文久元年 (かのととり 辛酉)
年(年号) | |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 |
1861年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/02 06:20 UTC 版)
1861年(1861 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
- 1 1861年とは
- 2 1861年の概要
1861年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/02/28 14:26 UTC 版)
「マナサスギャップ鉄道」の記事における「1861年」の解説
マナサスギャップ鉄道はストーンウォール・ジャクソン(当時大佐)のボルチモア・アンド・オハイオ鉄道襲撃(Great Train Raid of 1861)において重要な役割を果たした。このときボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の機関車67両、客車・貨車386両が鹵獲あるいは破壊され、うち機関車19両と客車・貨車少なくとも60両が南軍側の鉄道に移送されている。鹵獲した機関車の中で、ウィンチェスター・アンド・ポトマック鉄道(Winchester and Potomac Railroad)の薄いレール(16.5ポンド/ヤード)でも使用可能と思われる比較的軽量の4両が選ばれ、直ちにウィンチェスターに送られ、近くのコリアー砦(Fort Collier)で解体して特殊な台車と馬車をとりつけ、40頭の馬でマナサスギャップ鉄道のストラスバーグ駅まで運ばれた。最終的には、鹵獲した機関車、客車・貨車のほとんどがマナサスギャップ鉄道で使用された。 1861年の夏、マナサスギャップ鉄道は、戦闘のための軍隊移動に使われた最初の鉄道となった。ジョセフ・ジョンストン(当時准将)のシェナンドー軍は、ウィンチェスターからアシュビーギャップ(Ashby Gap)を越えてピードモントまで25マイルを徒歩で行軍し、そこから34マイル先のマナサス・ジャンクションまで列車で移動して第一次ブルランの戦いに参加し、南軍勝利の一因となった。
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1861年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/26 09:49 UTC 版)
「シェナンドー軍 (北軍)」の記事における「1861年」の解説
1861年、ロバート・パターソンを司令官として、ペンシルバニア軍管区(Department of Pennsylvania)の部隊から構成されるシェナンドー軍と制式命名された軍が誕生した。1861年夏、北軍アービン・マクドウェル准将の北東バージニア軍管区(戦闘勢力は28,452名)はワシントンD.C.にあり、40km離れたマナサス(ブルラン)にあった南軍P・G・T・ボーリガード准将の部隊(戦闘勢力21,883名)に対峙ししていた。一方、北軍シェナンドー軍18,000名は、南軍ジョセフ・ジョンストン准将の12,000名とシェナンドー渓谷で戦い、ボーリガード軍を援護させないようにしておく任務を与えられていた。1861年7月2日、シェナンドー軍の内、ジョン・アバクロンビー(John Joseph Abercrombie、パターソンの義理の息子)とジョージ・ヘンリー・トーマスの率いる2個旅団が、ホークスランの小規模な戦いに勝利した。しかし、軍団の残りの部隊は戦闘にはほとんど加わっていない。結局ジョンストンの合流阻止には失敗し、7月21日に起こった南北戦争最初の大会戦である第一次ブルランの戦いで北軍が敗北する原因となった。その責任を問われ、陸軍総司令官であるウィンフィールド・スコットの命令によってパターソンは解任され、軍も解散した。
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1861年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 06:10 UTC 版)
詳細は「1861年」を参照 1861年4月12日 - 1865年4月9日 - アメリカ南北戦争。 1861年 - 1870年 - イタリア統一戦争。 2月4日 - アメリカで南部7州がアメリカ南部連合を設立、独立を宣言。 3月17日 - ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世によるイタリア王国の成立宣言。 3月28日(文久元年2月19日) - 元号が万延から文久に改元。 4月12日 - 南軍が連邦のサムター要塞を攻撃、アメリカ南北戦争の開始。フランス、コーチシナ戦争によりベトナム南部占領。 6月25日 - オスマン帝国第32代皇帝アブデュルアズィズ即位 11月11日 - 清の第10代皇帝同治帝即位し、母西太后による摂政政治始まる。 12月8日 - フランスによるメキシコ出兵
