されたおそらく数万人の女子が『慰安婦』として戦線に同伴された」と『朝鮮人強制連行の記録』『ドキュメント 朝鮮人』などに依拠して記述。1966年『昭和史の瞬間〈上〉』に収録。1971年英訳。 10月 島田俊彦『関東軍』(中公新書)刊行。「原善四郎参謀が(略)飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して“営業”させた」(176頁)と記述。 10月 朴玉順(パク・オクスン)『わが星はいずこの空に 白人混血児洋公主の手記』(王子出版社)韓国でベストセラーに。同年映画化。1966年邦訳。 11月 近代戦史研究会編『女の戦記1 女の兵器 ある朝鮮人慰安婦の手記』(浪速書房)刊行 11月20日 自民党の荒舩清十郎代議士が「朝鮮の慰安婦が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ」と放言。のち「マクドゥーガル報告書」の典拠になる。 1966年4月 朴玉順『わが星はいずこに 青い目の韓国女性の手記』(講談社)刊行 5月 朝日ジャーナル編集部編『昭和史の瞬間〈上〉』(朝日新聞社)刊行。1974年再刊。 韓国で合同通信社の英文年鑑『Korea Annual 1966』刊行。「数千の朝鮮人乙女が徴用され、“Women's Service Corps”・“Women's Consolation Corps”として日本人少女とともに売春させられた」という記載。朴慶植 (1965) が典拠か。 1967年文定昌『軍国日本朝鮮強占三六年史・下』(柏文堂)刊行。「1933年ごろからは花柳界の朝鮮人・日本人女性たちを慰安婦という名称で満州から北支方面に出動させたが、その数は世間では200,000人と言われ、41年ごろからは良家の乙女たちを奪って女子挺身隊という名で、どこかへと連行し始めた」と記す。(「慰安婦20万人説」初出) ジョージ・フィッチ『My Eighty Years in China』刊行。「日本軍が置き去りにした700人の朝鮮人キャンプ・フォロワー」「多くは意志に反して不幸な生活に入ることを強いられ」と記述。 合同通信社『Korea Annual 1967』刊行。前年と同じ記載。 1968年2月 家永三郎『太平洋戦争(初版)』(岩波書店)刊行。「朝鮮の娘たちが多数慰安婦として前線にかり出された」(44頁)などと朴慶植 (1965) に依拠して記述。のち英訳さる(1978年)。 4月26日 衆院社会労働委員会で慰安婦への戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用が議論される 11月 長尾和郎『関東軍軍隊日記』(経済往来社)刊行。島田俊彦『関東軍』176頁の記述を引く。 1969年金廷漢『修羅道』、韓国の『月刊文学』8月号で発表。日本統治下の朝鮮で、赤紙で徴用された女子挺身隊は慰安婦にされるという設定。主人公カヤ夫人の小間使いオギが挺身隊に徴用されそうになる。第6回韓国文学賞を受賞 伊藤桂一のドキュメント『兵隊たちの陸軍史』刊行。「戦場と性」の章に慰安所の光景が解説され「慰安婦も多くは、欺(だま)されて連れて来られたのである。」と記載。 [先頭へ戻る]
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