サツマイモ 日本列島における栽培と普及史

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サツマイモ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:42 UTC 版)

日本列島における栽培と普及史

南方ないしは中国から琉球国に伝わり、それが薩摩藩領で栽培され、下見吉十郎らの手によって救荒作物として広められ、享保の大飢饉の際にその有用性に気付いた江戸幕府の命により青木昆陽が日本各地で栽培を開始した、とするのが定説である。ただし、中国から伝わったものと南蛮貿易などで南方からもたらされたものは別品種・別系統である、とする考察もある。

日本列島の特に本州を中心にした社会では、伝来の経緯から当初「リュウキュウイモ(琉球芋)」「カライモ(唐芋)」またはその色から「赤芋」と呼ばれていたが、江戸幕府が薩摩藩から入手し、全国に栽培を奨励して以降は「サツマイモ(薩摩芋)」という呼称が普及し、先の呼び方より多く使用されるようになった。現在も方言として各地に「アカイモ」「カライモ」「トイモ(唐芋)」などの呼称が残っている[注釈 3]

琉球への渡来

野国総管は沖縄へ甘藷をもたらした。彼の像は沖縄県嘉手納町に「甘藷伝来400年祭」(2005年)の説明と共にある。
種子島西之表市に建つ「日本甘藷栽培初地之碑」
  • 1597年宮古島に伝来したとする説がある。長真氏等の家譜によると、1594年、宮古島の村役人であった長真氏旨屋(砂川親雲上旨屋)が、宮古島を支配下に置いていた琉球王国首里王府への帰途に逆風で中国に漂着した。1597年に中国を出発したが、今度は九州に流れ着き、それからようやく帰島した。この時に宮古島へ苗を持ち帰ったとする。旨屋は栽培の普及に努め、島では主食となるほどに広まった。死後はンーヌ主(芋の神様)として御獄に祀られている。ただし、サツマイモがフィリピンから中国・福州に伝来したのが1594年であり、1597年はそのわずか3年後であることから、この説には時期的に疑問が呈されており、『宮古史伝』や『宮古島庶民史』は家譜の記述を誤記として退け、宮古への伝来を1618年としている[43]。宮古島から沖縄本島へは伝播しなかった。先島では1612年与那国島1694年石垣島など、それぞれの島ごとに中国から、本島とは関係なくばらばらに伝来し、その島内では急速に普及が図られるものの、他の島へ伝えるのは消極的だった。2013年時点、宮古島の大座御嶽にて甘藷(イモ)の神が祭られている[44]
  • 1604年或は1605年[45]、当時の琉球王国(現在の沖縄県)の沖縄本島に伝わる。への進貢船の事務職長(総管)であった野國総管(与那覇 松)という人物が明の福建等處承宣布政使司(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった。種子島や本土に伝来したのはこちらの系統である。
  • 1713年の『琉球国由来記』では、蕃薯には種類があり、皮や実の色から4種類が分類されている。
  • 1609年(慶長14年)の薩摩藩による琉球侵攻に際して、サツマイモが持ち帰られた可能性は否定できない。また、1611年に薩摩藩軍が撤兵する際、尚寧王が宴席にてサツマイモ料理を出し、その美味を味わった薩摩藩士の求めに応じ、サツマイモを進呈した、とされる。
  • 1698年元禄11年)3月、種子島に伝わる。領主の種子島久基種子島氏第19代当主、栖林公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて、家臣の西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。西之表市下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建つ[46]。この時の芋は「唐芋(カライモ)」と呼ばれている。西村は栽培するだけではなく、粉や、菓子、焼酎など利用法を試行した。このことにより普及が進んだとされている。

本土への渡来

三浦按針
「貝原益軒像」

前述のように、一般的には日本列島の南方から順に伝わった、とされるが、室町時代安土桃山時代に中国や東南アジアから直接、九州各地の貿易港や畿内などにもたらされていても不思議ではない。以下に記すように、導入ルートも複数ある。もっとも多くは栽培に成功したわけではなく、定着には至っていない。本土で最初にサツマイモが定着したのは薩摩藩であったとされる。

