核実験場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 05:05 UTC 版)
ノヴァヤゼムリャは、冷戦時代に軍事的に重要な拠点であった。ソビエト空軍は島の南部にロガチェボ空軍基地を置き、初期にはインターセプター機を配備した。その後(1955年 - )は、核実験のための戦略的な支援施設となった。ソビエト連邦は冷戦の最中の1954年6月に、ノヴァヤゼムリャを核実験場とすることを宣言し、同年10月には早々に実験場の建設に着手している。現在もロシア連邦の核実験場として使用されている。現在まで、臨界前核実験などの未公表実験を除き、約224回程度の核実験が行われている。 Zone A (Chyornaya Guba) は、1955年 - 1962年の間及び1972年 - 1975年に使用された。Zone B (Matochkin Shar) は、1964年 - 1990年間に地下実験に使用された。Zone C (Sukhoy Nos) は、1958年 - 1961年間に使用された。中でも1961年の核実験では、史上最高の50メガトン級の水素爆弾・ツァーリ・ボンバの爆発実験が行われた。この時に出された死の灰はジェット気流に乗って日本にも飛来した。その他にも、ノヴァヤゼムリャ島の箇所箇所で実験は行われている。 1963年の大気圏内での核実験が制限された後、1973年9月12日に最大級の地下核実験(4.2メガトン)が行われた。ツァーリ・ボンバや他の大気圏内の核爆発実験に比べ、爆発エネルギーははるかに小さいものであったが、マグニチュード6.97の相当の揺れ(人工地震)を引き起こすに至った。8千万トンの氷河の地すべりが起き、2kmの長さの湖が出来上がった。 224回にも及ぶ核実験の総爆発量は、265メガトンにもなる。これは、第二次世界大戦で使用された弾薬量の総量(広島、長崎2つの原子爆弾の総爆発量を含む)の2メガトンをはるかに超える。 1988年 - 1990年になると、グリーンピースなどの環境保護団体等により、同地での核実験反対運動が起こり、また、冷戦構造の変化や、ソビエト連邦の崩壊、社会、財政の混沌などの理由から、1990年に行われた核爆発実験が最後のものとなった。 しかし、1998年になると原子力エネルギー庁による臨界前核実験が毎年秋に行われるようになった。但し、この実験は核兵器用プルトニウム100gまでの実験である。
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