人物・思想
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保守の立場からの政治的意見の表明をしばしば行っており、2011年のフジテレビ騒動に際しては自らTwitterでフジテレビ批判派を支持するツイートを積極的に発信した。深水は一連の騒動を「民主党政権(当時)が日本人以外の利益を図るかのような政治を行い、マスコミが韓国を特別扱いする偏向報道を流す中で、日本を日本人の手に取り戻そうとする一般人が行った『日本レコンキスタ運動』の一環であり、フジテレビ抗議デモ(フジデモ)は『愛国心の象徴』である」と述べた。 またテレビ・新聞などの既存メディアを「世論誘導やブーム捏造ばかりで自分たちに都合の悪いことは報じない」と批判する一方で、フジデモの発信源となったインターネットについては「まだまだ未熟でデマも多いが、真実を瞬時に伝えてくれる」「ネットは情報ソースの呈示を常に求められるので、ソースのあやふやな情報は自然に止まる」と論じ、既存メディアに対抗し得るものとして評価している。 擬人化した大日本帝国海軍の艦艇(軍艦)を集めて育成するブラウザゲーム「艦隊これくしょん -艦これ-」のプレイヤーである。山形新聞に寄稿している連載コラムで同ゲームを紹介した際には、キャラクターやイベントに史実を散りばめている点を大きな魅力として挙げている。また自分が学生の頃は靖国神社の遊就館に展示されているゼロ戦の話をするだけで右翼扱いされたが、今は学生が艦これに絡めて史実の戦艦や戦争の話をするようになっており隔世の感があると述べ、このゲームは「フラットな歴史観」を持たせるきっかけになるかもしれないと論じている。
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人物・思想
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戦争と女性の人権博物館や日本の戦争責任資料センターの主催するシンポジウムなどで講師やパネリストを務めている。 朴裕河の著書『和解のために』と和田春樹や上野千鶴子などそれを評価する人たちを「彼女たちの主張は被害者証言・性奴隷状態を軽視し、あまりにも国家中心・男性中心。植民地主義への批判が欠落し、被害と加害を同列化している。」と批判した。 朴裕河の「帝国の慰安婦」を批判しており、 朴と彼女を支持する日本のリベラル知識人による過度な韓国民族主義に対する疑念については「朴裕河の著書を支持する日本の進歩(リベラル)知識人のあまりに深刻な(退行的)動き」と指摘し、むしろ彼らこそが「深刻な人類普遍の問題を民族主義問題に縮小歪曲し焦点を曇らせている」と非難している。 日本・中国・韓国の研究者が編集した学校副教材『未来をひらく歴史』の執筆者である。詳細は「未来をひらく歴史」を参照
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人物・思想
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23歳の時伊勢の津に出て斎藤拙堂に師事、津藩は二酉(蔵書の多いこと)で知られ、典籍係の川北梅山は中洲が書籍を返すたびに「もう読んだのか!」と驚いたという。ここで5年学び、15種の著作を残し「備中に三島遠叔あり」と評判になる。後に「余の学、半ば津に成る」と述べている。 維新後松山藩は朝敵と見なされ藩の減封(5万石から2万石)、士族の減禄などが他藩より厳しく行われ、士族の困窮は甚だしかった。これを救済するため、中洲は板倉勝静、板倉勝弼、川田甕江らと諮り明治12年(1879年)、板倉家の財産と諸藩士の禄券(金禄公債証書)を合わせて資本金として第八十六国立銀行を高梁に設立した。 長男の三島桂は、実業家で、第八十六国立銀行の取締役に明治30年(1897年)1月から6月まで、また八十六銀行の取締役には同年7月から翌年11月まで就任していた。三男の雷堂(1878-1924)は、教育者。名は復。字は一陽。東京帝国大学文科を卒業後、二松学舎で教鞭を執った。著書に「陸象山哲学」「陸王哲学」「哲人山田方谷」など。『高梁古今詞藻』に詩を残している。桂の長男である三島一は、東洋史学者。東京帝国大学東洋史学科を卒業後、二松学舎や専修大学などで教鞭を執った。歴史学研究会などの代表を務めた。 弟子である山田準に済斎の号を授け後に二松學舍専門学校の初代校長となる。済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島に学んでいる。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった。 御雇外国人のボアソナードとも親交があり、彼がフランスに帰国する際には『君不見日本帝国位東洋 山川秀麗風俗良 攻玉更資他山石 採漢取洋不問方(君見ずや日本帝国東洋に位す 山川秀麗風俗良し 玉を攻き更に資す他山の石 漢に採り洋に取り方を問わず)』という漢詩を彼に贈っている。
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人物・思想