  • 後世に薩摩藩で編纂された農書本草学書『成形図説』に拠れば、慶長から元和年間(1596から1623年)にかけてのうちに領内の坊津港でのポルトガル人との貿易において、ルソンからの交易品として既にサツマイモがもたらされていた、とされる。
  • 1614年(慶長19年)、肥前国平戸イギリス商館[注釈 4]長公使のリチャード・コックスの命を受けたウィリアム・アダムス(三浦按針)は、平戸からシャム(タイ)に向けて貿易のための航海に立った。しかし中古の中国ジャンク船を改造したシーアドベンチャー号は浸水を起こし、緊急に琉球国那覇港に寄港した。船の修理を行う間にアダムスは現地の芋を入手し、翌1615年(元和元年)に平戸に持ち帰った。イギリスで食されていたジャガイモに似ているため、コックスは平戸でを借り、農民に委託する形でこれを栽培した、とコックスの日記に記されている。コックスはこれを「琉球芋」と記している。
  • 同じく元和の頃、薩摩出身の僧侶であった鼎山が、紀伊国に持ち込んだ、とされる。
  • 1692年(元禄5年)、伊予国今治藩の重臣江島為信が、日向国から今治藩領に種芋を移入した。しかし、その後の記録は途絶えており、栽培には失敗したと考えられている[47]
  • 1697年元禄9年)、宮崎安貞が『農業全書』を著す。同書で甘藷について記述しているが、宮崎は甘藷そのものを見たことはなかったのではないか、と推測されている。また「薩摩や長崎周辺では「琉球芋」または「赤芋」と言い広く栽培されているが、他地域では知られていない」と記している。宮崎と親交のあった貝原益軒1708年(宝永5年)の著『大和本草』では、貝原が実際に観察したと推測される記述がみられ、また、「蕃薯(琉球芋、赤芋)」と「甘薯」の二つに分けて区別している。貝原は「蕃薯は長崎に多く、甘い」「甘薯は元禄時期に琉球から薩摩に伝わった」としている。
  • 1704年宝永元年)に出版された浮世草子『心中大鑑』(書方軒)に、「八里半(後述)といふ芋、に似たる風味とて四国にありとかや」とあり、これはサツマイモのことだと推定される。
甘藷翁(前田利右衛門)頌徳碑

救荒作物としての普及

藩を挙げて栽培を奨励していた薩摩藩を除き、サツマイモはまず、民間の力で広まった。最初に本格的な栽培に成功したのは飢饉に見舞われることの多かった芸予地方とされ、その後も土壌や土地傾斜などが耕作に不向きなために食糧生産力が低い、すなわち気候異常などにより飢饉が発生し易かった土地を中心に救荒作物として普及していった。薩摩藩もまた、領内の半数を占めたシラス台地と呼ばれる、米作には不向きな土地があったことが奨励の主要因である。

下見吉十郎の像
  • 薩摩藩以外で最初に栽培に成功したのは芸予諸島であるとされる。1711年正徳3年)、六部僧として大三島から諸国行脚の道中に薩摩を訪れた下見吉十郎が、薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていた芋を、仏像に穴を空けてそこに種芋を隠すという手法で持ち出し、故郷である伊予国(現在の愛媛県)大三島での栽培を開始した。下見の妻の父である村上休広が琉球から持ち帰った芋を安芸国竹原で栽培したとする話も伝わる。
  • 1715年(正徳5年)、対馬郷士原田三郎右衛門が、薩摩国からサツマイモの種芋を持ち帰った。対馬国の地は全島の9割近くが山地であり、耕作面積が非常に狭いため、武士階級でも山野の食物を採集して食べていたほど食糧生産事情が悪かったが、サツマイモの普及によりこれが解消した。現地では「孝行イモ」とも呼ばれる。また、サツマイモを非常に手間をかけて加工し、「せん」と呼ばれる保存食を製造していた。この「せん」から対馬独特の団子や餅、ちまき、さらに「ろくべえ」と呼ばれる麺を作る。六兵衛は肥前国島原半島周辺と対馬にて作られているが、両者の関係はよくわかっていない。共通するのは他のサツマイモ産地と同様に「米作りに適した土地(土壌)ではなかった」という点である。
  • 1716年享保元年)、京都の薬問屋・島利兵衛(嶋利兵衛)という男が琉球から芋を持ち帰り、故郷の村で栽培に成功する。一説には禁を破ったため琉球鬼界ヶ島島流しとなり、許されて帰る際にこれまた禁を破って芋を持ち帰った、とされる。流刑先は琉球の他、壱岐硫黄島隠岐など諸説ある。村の名を取り「寺田芋」として名産地となった。利兵衛の墓は後年、和菓子司の手によって「琉球芋宗匠 島利兵衛」と刻まれた。このため同地では「青木昆陽の栽培より10年早い」ということを誇っている[注釈 5]
  • 江戸幕府はこの頃既に救荒作物としてリュウキュウイモ(サツマイモ)の有用性を認識していたらしく、1723年(享保8年)に耕作に不向きで全島飢饉に陥ることが多かった八丈島にこれを導入しようとしている。同年の試みは失敗に終わったが、数年後の1727年(享保12年)に定着に成功した。1735年(享保20年)には伊豆七島に種芋を送り、栽培を推奨している。1811年(文化8年)には大賀郷の名主家の菊池武昌が新島から紅さつま芋を持ち込み、栽培した。さらに1822年(文政5年)には、武昌の息子の小源太がハンスという品種を導入したとされる。菊池親子の事績は、「甘藷由来碑」として残されている[48][49]
井戸正明像(井戸神社蔵)
  • 1732年(享保17年)、享保の大飢饉により瀬戸内地方を中心に西日本が大凶作に見舞われ、深刻な食料不足に陥った。しかしサツマイモを栽培していた伊予国大三島の周辺では餓死者が全く出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。
また、石見銀山では江戸幕府の代官であった井戸正明年貢の減免、年貢米の放出、官金や私財の投入などを行った[50]。大森地区(現在の島根県大田市)の栄泉寺で、薩摩国の僧である泰永から甘藷が救荒作物として適しているという話を聞き、種芋を移入[50]。その年に種付けを試みたが、種付けの時期が遅かったことなどもあって期待通りの成果は得られなかった[50]。しかしながら、邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛が収穫に成功[50]。その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った[50]。この功績により、井戸正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っている[50]

