かく‐へんかん〔‐ヘンクワン〕【核変換】
核変換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/22 08:49 UTC 版)
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核変換(かくへんかん、英: nuclear transmutation、核種変換ともよばれる)とは、原子核が放射性崩壊や人工的な核反応によって他の種類の原子核に変わることを言う[1]。元素変換(英: transmutation of elements)、原子核変換とも呼ばれる。
使用済み核燃料に含まれる半減期が極めて長い核種を、短寿命の核種に変える群分離・核変換技術により、環境負荷を低減する研究開発が進められている。
概要
化学において、化学結合で結ばれた原子群である分子は基本的な要素の一つであるが、化学反応によってその分子の構成は比較的容易に変化する。一方、その分子の構成要素である原子(の原子核)もまた核力で結ばれた陽子と中性子の群でしかないため、分子同様、原子もその構成(核種[2])は、分子ほど容易ではないものの[3]、変化することがある。この原子の原子核の構成の変化(核種の変化)を核変換(nuclear transmutation)と呼ぶ。
原子核物理学において基本的な現象である放射性核種が放射線を放出して別の核種へと変わる放射性崩壊は核変換の一種であるが、純粋に人工的な核変換は、1932年のコッククロフトとウォルトンによる、加速器を用いた核種の変換の成功に始まる[4]。なお、核分裂反応、核融合反応も核変換の一種である。
核変換によって生成される代表的な物質としてはプルトニウム239がある[5]。
なお、元来、原子を構成する核種の半減期は環境変化の影響を極めて受け難い物理量であり、古典物理学的・化学的な手法では半減期を変化させる(その核種を核変換させる)ことはできないと考えられていたが、近年になって、極端な状態においてようやく1%程度というものであるが、高圧、電磁場あるいは化学構造などによって、半減期が変化する(核変換が発生する)ということが明らかとなっている[6][7]。
原子炉の使用済み核燃料からなる高レベル放射性廃棄物は様々な核種を含んでいるが、その一部は、天然ウランレベルの放射能まで減衰するのには数万年のオーダーの時間がかかる超長寿命の核種である。プルサーマルや核燃料サイクルを経て出てくる放射性廃棄物から、超長寿命核種であるマイナーアクチノイド(MA)[8][9] や核分裂生成物(FP)を群分離した上で、数百年単位の短寿命核種または安定核種に核変換する技術(核変換技術、かつては消滅処理)の研究開発が1970年代から[10] 進められている。
歴史
1901年、フレデリック・ソディはトリウムがラジウムへと自然に放射性崩壊(アルファ崩壊)することを発見した。彼はすぐさまこの発見を同僚のアーネスト・ラザフォードに報告した[11]。
1919年、ラザフォードは窒素にアルファ粒子を照射することによって酸素に核変換(14N + α → 17O + p. )することに成功した。これは核反応(ある物質の放射性崩壊により放出された粒子が他の原子核を変換する反応)を観測した世界初の出来事であった。
1932年には、ついに完全に人工的な核反応かつ核変換がラザフォードの同僚であるジョン・コッククロフトとアーネスト・ウォルトンによって達成された。彼らは陽子を人工的に加速し、リチウム7へ照射し、二つのアルファ粒子へ分裂させた。また同年、マーク・オリファントは二つの重水素を加速衝突させることでヘリウムを作り出す、人工的な核融合に成功した[12]。
1938年には、オットー・ハーン、リーゼ・マイトナー、そして助手のフリッツ・シュトラスマンは核分裂反応を発見した[13]。
1942年、エンリコ・フェルミを中心としたシカゴ大学の研究チームが世界最初の制御核分裂連鎖反応を成功させた。
核変換技術(消滅処理)
比喩として、化学において、化学物質である青酸カリ(KCN)は人体にとって強力な毒性を持つものであるが、チオ硫酸ナトリウム(Na2S2O3)と化学反応させることで、化学構造が変化し、より毒性の低い化学物質にすることができる。
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(化学式)
核変換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 04:23 UTC 版)