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同時代人によって多くの奇行録・奇談が伝えられる。例えば、芸者と昼遊びをしたあと、下半身を往来に向けて出したり、紙幣を100枚ほどばらまいて芸者たちに拾わせては「ああ愉快愉快」とやるような破天荒な人物だったとされる。 帝国憲法発布に狂喜乱舞する民衆の様子を「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水にため息をついた。
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人物・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:20 UTC 版)
80年代までの正統思想だったマルクス主義・唯物史観の知見を踏まえつつも囚われず、西洋哲学・人文学を広く援用した。 同世代の龐朴(中国語版)らと同様に、「新儒家」に属さない立場から儒教を再評価した。ときには新儒家の一人に位置づけられることもあったが、李沢厚自身はそのような位置づけを望んでいなかった。 李沢厚が中国で果たした役割は、戦後日本で丸山眞男が果たした役割に匹敵する、と評される。李沢厚自身、丸山の著作を積極的に受容・紹介していた。1989年3月には、李沢厚自身の希望で、近藤邦康の仲介により、丸山との来日対談が行われた。 李沢厚は魯迅・章炳麟なども再評価した。 中国には分析哲学的手法が必要であるとも述べていた。
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人物・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 21:33 UTC 版)
静岡県掛川市出身。高校時代は柔道部。大学で空手部に入り、たまたま全学連の左翼と喧嘩している風景がNHKのテレビで流れた。生前の評論家、西部邁と交流が深く思想の共通点はスペインの哲学者オルテガの実存主義がベースになっている。また、吉田松陰の草莽崛起を政治活動の核にしている。保守的な考えを基軸にし、左翼的な考え方を一貫して非難するが、親米保守に代表される戦後の保守思想の歪みについても批判的であり、新しい保守の潮流の可能性についての主張を主に展開する。座右の銘は、自身の尊敬するドイツの作家トーマス・マンの「DURCHHALTEN=持ちこたえること」。
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人物・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 10:31 UTC 版)
熱狂的な広島東洋カープファンであり、代表作である『はだしのゲン』にもカープが登場するほか、カープをテーマにした『広島カープ誕生物語』などの作品がある。『はだしのゲン』や『広島カープ誕生物語』には球団草創期における熱狂的なカープファンの常軌を逸した様子も描かれている。中沢は球場観戦も好きで、よく妻をカープ観戦に連れて行っており、カープ見たさに甲子園球場へ出向くほどだった。そんな中沢の影響で結婚するまでカープに興味がなかった妻・ミサヨも、一緒にラジオを聴いたり観戦するうちにファンになっていった。 2011年8月にマツダスタジアムで「ピースナイター」として開催されたカープ対巨人戦では始球式を務めている。中沢は「カープのグラウンドで始球式できるとは夢にも思わなかった。こういうとき(東日本大震災発生から間もない、2011年8月)に野球をやると不謹慎と言われるけど、平和だからできることを喜ばないと」と語っている。 被爆者でありながら、悲惨な被爆体験のため、2010年(平成22年)まで、広島市主催の平和記念式典に出たことはなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」 と述べている。 広島平和記念式典については、やらないよりはやった方がいいとは思っていたが、被爆体験への忌まわしさと戦争責任を追及しない内容に「あんな白々しい式典で、あの原爆地獄の苦しみと怒りと、悲しみが、鎮められるかっ」と中沢自身は参加したことはなかった。しかし、広島市から招待され、2011年に「今生の別れのつもりで」と初めて出席した。中沢は戦争を引き起こした戦犯の人形を並べ、市民が石をぶつける式典なら喜んで参加したいと述べている。 中沢の漫画は、妻に手伝ってもらう他には一人で描いていた。これは中沢がアシスタントを雇って作業する方法を嫌っており、自分一人で描くというポリシーを持っているためである(ただし週刊誌連載時には、2人のアシスタントに手伝ってもらっていた)。そういった中沢のこだわりもあり、違う職業の人としか顔を合わせないこともある。理由は、原爆漫画家と同業者からレッテルを貼られていることが不快で、自分の顔を見られることが嫌だからと語っていた。 国家元首だった昭和天皇の戦争責任を主張しているため、戦後も昭和天皇を激しく批判し、昭和時代は天皇制の廃止を強固に求めていた。戦後も戦争責任を取らず退位もしなかった天皇に対する中沢の怒りは、一切の妥協を許さないまでに厳しく、広島に行幸した天皇を指して『人間の神経をもたない冷血人間』『厚顔破廉恥な野郎』と評するほどであった。