幕府の奨励

青木昆陽
1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、九州出身の者の手を借り、江戸小石川植物園下総の馬加村(現・千葉市花見川区幕張町)、上総九十九里浜の不動堂村(現・九十九里町)において試験栽培し、1735年に栽培成功を確認。「薩摩芋」はこれ以後、東日本にも広く普及するようになる。
1734年、 昆陽は『甘藷記』を記し、普及に努めている。編纂は越智直澄。共著は小比賀時胤、越智直澄、医官の野呂元丈
1736年元文元年)昆陽は幕府より薩摩芋御用掛を拝命し、幕臣となった。
サツマイモの普及イコール甘藷先生(青木昆陽)の手柄、とするには異説もあるが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。

余談となるが幕府はこの頃、同じような目的からジャガイモの普及・栽培も奨励している。

一般への普及

その後、サツマイモは庶民の生活・文化の中に急速に浸透した。サツマイモを詠んだ狂歌川柳も多く残る。

  • 1751年寛延4年)頃、川越名主が息子を上総に派遣してサツマイモの栽培法を学ばせ、これを導入した。これがのちに川越をサツマイモの名産地と成した。のち川越藩主の松平直恒を通して将軍徳川家治に川越地方でとれたサツマイモを献上した際、「川越いも」の名を賜ったとされる。
川越旧三富新田の神明社境内
「甘諸乃神(いものかみ)」
  • 1773年安永2年)出版の小松屋百亀小噺本『聞上手』に「いもや」という話が収録されている。古典落語芋俵』の元になったとされるが、この時点で江戸では芋が庶民にも親しまれ、芋の商いが商売として成り立っていたことがわかる。
  • この頃の川柳作品に「夏渋く冬甘くなる堀江町」という一句がある。これは当時日本橋堀江町において、夏は柿渋を塗って製造される団扇を商い、冬は芋を売っていた情景を読んだ一句である。この頃はまだ焼き芋ではなく、蒸した芋であった。山東京伝作の『一百三升芋地獄』の作中において、閻魔大王の裁きを受けたサツマイモは「粋人を胸焼けさせた罪」を問われ、「堀江町地獄」に送られている。このように堀江町は当時、芋の商いで有名であった。
  • 1789年寛政元年)、いわゆる百珍物のレシピ本である『甘藷百珍』(珍古楼主人・著)が出版された。
  • 寛政年間(1789年-1801年)頃、尼崎においてサツマイモの栽培が始まった。それまでは農業に適しているとはいえなかった荒れた土地を使い、「尼いも」と呼ばれ特産となった芋は京阪神の料亭などに出荷された。
  • 1794年(寛政6年)に刊行された山東京伝・作で北尾重政・画の黄表紙『箕間尺参人酩酊』には、蒸し芋売りの店が描かれている。1830年頃の随筆『寛天見聞記』には「寛政の頃は焼き芋はなく、蒸し芋しかなかった。のち神田甚兵衛橋(弁慶橋隣)あたりで焼き芋が初めて売られた」と記されている。
  • 文政年間(1818年-1831年)頃、駿河国御前崎周辺(現在の静岡県御前崎市)で干しいもの製法が確立された。現代の干しいもも基本的にこの製法である。
  • 1831年天保2年)、幕臣の山田桂翁による随筆集『宝暦現来集』には、1793年(寛政5年)の冬に、江戸本郷[要曖昧さ回避]四丁目の番屋にて、行灯に「八里半」と書いて焼芋[注釈 6]を売った、その後小石川白山町にてこちらは行灯に「十三里」と書いて石焼芋が売られた、と記されている。また、それ以前の江戸では「蒸し芋」が主であったが、このヒット以降、焼き芋が主流になったとも書かれている。番所では小物の商いをすることが黙認されており、その物販の一つとして冬場に芋が売られていた。
  • 上述の「八里半」とは栗(九里)に食味が近いという意味である。前出の通り、1704年頃には既に関西方面では知られた名称だったことが推測される。また「十三里」は栗より上という意味と、当時サツマイモ栽培が盛んであった武蔵国川越が、江戸から十三里の距離であったことに由来すると共に「栗より美味い十三里(九里+四里=十三里)」という江戸の地口の宣伝文句と共に広まった。1853年嘉永六年)頃に書かれた喜多川守貞の『守貞謾稿』では、川越とはもはや無関係の関西方面でも「十三里」と書かれた芋売りがいたことが記されている。同書では一方で江戸の「○焼き」「八里半」と書かれた看板(行燈)の挿絵も収録されている。1858年安政5年)に描かれた歌川広重の『名所江戸百景』中の「びくにはし雪中」という作品には、冬の江戸(京橋川が外堀に出る河口に架かっていた比丘尼橋付近。現在の銀座一丁目あたり)で「○焼き」「十三里」と書かれた看板が描かれている。この「○焼き」とは焼き芋の形体の事であり、切ってから焼いたものを「切焼き」、芋一本を丸ごと焼いたものを「丸焼き」と呼び、「○焼き」などと書かれた。また「十里」という用語もある。1850年 (嘉永3年) に西沢一鳳が出した江戸見聞録『皇都午睡』[注釈 7]にて、生焼けの芋を十里と言う、と書かれている。五里五里、すなわち食感がゴリゴリだという意味である。