1925年、パトリック・ブラケットは窒素にアルファ粒子を衝突させることで酸素への核変換を実現した。核種を現代的な記号で表せば次のような反応だった。 147N + 42He → 178O + p 核反応、すなわち、ある原子核崩壊によって放出された粒子が別の原子核を変換させる反応が確認されたのはこれが初めてだった。完全に人工的な核反応と核変換は1932年4月にアーネスト・ウォルトンとジョン・コッククロフトによって実現した。二人は人工的に加速させた陽子によってリチウムを二つのアルファ粒子に分かれさせた。この偉業は一般に「原子の分割」として知られたが、内部的な放射性崩壊過程を誘発したわけではないので核分裂反応とは異なる。コッククロフトとウォルトンの偉業よりほんの数週間早く、キャヴェンディッシュ研究所に所属するもう一人の科学者ジェームズ・チャドウィックが、封蝋で作られた精巧な器具を用いて、ベリリウムとアルファ粒子の間の以下のような反応を通じて中性子を発見した。 94Be + 42He → 126C + n イレーヌ・キュリーとフレデリック・ジョリオはアルミ箔にアルファ粒子を照射し、半減期3分ほどの短命なリンの放射性同位体が生成することを発見した。 2713Al + 42He → 3015P + n 生成物はさらなる崩壊によってケイ素の安定同位体になる。 3015P → 3014Si + e+ キュリーらは中性子の放出が止んでからも放射能が残っていることに気づいていた。二人は陽電子放出という新しい形の放射性崩壊を発見しただけでなく、ある元素を別元素のそれまで知られていなかった放射性同位体に変換し、それによって元の元素が持たなかった放射能を発現させたことになる。核変換の発見により、特定の重元素に限定されていた放射化学は周期表全体に拡張された。 チャドウィックは、電気的に中性である中性子は陽子やアルファ粒子よりも容易に原子核を貫通するだろうと述べた。ローマのエンリコ・フェルミとその同僚たち(エドアルド・アマルディ、オスカー・ディアゴスティーノ(イタリア語版)、フランコ・ラゼッティ、エミリオ・セグレら)はこのアイディアを取り入れた。ラゼッティは1931年にマイトナーの研究室を訪ねたことがあり、中性子発見後の1932年に再訪してポロニウム−ベリリウム中性子線源の作成法を教わった。ローマに戻ったラゼッティはガイガー計数管とマイトナーの霧箱の複製を作成した。フェルミは当初、チャドウィックとキュリーがそうしたようにポロニウムをアルファ線源として中性子源を構成するつもりだった。アルファ線源としてはラドンの方が強力だったが、同時にベータ線とガンマ線を発生するため室内の検出機器を大きく誤作動させる恐れがあった。しかし、ラゼッティがポロニウム−ベリリウム線源を作成する前にイースター休暇に行ってしまい、残されたフェルミはあることに気が付いた。興味があるのは反応が終わった後の物質なのだから、中性子線の照射とは別の階で放射線の検出を行えばいいのである。この種の中性子源はベリリウム粉末をカプセルに封入するだけですぐ作れた。さらにラドンは入手が容易だった。ジュリオ・チェーザレ・トラバッチは1グラム以上のラジウムを所有しており、それが生成するラドンを快くフェルミに提供してくれた。ラドンはラジウムから絶え間なく生成するうえ、半減期が3.82日しかないので取っておいても無駄になってしまう。 フェルミらはまず水に対して、次に周期表の軽い側からリチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素と流れ作業のように中性子線照射を試していったが、いずれも放射能を示さなかった。アルミニウム、続いてフッ素で最初の成功が訪れた。最終的に22種の元素が中性子線照射による誘導放射能を示した。フェルミが論文の前刷りを送付した一握りの物理学者の中にマイトナーがおり、すぐにアルミニウム、ケイ素、リン、銅、亜鉛で追試を行って報告した。フェルミの論文が掲載された La Ricerca Scientifica 誌がコペンハーゲン大学にあるニールス・ボーアの理論物理研究所に届くと、そこの物理学者で唯一イタリア語を読めたオットー・フリッシュ(マイトナーの甥)は同僚から翻訳をせがまれることになった。ローマのグループは希土類金属の試料を持っていなかったが、ボーアの研究所ではゲオルク・ド・ヘヴェシーがアウエルゲゼルシャフト(英語版)社から提供された希土類金属酸化物を一そろい所有しており、それを使ってド・へヴェシーとヒルデ・レヴィ(英語版)が実験を行った。 