中沢いわく、「天皇や軍部はポツダム宣言を無視し、その結果、広島・長崎で多くの人が亡くなった。なのに戦後、天皇が広島に来た時には日の丸を振るように学校で言われた。なぜ万歳なのか。今でも腹の中が煮えくり返る思いがある。日本人は甘いと思う」、「天皇ヒロヒトと皇族を助けるために広島と長崎は犠牲にされたのだ」。ポツダム宣言で天皇制が保証されていないことで即座に受諾しなかった天皇の責任性を指摘しており、また、日本の戦争責任者の昭和天皇が生き延びたこととイタリアの戦争責任者のベニート・ムッソリーニが逆さ吊りにされ、イタリア国民に石を投げつけられた末路と正反対であることを比較している。しかし中沢は作中で天皇制批判を描いても嫌がらせがなく拍子に抜けたと言い、自伝や週刊誌や新聞で天皇制批判を載せている。『はだしのゲンへの手紙』では読者の「天皇は憎いですか?」という質問に対し、「天皇の名によってアジアで2000万人、日本では300万人も殺された、私は天皇が憎い」と返答しており、『はだしのゲン 自伝』で沖縄に米軍駐留を申し出た天皇に対して激しい怒りを露わにしているものの、(『はだしのゲンへの手紙』で)1975年(昭和50年)の日本記者クラブで秋信利彦(中国放送記者)の質問の返答で昭和天皇が「戦争中のことだからやむを得ない」と失言したことに対しては悪意がないためか、激しい批判は描かず「被爆者に対して土下座して謝って欲しかった」と述べている。 原爆投下の当事者のアメリカに対し怒りを持っており、原爆投下をしたアメリカにはナチスドイツのホロコーストを批判する資格はないと述べており、自伝で原爆を落としたアメリカが憎くて仕方がなかったと述べている。アメリカの原爆投下について『黒い雨にうたれて』では「勝てば官軍、負ければ賊軍、でも勝手すぎる」、『はだしのゲン』では「喧嘩両成敗」と主張している。ただし、アメリカの国力と文化に対しては敬意を示しており、ウォルト・ディズニーの白雪姫が戦前のカラー映画であることに気が付き舌を巻いたという。また、戦後アメリカに訪問しており、ダラスでアニメ『はだしのゲン』の上映を見たり、スミソニアン博物館を見学した際、ピカピカに磨かれたエノラ・ゲイが展示されていることに嫌悪感をあらわにしており、アメリカの在郷軍人協会関係者と原爆問題について議論している。更にニューメキシコとネバダの核実験場、テニアン島を訪れ、原爆不要論を唱えるアメリカ人のピーター・カズニック歴史学教授とも交流がある。中沢は常に「真珠湾を忘れるな」と原爆投下を正当化するアメリカに対し、戦争と核兵器の恐ろしさを知って欲しいと訴えており、アメリカの児童や大統領のバラク・オバマおよびその子女に英語版『はだしのゲン』を読んで欲しいと述べ、実際に贈呈しているが、オバマ一家の手元には届かなかったようである。中沢の死後、2009年のプラハ演説に触発されて、オバマに宛てた広島・長崎への訪問(原爆資料館視察と被爆者との対話)を促す内容の手紙(オバマと交友のあるアメリカ在住の女性に送っていた)が見つかっている。 「原爆しょうがない」発言で辞任した、久間章生に対して「恥ずかしくて大臣を続けていられなかったんでしょ。『はだしのゲン』でも読んでほしいね」と、皮肉たっぷりに述べた。 日中関係に対しては平和交流を期待しており、「日本人が被害者ぶるのではなく他の国で何をしたのかも知っておく必要がある。南京虐殺の資料が出てくると、なんと日本人が酷いことをしたのかというのが出てくる。申し訳ない気持ちでいっぱいになります。」と述べている。 ソビエト連邦が当時構成国だったカザフスタンのセミパラチンスク核実験場で、核実験を行ったことを批判している。 原爆を題材とする反戦漫画家のイメージが強いが、『はだしのゲン 戦後編』『ユーカリの木の下で』と並行して『げんこつ岩太』のようなバイオレンス・ギャグ漫画を描くなど、作風は幅広い。キャリア前半は『超艦不死身』などの戦記漫画や、ハードボイルドタッチのアクション作品も数多く執筆していた。また、『グズ六行進曲』『お好み八ちゃん』など、主人公が一人前の職人や調理師などを目指して努力する「仕事シリーズ」や、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』などの怪獣映画のコミカライズも多数手掛けている。
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人物・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:54 UTC 版)