  • 前出の『守貞謾稿』では大阪京都において「ほっこり、ほっこり」と言いながら行商で蒸し芋を売り歩く姿が記録されており、これは同書に先立つ1809年文化6年)出版の十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛』大阪編においても「ほっこりほっこり、ぬくいのあがらんかいな」と売り歩く姿が書かれている。ここから派生し、上方方面では蒸し芋・焼き芋の事を「ほっこり」と呼ぶようになった。『東海道中膝栗毛』作中においても「女中がたの器量不器量、ほっこり買うて喰うてござるも」という文があり、現代の辞書においても「ほっこり」の意味として「上方方言で焼き芋のこと」とされている。
  • 1853年嘉永六年)、薩摩の商人であった丹宗庄右衛門が罪を得て八丈島に遠島処分となった。前出のように八丈島では米が恒久的に不作であり、酒造りに回す余剰の米が無く、酒造は禁止されていた。庄右衛門は八丈島にて栽培定着していたサツマイモを使って、地元薩摩で行われていた芋焼酎作りに着手し成功した。庄右衛門が島に居た16年の間に彼は、薩摩から焼酎に適した品種の芋、薩摩の優れた道具の導入を行い、八丈島に芋焼酎産業を定着させた。
  • 江戸末期において甘いサツマイモは、世間に肥満が増えた原因とされたことがある。
  • 近世後期において、九州、四国を中心とした日本の西南地域ではサツマイモの日常食材化が進み、人口増加率も全国平均を大きく上回っている。風害や干害に強く人口支持力の高いサツマイモは、米の売却で利益を得る諸藩にとってもまた藩領民にとっても、基本的に税の対象外でもあり、都合の良い作物だった[51]
  • 江戸時代末期に生まれた菊池貴一郎が「蘆乃葉散人」という筆名で明治30年代になって出版した『江戸府内絵本風俗往来』という書がある。自身の手による挿絵もある同書には、自身の江戸期の思い出として「冬になれば江戸の町人が住む市中で焼芋店のあらぬ所はなかった」「町々の木戸の番太郎の店(番屋)では必ず焼芋を売っていた」「日本橋あたりの繁華街で売っていた芋は甘くて香りが良かった。あれは川越の本場物だったと推測する。だからであろう、値段も高かった」と記されている。また、「焼き芋は9月下旬から12月まで売られた」「1月から2~3月は焼芋ではなく蒸し芋または芋の丸揚げが売られた」とも記されている。同書の著者の菊池とは、のちの四代目歌川広重のことである。
  • 幕末から明治期には、現在もサツマイモで名高い川越の赤沢仁兵衛が実験・研究しまとめた「赤沢式甘藷栽培法」によって収穫量が増加した。
  • 明治42年(1902年)に刊行された夏目漱石の小説『それから』の作中には、東京市内において夏は氷水、冬は焼き芋を扱う店が多くあったことが書かれている。
  • 前述の番所での焼き芋の商いはしかし明治期になり番所制度が無くなると、当たり前だが無くなった。一方で漱石が記すようなビジネスが生まれ、さらに専業ではない店や主婦の小商いとして人気があり、店舗も多かったがそれらは同時に、火災の原因となることが多かった。明治期に入り明治24年(1891年)年10月9日に東京府から『麪包(パン)焼場及甘藷焼場規則制定』が出され、さらに明治26年には『甘藷焼場改造』の布令が出された。両法令には防火設備の義務付けなどが含まれており、手頃なサイドビジネスとしての街角の焼き芋売りは姿を消していった。同時に明治24年11月4日に東京甘藷小売商組合が設立され、業界内での自立規制を執ろうとする動きがみられる。これらの法令にも拘らず東京の焼き芋人気は衰えを知らず、明治30年頃の東京のサツマイモ消費量は「年間60万俵」と記録されている。ただし大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により、これらの小売焼き芋店は他業種の店舗と同様にその店舗を失った。