当時知られていた一番重い元素であるウラン(陽子数92)にさしかかったところでローマのグループは困難に直面した。ウランは自然の状態でも彼らの中性子線源と同じくらい放射能が強かったのである。生成物には複数の半減期が複雑に共在していた。ソディ=ファヤンスの法則を頼りに(化学的性質が未知の元素は飛ばして)鉛、ビスマス、ラジウム、アクチニウム、トリウム、プロトアクチニウムの有無を確かめていったが、いずれも検出されなかった(それは正しかった)。フェルミは中性子線照射によって三種類の核反応が引き起こされたと書いている。アルファ粒子放出 (n, α) 、陽子放出 (n, p) 、ガンマ線放出 (n, γ) である。いずれの反応でも新しく生成した同位体はベータ崩壊を起こし、周期表を一つ上昇した。 生成物のうち、半減期13分のベータ放出体はレニウムに似た化学的性質を持っていた。フェルミは当時の周期表に基づいて93番目の元素がエカレニウム(周期表でレニウムの下に位置する元素)であり、マンガンやレニウムと似ていると信じていた。フェルミは中性子を捕獲したウランが一つ重い陽子数93の元素に転換したと考え、1934年6月に『ネイチャー』誌で発表した。論文ではそのような重元素の存在が疑問の余地なく立証できたとは書かれなかったが、「人工的な新元素の合成」は一般にも大きく報じられた。フェルミは陽子数93と94の2種類の新元素をそれぞれオーソニウムとへスペリウムと名付けた。現在の目からみると、フェルミらが検出した「93番元素」は当時未発見だったテクネチウムで間違いない。この元素は原子番号が43で、周期表ではマンガンとレニウムの間に位置している。 レオ・シラードとトマス・A・チャルマーズは、ガンマ線照射ベリリウムから発生した中性子がヨウ素に捕獲されることを報告した。この反応はフェルミも指摘していた。マイトナーはこの実験を追試する中で、ガンマ−ベリリウム線源からの中性子はヨウ素、銀、金のような重い元素に捕獲されるがナトリウム、アルミニウム、シリコンのような軽い元素には捕獲されないことを見出した。マイトナーは遅い中性子の方が速い中性子より捕獲されやすいと結論付け、1934年10月に Naturwissenschaften 誌で発表した。それまで誰もが中性子も高エネルギーの方が反応しやすいと考えていたのだが、その必要があるのはアルファ粒子や陽子のように原子核のクーロン障壁に打ち勝たなければならない場合だけだった。電気的に中性である中性子の場合、動きが遅く原子核の近辺にとどまる時間が長いほど捕獲される可能性が高くなるのである。その数日後、フェルミは同僚が見つけた奇妙な現象について考察していた。ウランを実験室のどこに置くかによって異なる反応が見られるというのだ。木製の実験台の上で中性子照射を行うと、同じ部屋にある大理石製の実験台で行うよりも強く放射能が誘発された。フェルミは一考の上、中性子線源とウランの間に一片の石ロウを置いてみた。放射能はこれによって劇的に強まった。フェルミは中性子が石ロウや木に含まれる水素原子と衝突したせいで遅くなったと考えた。そのころローマのグループから唯一の化学者だったダゴスティーノが、次いでラゼッティとセグレが離脱し、ただ二人残されたフェルミとアマルディは核変換の研究をあきらめて遅い中性子に注力することにした。 1934年当時に最先端だった原子核のモデルはジョージ・ガモフが1930年に初めて提唱した液滴模型である。ガモフの単純でエレガントなモデルはカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーによって、中性子の発見を挟んで1935年にはヴェルナー・ハイゼンベルクによって、さらに1936年にニールス・ボーアによって洗練されていき、実験事実と非常によく一致した。このモデルでは強い核力が核子を互いに結びつけ、最小体積の形状(球)を作らせる。核力は陽子間に長距離ではたらく静電的なクーロン反発力を上回るだけの強さがある。このモデルはエネルギー的な競合のもとでのパターン形成の理論として21世紀においても使われ続けている。1934年の時点でこの理論は、物理学者がすでに知っていると思っていたことを追認する役割を果たしていた。それは、原子核が静的なものであり、衝突によって核からアルファ粒子より大きい粒子が弾き出される見込みは実質的にゼロだということである。
※この「核変換」の解説は、「核分裂の発見」の解説の一部です。
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