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1861年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 18:13 UTC 版)
1861年のサロンには、エドゥアール・マネが『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』で初入選し、『スペインの歌手』は優秀賞を受賞した。この頃、マネ、アルフォンス・ルグロ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、カロリュス=デュラン、フェリックス・ブラックモン、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーといったポスト・レアリスムといえる画家たちのグループが形成されてきて、造形表現の革命を起こしていくことになる。 エドゥアール・マネ『スペインの歌手(英語版)』1860年。油彩、キャンバス、147.3 × 114.3 cm。メトロポリタン美術館。 ジャン=ルイ=エルネスト・メソニエ『絵画愛好家たち』1860年。木、油彩、マホガニー、35.5 × 28.5 cm。オルセー美術館。 ジャン=フランソワ・ミレー『ミルク粥』1861年。油彩、キャンバス、114 × 99 cm。マルセイユ美術館。
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1861年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/30 23:05 UTC 版)
1861年 - ガブリエル・ド・ラ・ランデルとギュスターヴ・ポントン・ダメクールが、蒸気機関を積んだヘリコプターの模型を試作する。 6月11日 - アメリカ合衆国のタデウス・ローが気球からの通信を行う。ローは北軍気球司令部操縦士長に選ばれ、南北戦争で活躍した。 8月3日 - 南北戦争でアメリカ海軍の蒸気船 Funny から民間の気球乗りのジョン・マウンテン(John La Mountain)が偵察のための浮揚をした。
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1861年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 20:41 UTC 版)
1861年10月21日 (文久元年9月18日)に発生した被害地震。震央位置と規模は研究者によって異なり、宇佐美(1987)は、141.150E, 38.55N M6.4としているが、羽鳥(1957)は宮城県沖 142.0E, 38.20N M7.4 としている。渡辺偉夫(1993)は羽鳥(1957)の推定を支持し宮城県沖であったとしている。
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「1861年」の例文・使い方・用例・文例
- 南北戦争の間の2つの戦いのどちらか(1861年および1862年)
- 南部の州で、1861年に米国から脱退した
- イギリスのビクトリア女王の皇配(1819年−1861年)
- 英国の詩人で、その夫ロバート・ブラウニングに対して書かれたラブソネットでよく知られる(1806年−1861年)
- 英国の生化学者で、ビタミンの発見につながった先駆的な研究をした(1861年−1947年)
- ベルギーの建築家で、アールヌーヴォー建築の先導者(1861年−1947年)
- 記念碑の女性の裸体像のフランスの彫刻家(1861年−1944年)
- オーストラリアのオペラのソプラノ(1861年−1931年)
- アイルランドのダンサー(1818年−1861年)
- 米国の教育者(カナダ生まれ)で、バスケットボールの試合を考案した(1861年−1939年)
- 北極のノルウェーの探検家で、第一次世界大戦の避難民のための国際連盟リリーフプログラムのディレクター(1861年−1930年)
- 米国の発明者で、安全装置付きのエレベーターを初めて製造した(1811年−1861年)
- 米国の芸人で、喜歌劇の役柄で知られる(1861年−1922年)
- 米国のオペラのコントラルト(1861年−1936年)
- フランスの劇作家(1791年−1861年)
- ウクライナの詩人(1814年−1861年)
- オーストリアの哲学者で、人智学の基礎を築いた(1861年−1925年)
- インドの作家で哲学者で、(伝統的なヒンズー教の主題に基づく)彼の詩がベンガル語の口語の使用の先駆けとなった(1861年−1941年)
- 米国の歴史家で、アメリカ史における西部の辺境の役割を強調した(1861年−1951年)
- 英国の哲学者、数学者で、バートランド・ラッセルと協力した(1861年−1947年)
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