慰安婦関連の活動
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1984年11月2日の夕刊紙上に《邦人巡査が強制連行 21歳故国引き離される》と題した以下の記事を執筆。 「タイ南部の小さな町に、韓国人のハルモニ(おばあさん)を訪ねあてた」「八万人とも十万人ともいわれる従軍慰安婦の多くは、生きて帰れなかった」「十四歳で結婚したが・・婚家を逃げ出し・・各地を転々とした。ある日、釜山郊外で井戸の水を水がめにくんで頭に載せて帰ろうとしたら、日本人巡査が三、四人来た。『待て』と言われて身をかわした瞬間、水がめが落ちて割れ、巡査の服をぬらした。いくら謝っても許してもらえず、殴られたり、けられたりしたうえ、車の中に押し込まれた。それが人生の岐路となった」「この夜から、挺身隊員として地獄の日々が始まった」「慰安婦の生活は、昼間は兵隊の衣類の洗濯や兵舎の掃除、弾薬運びなどの重労働で、夜は兵隊のなぐさみものになった。朝から何十人もの相手をさせられる日もあった。少しでも反抗すると、監督に殴られ、髪を引っ張られ、半裸で引き回された。人間以下の生活だった」 30年後の8月5日、朝日新聞は慰安婦問題検証記事を掲載、朝鮮や台湾では「軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません」「女子挺身隊は、・・慰安婦とはまったく別です」として、松井記事の依拠および主張する事実関係を否定している。検証記事は吉田証言に依った記事を取り消したが、この記事は取り消していない。
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