大学芋

大学芋
  • 明治31年(1898年)に平出鏗二郎が書いた『東京風俗志』にて、東京の焼き藷の売り方として「丸焼・切焼・胡麻塩焼の類あれども、京阪に見るが如く輪切にして焼き、醤油を塗れるものなし。近時京都焼きと称して、間々これを学ぶものあれども、多く行われず。」と記録されている、明治時代に焼き藷屋が味付けをしていたこと、またサツマイモにゴマを合わせていたことも知れる。これがのちの「大学芋」のルーツの一つではないかとする説がある。

注釈

  1. ^ ニュージーランドではkumaraと呼ぶ。
  2. ^ 種まきとは種子(特に真性種子)に対して使われる言葉であり、種芋やツル苗あるいは球根などの栄養繁殖の場合は定植(ていしょく)という言葉が一般的。
  3. ^ 「アカイモ」がサトイモを差す場合もあるため注意。
  4. ^ 当時はイギリス(グレートブリテン王国)と呼ばれる国家は存在せず、イングランド王国スコットランド王国同君連合であったが、便宜上「イギリス」の呼称を用いる。
  5. ^ ここまで各地で栽培に成功しており、また、近年になって利兵衛の孫の口上書が発見されたが、それに拠れば流刑先は壱岐島で、1746年(宝暦3年)に赦免され帰国したことになり、以降に栽培した場合、江戸幕府試験場での栽培試験のほうが先であったことになる。
  6. ^ 1833年(天保4年)城北百拙老人・著『世のすがた』によれば「ほうろく焼き」、すなわち壺焼き。
  7. ^ 「みやこのひるね」。旅先の江戸やその道中の風俗を、著者の地元である京・大阪と比較している。
  8. ^ ジャガイモナガイモ(長芋)、サトイモ(里芋)を主原料とした焼酎も存在する。これらは「芋」を使った焼酎であることには違いないが、通常、芋焼酎とは区別され、ジャガイモ焼酎、長芋焼酎、里芋焼酎などと呼ばれる。したがって、芋焼酎といえばサツマイモを主原料とした焼酎と考えてよい。
  9. ^ 静岡県榛原郡白羽村は、御前崎村と合併し、1955年に御前崎町が設置された。
  10. ^ 1954年、茨城県那珂郡前渡村の一部は那珂湊町に編入され、前渡村の残部は勝田町に編入された。

出典

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