ペンスはカトリックの家族で育てられ、侍者として奉仕し、教区の学校に通った。 彼は大学で生まれ変わったクリスチャンになり、超教派のクリスチャン学生グループのメンバーとなった。 具体的には1978年春にケンタッキー州アズベリーカレッジでのクリスチャンミュージックフェスティバル「イクサス音楽祭」で彼は「キリストへの献身」すなわち福音主義者となる事を決断した。ペンスはその後もカトリックのミサに出席し続け、カトリックのユースミニストリー(教会で子ども達に宗教教育を行うボランティア)の働きをした。 ペンスは1994年のニュースで彼自身をカトリック教徒と称したが、1995年から彼と彼の家族は福音派のメガチャーチであるグレース福音教会に参加した。 彼は自分を「クリスチャン」「保守派」「共和党」「生まれ変わった福音主義的なカトリック教徒」と表現している。 地元であるインディアナ州のカトリック系名門ノートルダム大学で、ペンスが卒業式のスピーチを始めた直後、学生数十人が抗議のため会場を後にした。ペンスはスピーチのなかで、アメリカの大学のポリティカル・コレクトネスを批判し、「アメリカ中でヘイトスピーチ規制やセーフゾーン、トーン・ポリシング、大学側が課すポリティカル・コレクトネスが横行してる。それらすべては言論の自由の抑圧に他ならない」「このようなありふれた慣行は、学びや知識の追求にとって破壊的であり、アメリカの伝統の完全に範疇外にあるものだ」と語った。 副大統領としての職務を行う上で指針としている聖句には、旧約聖書のエレミヤ書29章11節を挙げている。 一家が飼っているウサギのマーロン・ブンドは、Instagramアカウントが人気となり、主人公とした児童書がベストセラーとなった。
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人物・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:16 UTC 版)
日蓮の御義口伝に由来する、「桜梅桃李一時之春」という句を愛誦し、これを教育精神としていた。実際に、1917年創立の甲陽学院中学校・高等学校は、この「桜梅桃李」の精神を建学の精神とし、学級名も桜、梅、桃、李とした。また、「明朗にして溌剌無邪気の青年を育てたい」と著書に表しており、「明朗溌剌無邪気」は甲陽学院の教育理念となっている。
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人物・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 01:56 UTC 版)
北朝鮮からの避難民の息子として生まれる。慶煕大学在学中の1975年、朴正煕政権に反対する民主化運動に関わった容疑で逮捕され、ソウル市の西大門刑務所に収監された。弁護士として市民運動や人権運動に参加したのち、盧武鉉政権で大統領側近として活躍した。その後、国会議員に当選、新政治民主連合代表や共に民主党代表を務めた。2012年12月19日の大統領選挙では朴槿恵に惜敗したが朴槿恵韓国大統領弾劾訴追に伴う2017年5月9日の大統領選挙で当選し翌5月10日に大統領に就任。 身長は172cm、体重は67キロ(2017年時)、血液型はB型である。趣味は読書、登山、囲碁。好きなスポーツはスクーバダイビングやスキンダイビング。信仰はローマ・カトリックである。好きな食べ物は刺身や海産物、座右の銘は「困難な時ほど原則に戻れ」。尊敬する人物は丁若鏞、世宗大王、フランクリン・ルーズベルト。好きな芸能人は歌手のイ・ウンミ(朝鮮語版)、俳優のソン・ガンホ。好きな映画は、「王になった男」。幼少期の夢は歴史学者だった。息子をアメリカに、娘を日本に留学させている。 ・「左派」(読売新聞・産経新聞・新京報)、「反米・親中」(産経新聞)、「反日・親北」(産経新聞)、「従北」(産経新聞・夕刊フジ)、「革新」(時事通信・公明党)、「リベラル」(CNN)、「中道左派」(日本共産党)など、異なる性向のメディアによる見方が様々である。「従北」というレッテルについて文は「特殊戦司令部出身の私に従北という人たちが本当の従北」と中央日報の取材で述べている。エスパー元国防長官は「文在寅政府は日本より北朝鮮と異見をさておいてさらに対話しようとする意志があるように見えた。これは問題だった」と回顧録で指摘し、在韓米軍完全撤収を提案していたトランプ大統領(当時)も韓日葛藤を「おぞましい」と表現していたことを明かしている。文在寅政権が2019年の韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄決定をエスパーは「(韓日間の不和で)北朝鮮や中国が利益を得ている」とし、トランプ大統領は韓米同盟を「こうも偉大な同盟に価値があるのか」と皮肉っていた。 その半生は保守派との闘争に彩られているが、保守主義全般については必ずしも否定的ではなく、保守思想を「家族、国家と民族、共同体をより大事にし、そのために犠牲になり献身するもの」と肯定的に定義している。2012年大統領選挙の時には参拝を忌避した顕忠院を2017年4月に訪問し、李承晩、朴正煕の墓地を順に参拝しており、芳名録に「国民全ての大統領!」と書いている。「真の保守」と「偽保守」と分け、「偽保守」を批判している。 2012年1月にバラエティ番組に出演した際、メディアにつけられたニックネームの中でもっとも気に入っているのは「盧武鉉の影法師」であると語り、「盧武鉉大統領が亡くなっていなければ政治の道に入ることはなかっただろう」と述べた。
※この「人物・思想」の解説は、「文在寅」の解説の一部です。
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